『ロシア革命100年の教訓』
- 2017年 5月 26日
- スタディルーム
- 塩原俊彦
このほど、『ロシア革命100年の教訓』(Kindle版)を上梓した。そこで、拙著でもっとも強調したかった内容について簡単に紹介したい。これまでのロシア革命分析の多くは政治面からのイデオロギーに染まった分析が多かったように思われる。そうすることでロシア革命の本質に肉迫できるのであれば、それでもかまわないが、はっきり言って、こうした分析のほぼすべてが的を射ていない。
筆者が心を痛めているのは、まったくつまらない分析しかできなかった者らがいまでも権威をふりかざし、なんの反省もしていないようにみえることである。だからこそ、いまさらロシア革命を機に書籍や論考を著したりする。
だれかがはっきりと真っ当な見方を提示し、新しい道しるべとならなければ、過去の誤謬を超克できない。そう考えて、実名批判を含む書として『ロシア革命100年の教訓』を書いたわけである。
チェーカー支配の深化・継続というロシアの特殊性
ロシア革命の本質は革命期に生じる治安維持機関(チェーカー)がスターリンによって利用され、その役割が深化しつつ長く継続した点にある。そして、そのチェーカーの優位がプーチン体制下で再現されつつあることが懸念されている。
1917年12月、人民コミッサールソヴィエトによって反ボリシェヴィキのストライキやサボタージュに対抗するために「反革命・サボタージュとの闘争に関する人民コミッサールソヴィエト付属全ロシア非常委員会」(VChK。その後何度も名称変更するのだが、「チェーカー」と総称された。これは一種の秘密組織であり、日本で言えば、特別高等警察[特高]のようなものであった)が創設された。ただし、この機関の設立はあらかじめ計画されていたわけではなく、10月革命後の都市部での無秩序や略奪に対処するための措置であった。この意味で、「チェーカー」はロシア帝国皇帝の秘密警察をもとにしたわけではなかった。
むしろ、フランス革命後の政権を守るために、国民公会が1793年8月に国民総動員令を出し、10月に「恐怖政治」を行う旨、宣言、翌年の4月には公安委員会が設立された事実がこの「チェーカー」の創設に関係したのではないかとみられている。戦時共産主義後、1922年2月、全ロ中央執行委員会はVChKを廃止し、内務人民委員部付属国家政治総局(GPU)に再編する決定を採択したのだが、GPUはVChKよりもより閉鎖的で官僚主義的であったから、こちらのほうがロシア帝国時代の秘密警察に近いとフィッツパトリックは指摘している(Fitzpatrick, 1985, p. 77)。
重要なことは、「チェーカー」(VChKやGPU)が単なる官僚機構ではなく、テロや階級への復讐のための道具となったことである。その存在は、プロレタリアート独裁は反革命や階級の敵に対して国家の強制権力を使わなければならないとしたレーニンの考え方に両立するものであったのだ。
「チェーカー」は「初の社会主義政権」を支持するかどうかというイデオロギー上のチェック機関として機能するようになる。それどころか、スターリンの独裁がはじまると、スターリンによるスターリンのための反スターリン主義者の粛清機関となるのだ。こうして「チェーカー」は暴力と恐怖によって、全体主義的な傾向に一挙に傾くのである。
それは、「国家権力と党機構がそのなかで合体するように見え、そしてまさにそれが故に全体主義支配機構の権力中枢として正体をあらわす唯一の機関は、秘密警察である」という、アーレントの指摘に呼応している(Arendt, 1951=2014, p. 194)つまり、ロシア革命と、その結果として生まれた秘密警察、チェーカーを中心に分析することこそロシア革命の本質に迫る唯一の方法なのである。政治と経済に分けてソ連を分析するような安易な手法が塩川伸明のような人物によってとられたために、ロシア革命の本質に迫ることが少なくとも日本ではできなくなってしまったように思われる。なにしろ、東大教授という肩書に弱い輩が多すぎるから。だからこそ、拙著のなかでつぎのように指摘しておいた。
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たとえば、塩川伸明はその著書『現存した社会主義』のなかで、経済体制のなかで「計画経済」を論じているが、これには疑問符がつく。なぜなら「現代の独裁の下での新たな「計画経済」は、政治的要請の結果であり、経済上の必要によるものではない」からだ(Neumann, 1942=1998, p. 154)。ノイマンはつぎのようにのべている。
「ロシアにおける経済発展の努力の根幹となるのは、「五カ年計画」である。その主目的たる社会主義化の計画、大規模な産業化、軍事的専制の三者は極めて複雑に混り合っており、第三インターナショナルに参集した国外の追従者たちを迷わせた。それは特殊ロシア的な計画であり、巨大な規模をもちながら、目的において必ずしも明確ではない」(Neumann, 1942=1998, p. 155)。
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こうした分析の視角上の誤謬がロシア革命の分析を本質から遠ざけてしまったのである。こんな教育しか受けられなかったことで、筆者の研究は本筋の探究から10年以上も遠ざけられてしまったと述懐しておこう。
スターリンのチェーカー支配
VChKはその後、国家政治総局(GPU, 1922年)、統一国家政治総局(OGPU, 1923年)、内務人民委員部(NKVD, 1934年)、国家保安人民委員部(NKGB, 1941年)、国家保安省(MGB, 1943年)、国家保安委員会(KGB, 1954年)のように変化する。VChKには、スパイ闘争・軍管理のための特別部のほか、鉄道・水輸送およびその活動監視への敵対要素との闘争のための輸送部、経済における経済スパイ、妨害行為、破壊行為との闘争のための経済管理部、外国での諜報実施のための外国部、反ソヴィエト的党・グループ・組織との闘争のための、同じく、知識人や芸術家の監視のための秘密部があった(Кокурин, Петров, 2003, pp. 9-10)。さらに、「その後、国家安全保障のソヴィエト機関の活動ないし関心のこれらの方向性は変わることなく残され(名称が変更されただけ)、定期的な改革に際してもなんらかのかたち(部、管理部ないし総局)でつねに自らの形態のままであった」という(同, p. 10)。
特筆すべきことは、1937年から本格化する大粛清を前に、1936年の段階で、スターリンの権力基盤である内務人民委員部が全権を掌握していた点である。ラジンスキーはつぎのように明確にのべている。
「内務人民委員部特務部は、今は上は中央委員会にまでいたる党の全機関を監視下においており、党のすべての指導者たちが、内務人民委員部の承認を得て初めて自分のポストにつくことが認められた。内務人民委員部自体も、党の内務人民委員部の職員たちを監視する秘密の特別部が設けられた。そしてそれらの各特別部を監視する秘密の特別部も」(Radzinsky, 1996=1996, 下, pp. 81-82)。
この延長線上に、チェーカーによる省庁や国有企業の監視・管轄体制の構築があった。たとえば、1959年1月9日から1991年5月16日までKGBの活動を律してきた「ソ連国家保安委員会とその地方機関に関する規程」をみると、国家保安機関の権利として、第九条において、「課題遂行のために国家保安委員会とその地方機関につぎの権利が供与される」とあり、そのなかに、「省庁同じくそれらの従属する企業や設備における暗号業務や機密事務の状況の検査を行うこと」という項目がある。この工作があからさまに企業内で行われるのか、工作員を秘密裡に送り込んで実施するのかはわからないが、「チェーカー」の伝統として企業への干渉が継続されていたわけだ。
すでに拙著『ネオKGB帝国』で指摘したように、ソ連時代、国家所有のもとにあった企業には、「第一課」(ペールヴィ・アトジェール)と呼ばれるKGBの「細胞」があり、企業の機密保持活動に従事していた。この組織はソ連崩壊後なくなったが、ロシアになってからも、FSBから担当者(クーラートル)と呼ばれる者が大規模企業に出向き、企業を監視している。国防発注を受けている軍産複合体には、FSBだけでなく、地方検事局からの監視者もいる。これがロシア企業の実態なのだ。残念ながら、こうした事実を明瞭に指摘した日本の学者は筆者しかいない。
「無頼の徒」の挑戦
ロシア革命の本質を前述のようにとらえることができれば、いまのFSBによるロシアにおける相対的地位の高まりも理解できるようになるだろう。ロシア革命の生み出したチェーカーは形を変えながらも、いまも息づいているのだ。だが、日欧米のロシア史家のなかで、こうした明確な視角を打ち出し、現代のロシア分析につなげている人は知らない(いたらぜひとも教えてほしい)。
日本では「無頼の徒」を任ずる筆者だけがおそらくこの視角にたって分析を継続しているのではないか。拙著『ネオKGB帝国』はその高らかな宣言であり、既存勢力への挑戦であった。ところが残念ながら、この本の画期的な意義を理解できた者はごく少ない。
死が近づいているいま、他者を慮る必要もあるまい。日本におけるロシア研究では、残念ながらイデオロギー偏重であった。剽窃者が学会の代表だったロシア・東欧学会のような深刻な組織もある。バカがバカと気づかないから勉強をしない。ゆえに、剽窃するような人物を代表に選んでも、だれも責任をとらない。嘆かわしい事態が深刻さを増している。
少なくとも先達の誤謬に早く気づくことで、若者はこうした誤りを繰り返さないように気をつけてほしいと、筆者は心から願っている。ゆえに、拙著『ロシア革命100年の教訓』は21世紀に生まれた若者にささげたいと考えている。
[註]拙稿中の文献については、拙著を参照のこと。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study851:170526〕
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