「将は兵を犠牲にして生きのび、軍は民を棄てて逃亡する」これって美しき日本の伝統だったの?―富田武著『シベリア抑留』への読後感
- 2017年 4月 17日
- カルチャー
- 合澤清
*富田武著『シベリア抑留 スターリン独裁下、「収容所群島」の実像』(中公新書2016)
千葉大学名誉教授の岩田昌征先生がちきゅう座に投稿された「シベリア抑留と砂糖」(3/5付の記事http://chikyuza.net/archives/70948) という興味深い論文に触発されて早速この本を読んでみた。簡単にご紹介したい。
著者の富田武さんとは旧知の間柄でもあり、彼がこういう研究をされていることも賀状などで知っていた。また私の関係者(母方の伯父)にもシベリア帰りの人が居たことから、この問題に多少の興味も持ってはいた。
しかし、数年前に読んだ数冊の本から、この問題への新たな関心が喚起されることになった。それがこの投稿のタイトルである。読んだ本とは、順序はばらばらだが、高橋和巳の『邪宗門』、鎌田慧の『六ヶ所村の記録』、山崎豊子の『不毛地帯』、共同通信社社会部編『沈黙のファイル 「瀬島龍三」とはなんだったのか』などである。
これらの本から得られたのは、戦前、戦中に「国策」という上からの半ば強制によって満州に開拓団として派遣された人たちの、現地での並大抵ではない苦労と、それにもかかわらず敗戦直前(あるいは敗戦直後においても)、日本への引き上げに際して大陸を徒歩で横断する際に行きあわせた日本軍の無慈悲な仕打ち、それはまさに「棄民」という以外にないものである。高橋和巳はこの本の中で、満州開拓団の一グループが、この「国民を見棄てる軍隊」によって全滅したケースもあることを重々しく陰鬱な筆致で描いている。
また、シベリア抑留中にも高級将校は暖かい別棟で、食事も優遇されたうえ(それでも兵卒の食事を取り上げるケースがあったそうである)、極寒の労働に駆り出されることもなく、のうのうと暮らしていたこと、このことは『沈黙のファイル』の中で、瀬島と一緒の期間シベリアに抑留されていたある元兵卒が、反公害運動で伊藤忠商事(瀬島が当時の社長)に交渉に乗り込んだ時のことをこう語っている。
彼が、瀬島にかつて共にシベリアにいた話をしたら、瀬島は親しげに握手を求めてきたそうである。彼はそれを拒否していう。「あなたはシベリアでも我々を殺し、今またふたたび殺そうとしている」と。瀬島達当時の帝国参謀本部が、南方方面に派遣した多くの兵隊を、わけもないままに(つまり既に何の戦略的意味もないままに)見棄てて見殺し・犬死させたことは、この本の中でも書かれているし、大岡昇平の「俘虜紀」などでも読めるが、ここでは触れない。
富田武の今回のこの本は、「シベリア抑留」を通して、日本帝国陸軍の無惨さとスターリニズムのもたらした同質な悲劇の実態を研究者の目で詳らかにしたものとして白眉である。以下、幾つかの重要な論点を紹介してみる。最初に富田自身が「まえがき」であげているこの本の特徴を、少し長い引用だが掲げておく。
「本書は通念としての「シベリア抑留」をより大きな地理的広がりと歴史的文脈に位置付け直し、多面的に議論して内容を豊かにする狙いで執筆する。重要な要素は以下の四点である。
第一に、第二次世界大戦におけるソ連の捕虜収容所は、国内の矯正労働収容所(政治犯・刑事犯対象)をモデルに、同じ内務人民委員部(のち内務省)の管轄下に設けられた。この二つの収容所は、戦中からスターリン死去に至る期間ほぼ並存していた。日本人抑留も、この巨大な「収容所群島」(ソルジェニーツィン)の一環だったのである。
第二に、同じく捕虜となったドイツ及びその同盟国の将兵について。その数はドイツ人200万余を含めて約300万人に及んだ。そして彼らのために作られた規則、システムが日本人捕虜に適用された。
第三に、資料が乏しく触れられることがほとんどなかった「ソ連管理地域」の南樺太・北朝鮮における民間人抑留について。そこではソ連国内のように鉄条網で囲まれ、監視塔を四隅に配した捕虜収容所は、ごく一部しか存在しなかった。しかし脱出が不可能事または困難であり、自由が大きく制限されたという意味では、抑留に他ならなかった。
第四に、従来の研究のようにソ連の政策と日本人の回想記を直結して事足れりとするのではなく、共和国・地方・州、そして収容所という中間項を分析対象に組み込み、立体的でリアルな実像を描く。そのケーススタディとして、ハバロフスク地方を取り上げ、捕虜管理、収容所運営面で対照的なモンゴルにも言及する。…収容所は画一的ではなく、所在地によって大きな違いがあった。
さらに、ドイツ軍の捕虜となったソ連将兵の多数は、捕虜からの解放後「忠誠が疑わしい」として、強制収容所に入れられるか、捕虜収容所職員に回されるか、赤軍独立労働大隊に編入されるかの懲罰を受けた。戦争末期にドイツ、満州に侵攻したソ連軍のうち略奪、暴行をほしいままにした囚人部隊は、兵員不足を埋めるために強制収容所より徴募された者からなる。」
捕虜に対する残虐な扱いは、ソ連だけではなく、ヒトラー政権下のドイツでも同様であった。ここでは触れられていないけれども日本が例外だったことはあり得ない、というよりも一層酷い扱いだったことは戦後の極東軍事裁判で明らかである(アメリカが悪名高い「グアンタナモ」監獄でやっていることも同様であろう)。いずれも国際条約などあってなきがごとしである。ヒトラー政権下での捕虜の扱いの残酷さは、次の如きである。
「捕虜に対する虐待、銃殺は続いていた。バルト諸国の収容所では、1942-43年の冬に発疹チフスが流行したが、ドイツ軍は防疫と称して大量銃殺を行った。スターリングラード郊外アレクセーエフカの収容所では、定員1200人のところ4000人が詰め込まれ、1942年12月、敗勢の色濃いドイツ第6軍司令部が捕虜に対する食糧供給を停止したため、大量の餓死者が出ている。
ドイツ、ポーランドの強制収容所に送られたソ連人捕虜はもっとも悲惨な最期を遂げた。ザクセンハウゼン収容所に送られた2万を超えるソ連人捕虜は、1941年のうちに1万8000人が銃殺され、解放まで生き残ったのは2500人だったという。」
ドイツにとってもソ連にとっても日本にとっても、捕虜とは無償でこき使える貴重な労働力である。「労働すれば自由になる」とは有名なアウシュヴィッツ収容所の鉄の扉に掲げられた空しい標語である。こんな環境では「人権」など何の役にも立たないただの経文である。
「…捕虜は最低限の給食、医療処置さえ受けられなかった。収容所では飢えによる窃盗、日課違反、作業拒否と仮病が横行した。また、1943年中に8時間の労働日、入所後21日の検疫機関、経済機関と収容所との標準契約内容なども定められたが、守られるような戦況ではなかった。」
その上、戦争の激しさが弥増すにつれて、戦争当時国内でも当然ながら国民生活への圧迫は強くなる。「…抑留回想記の中には、自分たちが飢えに苦しんでいた時、ソ連の住民もまた苦しんでいたことを指摘する者もあった」という。
また、収容所があったのは特に「シベリア」にかぎられてはいなかった。ソ連のほかの地区や、モンゴルや北朝鮮などにも広く点在していて、その収容所の置かれた場所によってかなり扱いは違っている。
山崎豊子は『不毛地帯』の中で、「シベリアの収容所」の悲惨な有様を小説仕立てで強調しようとするあまりに、かなり不当な扱いをしているように思える。まず、軍隊時代の階級はなかなか消滅してはいなかったようであるし、冒頭にも触れたように、高級将校の扱いは一般の兵隊に比べて格段に良かったようである。そして「将は兵を犠牲にして生きのび」た実例は枚挙に遑がないほどであるが、特に次の事実は無慈悲な沖縄戦や、南方に散っていった多くの将兵の無念さとともに決して忘れてはならないことであろう。
「大本営陸軍部幕僚は、ヤルタ秘密協定のうち少なくともソ連対日参戦を在外公館武官(ストックホルム駐在の小野寺信大佐ら)からの報告で知っていた。5月8日のドイツ降伏後には、モスクワ駐在武官はソ連軍戦車などの極東への輸送を報告していた。しかしこれらを陸軍部幕僚は政府・軍部の最高指導者たちに上申しなかった。」
しかも、
「たしかにソ連参戦前に最高戦争指導者会議が決定したソ連による対米英戦争「和平仲介要綱」には、条件として「労務提供」があった。日本政府・軍部首脳は「国体護持」のために将兵を働かせることも躊躇しなかったと言える。8月14日の在外公館への指示にも、本土が食料難のため在外日本人はしばらく現地に残留させよとあった。まさしく「棄民・棄兵」政策に他ならないが、それでもソ連移送までは想定していなかった。」
つまり、シベリアの悲劇は起きるべくして起きた結果であった。将は兵を裏切り、兵は民を見棄てる。これが日本の建国以来の伝統であるようだ。
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