辞任ではなく自己の政治見識をこそ問うべきだ
- 2011年 3月 7日
- 評論・紹介・意見
- 三上 治前原の辞任
この程度のことでとやかくいうのはばかばかしいということがある。針小棒大というがそんなところである。前原外相の政治献金に伴う辞任劇についての正直な感想だ。辞任に追い込まれた方もそれを止められなかった民主党の首脳陣も情けないが、それがまた政府や民主党の現状なのであろう。前原の辞任は結局のところ小沢一郎の政治資金規正法事件で厳しく追い詰めた結果が自己に反転したということである。些細なことで小沢排除に動いた結果、些細なことで辞任に追い込まれたのである。政治的なものの恐ろしさといえるがこれは明日にも菅や仙谷など民主党の面々の身に現れておかしくないことだ。
この事件を見ていて思う事は政治的見識の恐ろしさである。政治的見識は政治家にとって根本にあることだがそのことがはからずも露呈したのが今回の事件である。小沢一郎が「政治資金規正法違反」で執拗なまでに検察やメディアから追われていたときに前原はそれに加担し小沢一郎の政治的排除に動いた。それなりの覚悟をしてのことだったと思うが、その時に彼には「政治とカネ」についての見識があってのことだろうと推察した。彼は西松建設に端を発した一連の陸山会(小沢一郎の政治団体)の政治資金規正法事件について、これがたとえ法的事件《訴追など》に至らなくても政治的な道義的責任は免れないという見解を示していた。道義的責任というなら「政治とカネ」についての厳しい現実認識とその解決の政治的構想があってのことだろう。「政治とカネ」の問題は闇に包まれて所在するところがあり、それだけに矛盾を内包しているところがある。誰しもが「クリーンな政治」という通りのよい題目(スローガン)ですませたがるが、現実に直面すれば血を見るほかところがある。政党や政治家の裏の世界として誰でも叩けば埃が出ると言われるような所がある。政治資金規正法などにひっかけられ事件化されやすいところもある。日本の政党の歴史の中では官僚側の政党規制や政治家排除にしばしば使われてきたのである。メディアは権力への加担として合唱してきた。政党や政治家はこの問題ではしつかりした政治的見識を持ち所業をなさないと自分にことがはねかえてくるように現れる。政党や政治家の自立性が試されるものであるといえる。前原は「クリーンな政治」という底の浅い政治的見識しか持ち合わせず、しかもこの問題を政争の道具に使った代償を支払はされているのだろうが、これはところかえればやがて自民党や公明党の身にも及ぶものだろう。僕らは政治見識の浅い政治家たちの愚劇をいつまで見続けさせられるのだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0365 :110307〕
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