無責任の伝統に反省をー最高責任者とは責任を引き受けるために存在する
- 2016年 10月 4日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
9月28日、小池百合子新都知事が就任後初めての都議会本会議で所信を表明した。その演説は、都民の関心に応えて移転予定の豊洲市場の盛り土問題から始まった。盛り土されているはずの主要各棟の地下に、巨大空間が拡がっていることが明らかになっていることの責任問題である。
豊洲市場の移転に関する一連の流れにおいては、都政は都民の信頼を失ったと言わざるを得ません。「聞いていなかった」「知らなかった」と歴代の当事者たちがテレビカメラに答える姿に、多くの都民は嘆息をもらしたことでありましょう。
そう知事は、話を切り出している。「聞いていなかった」「知らなかった」と都民を嘆息させている「歴代の当事者」の筆頭は、「伏魔殿の主」石原慎太郎である。
この失った信頼を回復するためには、想像を超える時間と努力が必要であります。責任の所在を明らかにする。誰が、いつ、どこで、何を決めたのか。何を隠したのか。原因を探求する義務が、私たちにはあります。
そのとおりだ。きちんと責任を明確にせよ。多くの都民が、「歴代の当事者たち」に対する新知事の厳格な責任追及姿勢に期待している。新しい知事は手が汚れていない。その手がきれいなうちなら、伏魔殿の闇に光を当てて大掃除をしてくれるだろう、という期待である。きっと、雑魚だけではなく伏魔殿のヌシをあぶり出し、網にかけてくれるだろう、という期待である。
なお、都民の関心のひとつは、食の安全安心を実現すべきことであり、もう一つは現実に生じ始めている都の財政上の負担増に対する填補である。都の財政に穴を開けた者には、しっかりと穴埋めを求めなければならない。具体的には、このバカバカしい事態を招いた責任者の特定と、その責任者に対する都からの損害賠償の請求である。頭を下げたら済むという問題ではない。
ところが、9月30日の小池都知事の調査結果の発表は、いまいち迫力に欠ける。どこまでやる気があるの? と首を傾げざるを得ない。
「いつ、誰が、盛り土をしないことを決めたのか」――東京都が行った「自己検証」は結局、最後まで犯人を特定できなかった(日刊ゲンダイの表現)。知事は、「地下空間を設けることと、盛り土をしないことについて、段階的に固まっていったと考えられる。いつ、誰がということはピンポイントで指し示すことがなかなか難しい。流れの中で、空気の中で進んでいった」と言うのだ。
また、知事は、都議会・都民への説明責任が果たされてこなかった原因として「ガバナンスの欠如」「意思決定プロセスの不備」「連携不足」などを上げた、とも報じられている。
仮にそのとおりなら、これはすべからく都政の最高責任者である都知事の責任である。当時の知事石原慎太郎が、法的責任をとらねばならない。都に対する損害賠償の責めを負わねばならないのだ。
もちろん、人は、不可能であったことについては責任を問われない。考えにくいが、当時都知事として要求される十分な能力と注意力を発揮しても、この結果を回避できなかったという特別の事情があれば、石原の責任は阻却される。そのような事情がもしかしてあるとすれば、石原は公開の場で弁明し立証しなければなない。その弁明に成功しない限り、これから市場の移転が遅延することによって都が負担せざるを得ない公金の支出分を、個人として負担しなければならない。仮に豊洲移転が白紙撤回ともなれば、ムダになった公金支出分のすべてを賠償しなければなない。
再度「日刊ゲンダイ」から引用する。
「都庁役人は、このまま〈真相〉を闇に葬るつもりだ。どんなに「内部調査」を続けても真相は永遠に分からない。当時、知事だった石原慎太郎氏も逃げ切るつもりだ。もはや、真相を解明するには、都議会に関係者を「参考人」として招致し、さらに「百条委員会」を設置するしかないのではないか。」「すでに都議会共産党は、慎太郎氏など12人の参考人招致を要求しているが、都庁役人と都議会自民党は、絶対に参考人招致を阻止するつもりだ。」「都庁役人と都議会自民党が参考人招致を嫌がっているのは、盛り土だけでなく、豊洲市場の“談合”や“巨額利権”に飛び火する恐れがあるからです。ケガ人が続出しかねない。しかも、慎太郎氏は参考人として呼ばれたら、何を言い出すか分からない。何が何でも阻止するつもりです」(都政関係者)
この「都政関係者」が誰かは知らないが、いかにもありそうで頷ける話。私は、現知事を支持する立場にはないが、ここで徹底追及の姿勢を貫いていただきたい。手綱を緩めたら都民の批判が現知事に向かう世論の沸騰が予想される。
過ぐる大戦の戦争責任を考えねばならない。「誰がということはピンポイントで指し示すことがなかなか難しい。流れの中で、空気の中で戦争は進んでいった」のだ。そして、310万の自国の民と、2000万人という近隣被侵略諸国の民の犠牲を出した。自らの責任の自覚について問われた戦争の最高責任者は、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と言ってのけた。一億総無責任体制だった。
無責任な戦争責任体制は、戦後の原発開発に受け継がれた。無責任体制の中で、トイレのないマンションが54基も建設されたのだ。いまもって、「ピンポイントで指し示すことがなかなか難しい。流れの中で、空気の中で原発建設は進んでいった」のだ。責任の所在明確でないままに。
豊洲の問題は、戦争準備や原発建設の伝統であるこの国の無責任体質をあらためて浮かびあがらせた。「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりません」という言葉は、今再び慎太郎の口から「私は建築のイロハを知らないので、(地下の工法を)思いつくはずがない。素人だから他人任せにしてきた」と発せられているではないか。
知事とは、最高責任者である。一軍の将なのだ。兵の責任を語るのは見苦しい。将として敗戦の責任をとらねばならない。今の時代だ。腹を切る必要はない。無責任体制の実態を明らかにして、あとは金で済む問題。それも、今有している財産の範囲でのこと。そのときこの知事が大嫌いだった日本国憲法が身を守ってくれる。けっして、生存権を否定するような財産の剥奪はしないのだ。
(2016年10月3日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2016.10.03より許可を得て転載
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