アナクロニズムも極まれり 「教育勅語、教材としてならOK」との閣議決定
- 2017年 4月 15日
- 時代をみる
- 岩垂 弘教育勅語
「アナクロニズムもついにここまで来たか」。安倍内閣が教育勅語について政府答弁書を閣議決定したとのニュースを読んだ時、私はそんな感慨に襲われた。答弁書が「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」としていたからである。かつて教育勅語を暗唱させられた世代としては、国民主権をうたった日本国憲法の施行からすでに70年、教育勅語も国会で失効・排除決議がなされたのだから、教育現場にそれが再登場することなどありえないと考えてきたからである。
私が長野県諏訪地方の小学校に入学したのは1942年(昭和17年)4月のことである。アジア・太平洋戦中で、小学校は国民学校といった。国民学校3年の時の1945年8月に戦争は終わったので、私は3年5カ月にわたって戦時下の小学生生活をおくったことになる。
その3年5カ月は、教育勅語によって教育された日々であった。
教育勅語とは、日本国の元首であり統治者であった明治天皇が、その「臣民」だった国民に国民道徳の基本と教育の根本理念を説いた言葉として1890年(明治23年)10月30日に発布されたものだった。
国民学校では、教育勅語を唱和させられた。早く唱和できるようになりたいと、家に帰ってからも声を出して一生懸命習ったものである。だから、当時、私は教育勅語の全文を暗唱することができた。そのせいだろう、いまでもその一部が口をついて出る。
「朕?惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇?ムルコト宏遠?ニ……」
「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦?相和シ朋友相信シ……」
「一旦緩?急?アレハ義勇?公?ニ奉シ以テ天壤無窮?ノ皇運?ヲ扶翼?スヘシ」
まだ幼かったから、勅語が何を言っているのかよく分からなかった。が、「現人神」である天皇の教えだから、それに、先生が覚えなさいと言っているのだから一生懸命努力してそらで言えるようにならなくては、という思いが幼心を突き動かしていたのだろうと思う。
紀元節などの国の祝日や、入学式、卒業式では、在校生は講堂に集められた。そこでは、校長による教育勅語の朗読があった。教育勅語を会場に運んでくるのは教頭先生で、その時、教頭先生は白い手袋をはめた両手で黒塗りのお盆を眼前に捧げていた。お盆に載っかっていたのが紫のふくさに包まれた教育勅語で、教頭先生が演壇に着くまでの間、私たちはずっと最敬礼を続けていなければならなかった。
教育勅語が保管されていたのは、校庭の隅にあった奉安殿である。そこには、天皇、皇后の写真も飾られていた。奉安殿の前を通る時は、立ち止まって拝礼するよう命じられていたし、集団で奉安殿の前を通る時は「歩調とれ」という合図で分列行進をさせられたものだ。
天皇に関しては、こんなこともあった。
授業中、先生の口から「て」という言葉が発せられると、私たちは、とっさに座ったままであったが胸を張り、両手を膝上に置くなどして居住まいを正し、正面をまっすく見据えたものである。なぜなら「て」は、先生がその後に発する「天皇陛下」の最初の発音だったからである。つまり、教室では、「天皇陛下」という言葉が発せられたら姿勢を正さなければならなかったのだ。
大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)というのもあった。
アジア・太平洋戦争開戦の詔勅が出された 1941年 12月8日を記念する日で、毎月8日がそれに充てられた。国民の戦意高揚をはかる目的で設けられた措置で、その日は、教室で宮城遙拝(ようはい)があった。全員が起立し、東方に向かって頭を下げた。学校からの東の方角に皇居があったからである。
また、その日には、私たち児童は登校前に、集落ごとに連れだって集落の神社を参拝した。集落から戦地に出征している兵隊さんの武運長久を祈るためだった。
こうした国民学校での教育に私は何ら疑問を抱かず、極めて従順に従った。もし、あのまま戦争が続いていたら、私は「軍国少年」に育ち、「天皇陛下のために」と、特攻隊に志願していたかもしれない。いずれにしても、私たちの世代は、いわば教育勅語が血肉化された世代だったわけである。
ところが、1945年8月15日の敗戦が、日本を根底から変えた。
46年1月1日には、天皇が自ら神格を否定する「人間宣言」を行った。
47年5月3日には、新しい憲法の日本国憲法が施行された。その第1条には「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とあった。日本国民は天皇の「臣民」から国の主権者となったのだった。
こうした歴史的な転換を踏まえて、48年6月19日、参議院本会議で教育勅語等の失効確認に関する決議が、衆議院本会議で敎育勅語等排除に關する決議が採択された。
参議院の決議は「われらは、さきに日本国憲法の人類普遍の原理に則り、教育基本法を制定して、わが国家及びわが民族を中心とする教育の誤りを徹底的に払拭し、真理と平和とを希求する人間を育成する民主主義的教育理念をおごそかに宣明した。その結果として、教育勅語は、軍人に賜はりたる勅諭、戊申詔書、青少年学徒に賜はりたる勅語その他の諸詔勅とともに、既に廃止せられその効力を失っている」と述べ、衆議院の決議も「敎育勅語並びに陸海軍軍人に賜わりたる勅諭その他の敎育に関する諸詔勅が、今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、從來の行政上の措置が不十分であったがためである。思うに、これらの詔勅の根本的理念が主権在君並びに神話的国体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる。よって憲法第98條の本旨に従い、院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する」としていた。
こうした歴史的経緯の中で育ってきただけに、大阪市の学校法人・森友学園が運営する塚本幼稚園で園児たちが教育勅語を唱和するシーンがテレビ画面に映し出された時、私はショックを受けた。遠い昔の亡霊が甦ったかのような錯覚に陥った。
そして、「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」との閣議決定である。
そればかりでない。4月7日の衆院内閣委員会では、義家弘介・文部科学副大臣が、幼稚園などの朝礼で教育勅語を朗読することについて「教育基本法に反しない限りは問題ない行為であろうと思う」と答弁した。「教育基本法に反しない限り」と言いながら、どういうことが教育基本法に反するのか、反しないのか具体的な例を挙げなかった。
どうやら、安倍政権は、かつて国会で教育勅語の失効を確認する決議や、敎育勅語を排除する決議がなされたことなど、どこ吹く風といった風情である。国権の最高機関とされる国会無視もはなはだしいと言わざるをえない。
今回の閣議決定は、安倍政権が教育現場での教育勅語の使用にお墨付きを与えたものと言ってよい。これから敎育勅語を活用する学校が出てくるのではないか。
なぜ、安倍政権は教育勅語の復活にこだわるのか。それは、安倍政権にとって教育勅語が改憲というという最終目標に向けた一里塚の1つだからだろう。
この最終目標に向けて安倍政権は一歩一歩、一里塚を積み上げてきた。国民投票法の制定、教育基本法の改正、秘密保護法、集団的自衛権に関する解釈変更、安保法制等々である。残るは共謀罪の制定といったところか。
教育勅語の復活も目標達成の上でそれなりの役割を果たす、と見ているのではないか。なぜなら、教育勅語の核心は「一旦緩?急?アレハ義勇?公?ニ奉シ以テ天壤無窮?ノ皇運?ヲ扶翼?スヘシ」(万一危急の大事が起こったならば、大義に基づいて勇気をふるい一身を捧げて皇室国家のためにつくせ=旧文部省図書局の通釈)という一行にあるからだ。「戦後レジームからの脱却」を目指す安倍首相とそれにつながる人たちは、こうした教育勅語の精神を国民の間に広く浸透させ、日本を再び戦前の国のような国にしたいと思っているのではないか。そう思えてならない。
そういえば、自民党の憲法改正草案の第1条には、こう書かれている。「天皇は、日本国の元首であり、日本国及び日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」。自民党は、天皇を再び元首にしようとしているのである。
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