都教委よ、裁判官よ、憲法の叫びに耳を傾けたまえ
- 2017年 3月 17日
- 時代をみる
- 澤藤統一郎
昨日(3月15日)、東京「君が代」裁判第4次訴訟の最終弁論。
2014年3月17日に提訴し、以来3年間15回の口頭弁論を経て、本日弁論終結した。判決言い渡しの指定日は9月15日である。
私は、この裁判の弁護団の一員として多くのことを考えさせられ、また学んだ。乱暴に教育を破壊しようとする権力の潮流が一方にあり、真摯に生徒の立場を思いやり真っ当な教育を取り戻そうとする多くの教員の抵抗がある。怒らねばならない場面にも遭遇し、また心温まる多くの経験もした。
国旗・国歌(日の丸・君が代)にまつわる憲法論を考え続けて、今確信していることがある。日本国憲法は、国家と国民(個人)との対峙の関係を規律することを最大の使命としている。国民は国旗国歌を通じて国家と対峙するのだから、公権力による国旗国歌への敬意表明強制の是非こそは、憲法が最も関心をもつべきテーマなのだ。
また、「日の丸・君が代」は、戦前の旧天皇制のシンボルであった。「日の丸・君が代」への敬意表明強制の是非は、旧体制を徹底して否定して成立した現行憲法の価値観を尊重するか否かの試金石だ。
私は、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制が許されるか否か、それは日本国憲法の理念を生かすか、殺すかの分水嶺だと確信する。憲法を殺してはならない、是非とも生かしていただきたい。そのような思いで、東京地裁民事11部の9月15日判決に期待したい。
結審の法廷で、お二人の原告が堂々たる意見陳述をした。まさしく、呻吟する憲法が叫んでいるの感があった。そのうちのお一人、渡辺厚子さんの陳述をご紹介する。もうひとかたの陳述も、ご了解を得たうえで、近々紹介することにしたい。
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私達は、一人ひとり教員としての自分はどうあるべきか真剣に悩んだ末に不起立に至りました。これは教育と言う職務に忠実であろうとした結果です。私はそのことをどうしても分かっていただきたく、ここに陳述いたします。
私達原告は、過去「日の丸・君が代」が侵略戦争において果たした役割についてよく知っており、「過去の罪と責任」に真摯にむきあえば、日本が戦前戦後一貫して「日の丸・君が代」を使い続けていることに、大きな異論があります。そして日増しに強くなる「日の丸・君が代」強制に戦争への足音をききとり、危機感をつのらせています。
そうした個人としての思いを持ちつつ、私達は教員として注意深く子どもに接してきたことがあります。
子どもの思想良心の自由を侵さない、多様性を否定しない、そのために最善を尽くすということです。
ご承知のように日本では、ヨーロッパの学校では考えられないことに、文科省・教育委員会によって学校の卒・入学式に国家シンボルが持ち込まれ、国家シンボルへの敬愛行為を「指導」するよう言われ続けてきました。
しかし保護者や子どもたちのなかには歴史的経緯から「日の丸・君が代」に敬意を払えないという人たちがいます。宗教的,思想的に、「国家シンボル」崇拝ができないという人たちもいます。
私達教員は、学校が子どもたちの中にある多様な価値観を否定するようなことにならないように、ましてや子どもたちは思想良心の形成途上にありますので、一方的に1つの価値観を植え付けるようなことにならないように、と心を砕いてきました。例えば小平養護学校では、卒業式に向けて、学校として保護者に手紙を出し「日の丸・君が代」に対してどのような態度を選択するかは子ども自身や保護者にその権利があることを告げるなどして、子どもたちの思想良心の自由の権利を守ろうとしました。それは、教員が個人的に「日の丸・君が代」をどう思うかとは別次元の、学校や教員全員の職務責任であると考えてきたからです。
しかし通達はそれを一変させました。
教職員に起立するよう職務命令を出す。そして、全教職員の起立という圧力で子どもたちを起立させる。通達は私達に子どもを起立させる加害者になるよう命じ、起立こそが唯一正しい行為である、それ以外の選択肢は許さない、思想良心の自由の告知すら許さない、と力づくで全員起立を強いるようになりました。
通達以来、教職員の起立によって子どもは起立させられています。M特別支援学校では、母親と相談して不起立を決めた生徒に、本当に家庭で話したのか、教員の唆しではないか、と校長は家庭への思想調査をしようとし、生徒は不起立を決めた母親が悪いのか、と泣いて訴える事態となりました。EやT特別支援学校では生徒のお尻を持ち上げて起立させ、S特別支援学校では、手を引っぱり起立させています。教員起立に同調できない子どもには、文字通り力づくで起立をさせています。
全員起立が当たり前だとされるその人権感覚の麻痺ぶりに私は戦慄を覚えます。
まさに森友学園運営の塚本幼稚園児が教育勅語や安倍首相頑張れを一斉に叫ぶ姿であり、敬愛感情すりこみの調教です。都教委はそこに向かって走り出したのであり、私達の不起立はそういった教育の変質、子どもの人権無視への細やかな良心的不服従なのだ、と強く申し上げます。
そして私は、裁判官のみなさまに、職務命令による全教員起立行為は、障がい児の生命、安全を深く傷つけていると言う現実があることを、どうしても理解していただきたいと切なる気持でおります。
10月証人尋問時、城北養護学校で起きた事件で、人工呼吸器のアラーム音がなり処置しているのに副校長は保健室スタッフに起立を命じたという話しをいたしました。これに対し都教委から、”結果的には何ごともなかったのでしょう?”と質問されました。この質問には唖然とさせられました。「何事もなかったから問題ない」のではなく、たまたま何事もなかっただけで、「起立を優先させるあまり生命を軽んじている事態が起きている」ことに都教委は危機感をもち反省すべきではないのでしょうか。
今年の職務命令書を見ると、緊急事態には校長に連絡して指示を仰ぐ、と記されています。
都教委は緊急事態にも適切に対応していると主張します。しかし考えても見てください。校長・副校長がとなりの席ならばそれも可能ですが、体育館の端から、緊急事態の子どもを放置して、指示を仰ぎに走っては行けません。さりとて自席から君が代を斉唱している最中に、緊急事態です!と大声で叫ぶこともできません。結局は「指示を仰げず」ネグレクトするか、職務命令に違反して処置するか、教員が即断しなければならないのです。教員にとっての心理的負担、子どもにとっての生命や安全の危機は解消されていません。
JやM特別支援学校では、子ども同士のトラブルに介入しようとした教員が斉唱中は動くな、と叱責され、JaやTやK校では身体的厳しさを抱えている子どもに適切な介助をするための座った姿勢をとがめられました。
教員起立が優先させられ、本来は第1義にすべき子どもへの関わりが「管理職に許可をもらって初めて可能になる」2義的なことにされ、実際は斉唱中に許可をもらうことなどできず否応なく放置し、君が代斉唱が終わった瞬間教員は大急ぎで対応しているのです。
起立職務命令によってもたらされているこの事態は、些細なこととして受け取られているかもしれませんが、私は起立斉唱命令の本質はここにこそ現れている、と思います。
国家シンボルに対して敬意を払うことは人の命より優先すべきことなのだ、と言う本質です。人命よりも国家、国家シンボルが優先される。これは戦争の論理そのものではないのでしょうか。
「日の丸・君が代」強制の持つ本質、国家は個人に優先する、果ては国家に命までとられる、ということを、障がい児たちはいま身を持って私達に教えてくれているのではないでしょうか。
実施要綱によって、障がい児学校では、フロアー会場の使用禁止、壇上卒業式の実施強制がなされ、障がい児たちは自力で動く権利も奪われてしまいました。04年光明養護学校では壇上卒業式に反対し保護者達が式をボイコットするとして紛糾しました。通達に先立つ02年清瀬養護学校では校長の独断での壇上使用計画にPTAで反対決議まであがり保護者・教員全員が反対しました。04年当時、強弱はあるもののすべての障がい児学校で壇上式の強要に反対の声が上がったのです。教員も保護者も、何故これほどに壇上卒業式に反対するのか?それは子どもの人格まで否定されたと感じたからです。ありのままの姿でそれぞれが尊い、と思い、子どもたちにもいってきたのに、自力で動くことすら許さない、壇上に卒業証書をとりにいけと命じる。結局は子どもの様々な有り様、子どもにあわせた生き方を認めないと言う命令に、それは承服しかねるとみんな思ったのです。
おむつをつけろだの浣腸をしてくるななどと言われ、トイレに行くと言う基本的人権すら制約されたり、筋肉の緊張が入って痛くなるからだを緩めてもらう権利すら奪われています。
「日の丸・君が代」の強制はどのこどもにとっても問題ですが、とりわけ障がい児にとっては自分の有り様を否定された思い、命を大事にしてもらえない思い、がこみあげてきます。
津久井やまゆり園障がい者殺傷事件は、こうした”ありのままの姿で生きることが当たり前”、を否定した行き着く先のことであったのではないでしょうか。
こんな現実をおかしいと思わない教員はいません。誰しもが、子どもを2の次にしなければならない命令などに唯々諾々と従いたくない、強要する都教委へ怒りがあります。しかし、処分によってもたらされる生活不安に、本来果たすべき教員の職務責任との間で、揺れ、悩み苦しみ、全員が起立命令拒否できないだけです。
私達原告は、清水の舞台から飛び降りるような気持で起立拒否を決断しました。子どもを一律に起立させるなどという加害行為を黙認してはならない、加担してはならない。教員として、子どもと教育に誠実でありたい、誠実であろうとしてきた自分自身を否定してはならない、という教員の良心を捨てるまいとするギリギリの思いでした。
裁判官のみなさまにはこの私達の思いを分かっていただきたい。私達が、「日の丸・君が代」の強制の強まりに抗して、子どもの教育、子どもの権利、子どもの命を守ろうと四苦八苦してきたことの意味、重要性についてご理解いただきたい、そう切に願っています。
(2017年3月16日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.03.16より許可を得て転載
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