原発事故から5年半の福島を見る - 遅々たる復興、進む荒廃 -
- 2016年 10月 13日
- 時代をみる
- 原発岩垂 弘福島
東京電力福島第1原子力発電所が東日本大震災で事故を起こしてから5年半たったのを機会に10月5日、原発事故被災地の福島県を訪れた。原発事故被災地・福島の現地見学は2015年2月、同年10月に次いで今回が3回目。被災地のごく一部を垣間見たに過ぎなかったが、今回の総体的な印象を言えば、「被災地の復興は遅々たるもので、むしろ一部では荒廃が進んでいる」という感じであった。
最初の現地見学は、東日本大震災で被災した東北の人たちへの支援活動を続けている「NPO法人大震災義援ウシトラ旅団」が企画した「原発問題肉迫ツアー」に参加することで実現した。2回目は、埼玉ぱるとも会(生活協同組合パルシステム埼玉OB会)が主催した「福島ツアー」に加わっての現地見学。今回は、埼玉ぱるとも会と東京ぱるとも会(パルシステム東京OB会)が共催する「福島ツアー」に加わっての現地見学だった。
今回のツアー参加者は生協の元役員、組合員ら総勢29人。バスでさいたま市――福島県いわき市――広野町――楢葉町――富岡町――いわき市――さいたま市のコースを回った。
いわき市で、同市在住の「NPOふよう土2100」の里見喜生・理事長と合流、以後、里見理事長の案内で被災地を回った。
同理事長によれば、今なお原発事故で避難を余儀なくされている人は福島県内だけで約12万人を数える。同理事長にいただいた資料によれば、いわき市の人口は約34万9000人だが、うち約2万4000人が福島第1原発に近く被害が甚大だった双葉郡(大熊町、双葉町、富岡町、楢葉町、広野町など)から避難してきた人たちで、仮設住宅だけでも3500戸以上にのぼるという。
バスは四倉港に立ち寄った後、いわき市内の久之浜地区の「浜風商店街」へ向かった。
東日本大震災で、いわき市の太平洋沿岸も津波に襲われたが、久之浜地区では、住民60人が津波に呑み込まれて死亡し、火災も発生した。家屋586棟が全半壊し、商店街を形成していた商店38軒も全滅。半年後、うち9軒が久之浜第一小学校の敷地内に仮設商店街をつくって営業を始めた。これが「浜風商店街」である。
魚屋や食堂、酒店、理髪店など9軒。ところが、この商店街も来年3月には解散する。このままでは明るい展望がもてないからだという。商店街の人たちは私たちツアー一行を歓待してくれたが、その表情は心なしか寂しそうだった。
私たちはとかく原発による被害に目がゆくが、東日本大震災の津波による被害もまだ回復せず、その後遺症はなお深刻であることを突きつけられた思いだった。
いわき市から北上する。広野町を過ぎ、楢葉町に入る。楢葉町役場があり、そのわきの広場で仮設の商店街が営業していた。ちょうど1年前にもここに立ち寄ったが、商店街は昨年と同様人影もまばら。1年前と変わったことと言えば、商店街の外に「移動焼き鳥店」が駐車していたぐらいだった。
そこから、さらに北上すると、道路の両側に田んぼが広がるが、どの田んぼも一面雑草に覆われ、すでに稲田の面影はなく、まるで原野のようだ。放射能に汚染されたため、稲作が不可能となったのだ。ちょうど1年前にもここを通ったが、この1年で、田んぼの原野化がいっそう進んだように思われた。
加えて、野天に積まれた、放射能に汚染された廃棄物を詰めたフレコンバッグが増えたように思えた。里見理事長がいう。「放射能に汚染された廃棄物は、無害化することができません。ただ移動させるだけなんです」
このあたりは、かつて福島県でも有数の米作地帯だった。美田のあまりにも変わり果てた姿に心が痛んだ。
楢葉町は、福島第1原発から南へ20~12キロ。このため、原発事故後、同町の大半は、立ち入り禁止の「警戒区域」に指定され、住民は避難を強いられた。が、2012年8月、「避難指示解除準備区域」となり、昨年9月、避難指示が解除された。ただし、里見理事長によると、この1年で避難先から町に戻ったのは約800人。原発事故以前の町の人口は7500人だったから、帰還者は約1割ということになる。里見理事長が語る。
「町民の心情をひと言で言えば、『戻りたくない』ではなく、『戻れない』ということでしょう」
「町民が帰還に二の足を踏んでいるのは、第1に、子どもへの影響を懸念しているからです。残留放射能が子どもの健康に影響するのではという不安ですね」
「第2の懸念は、病院、美容院、スーパーなどが不足していることです。これでは生活できないと」
「まだあります。すでに他の市町村で就職してなんとか暮らしてゆけるようになった。帰還するとなると転職しなくてはならない。果たして働き口があるか不安なんです」
同理事長の話を聞きながら、「避難指示が解除されても住民が町に戻らない。そうなれば、町は自治体として成り立たなくなるのではないか」と思わざるをえなかった。
さらに北上すると、富岡町である。同町は福島第1原発から約10キロのところにあり、大震災では津波に襲われた上、原発爆発による放射性物質が降り注くというダブルパンチを被った。人口はただ今ゼロ。事故当時は約1万5000人が住んでいたが、放射線量が高いために今も全町民避難という事態が続いており、町役場も郡山市へ退避したままだ。
富岡町の双葉警察署わきの公園に設置された線量計は「0.281マイクロシーベルト」 を示していた
ここでは、まず、JR常磐線の富岡駅へ向かった。ここは昨年も訪れたが、その時はすでに駅舎は取り壊され、白っぽいプラットフォームだけが、かつての駅の面影を残していた。駅前には、津波で半壊した商店や住宅が、目を背けたくなるような無残な姿をさらしていた。
それから1年後、駅前は一新していた。商店や住宅の残骸は取り払われ、更地になっていたからだ。これから先、その更地に何が造られるのだろうか。新しい街づくりの構想を示した看板等は見当たらず、復興の将来展望は見えてこなかった。
駅前から少し離れたところに、かなりの数の、建築したばかりの瀟洒な住宅が立ち並んでいた。もちろん、人は住んでいない。
「津波・原発事故の直前に建てられたものなんです。おそらく、ローンで建てたものでしょう。せっかく借金してマイホームを建てたのに、避難指示によりそれに住めない。しかも、避難先では借家暮らしだから家賃を払わなければならない。ローンと家賃の二重払い。避難民の苦難は、こんなところからもうかがえます」と里見理事長。
富岡駅跡から、夜の森地区へ。ここも昨年訪れたところ。見事な桜並木が続き、それを挟んで住宅街が広がる。住宅街は、立ち入り禁止の「帰還困難区域」と、住民に一日のうち一定の時間のみ立ち入りを許される「居住制限区域」に分けられており、私たちは「居住制限区域」の中をバスで通り抜けた。
そこは、昨年もそうだったが、完全な無人地帯で、さながらゴーストタウン。犬一匹、猫一匹見当たらず、空には鳥の姿もない。住家の庭には雑草が茂り、半ば朽ちかけた家も。
森閑とした住宅街にも人の気配がするところがあった。住宅の除染作業がおこなわれていたからだ。今回のツアーに参加した私の友人はツアー中、至るところで放射線量を測っていたが、彼の線量計は、この住宅街周辺では毎時0.53~0.58マイクロシーベルトを記録した。環境省が示している一般人の放射線量の基準が毎時0.23マイクロシーベルト以下であることを考えれば、夜の森地区は異常に高い値だ。
「こんなに線量が高くては、この地区の住民は当分、いや、かなり長期にわたって我が家に帰ることはできないだろう。なのに、政府は住民を帰還させることを前提に住宅の除染を続ける。この落差はいったいどういうことなのか」。そんな疑問が募った。
無人の住宅街では除染作業がおこなわれていた=富岡町夜の森地区で
夜の森地区の近くに、JR常磐線の線路と夜ノ森駅の駅舎があった。1年ぶりに見た線路と駅舎は、前年よりもいっそう荒涼とした姿をさらしていた。低い丘と丘の谷間を走る線路は伸び放題の雑草と雑木に覆われて、もはや線路が目に入らない。駅舎もジャングルのような雑木の中に埋もれてしまっていた。常磐線が再び開通することはあるのだろうか、と思った。
夜ノ森駅周辺には、広大な田んぼが広がっていた。しかし、見渡す限り雑草の生えた田んぼと化し、秋だというのに、黄金の穂並みはなかった。「もう稲作は無理」と、農民たちはこの土地を利用した大規模なソーラー発電を計画中という。
雑草地と化した田んぼ=富岡町夜の森地区で
ツアーを終え、さいたま市へ帰るバスの中で、参加者全員が感想を述べ合った。
「現地に来て、初めて原発事故の惨状を理解できた。百聞は一見にしかず。帰ったら、周りの人に福島を訪れるよう勧めたい」
「原発事故はまだ収束せず、被災地の復興も進んでいないのに、安倍政権は原発の再稼働に躍起になっている。そんなこと、とても認められない」
「被災地に来た大臣や国会議員が極めて少ないことを知った。原発事故による被害の実態を知るために、大臣や国会議員はもっと現地を訪れるか、現地に住むべきだ」
私は「原発再稼働が推進される一方で、福島では棄民政策が進行しているという感じを受けた」と発言した。
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