再論:「戦争のできる国」と「戦争をしない国」
- 2017年 6月 15日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
私は、今年になって、中江兆民『三酔人経綸問答』(明治20年、1887年)を引用して、憲法第九条の原型が兆民の洋学紳士にあり、また旧軍部の大陸侵略策の原型が兆民の豪傑君にある、と「ちきゅう座」において論じた。矢沢国光氏より批判された「日米安保・憲法九条ワンセット撤廃論」も亦、兆民の南海先生が今日語られるならば語ったであろう論である。
南海先生は、洋学紳士と豪傑君の二説をじっくり聴いた後に、自論をしっかりと表明している。その中から短い一節だけをここで紹介する。是非岩波文庫の一冊で完読して欲しい。
――だから平生から教育し、演習して、志気を盛んにしておくならば、どうして防衛できないなどという心配がいりましょうか。どうして紳士君の説のように、なんの抵抗も試みないで殺されるのを待っている必要がありましょうか。どうして豪傑君のプランにしたがって、隣国の恨みを買う必要がありましょうか。――(現代語訳p.105)
――故に務めて平時に於て訓練し、蒐肄して、以て鋭を養ふときは、何ぞ遽に自ら守ること能はざることを憂へん哉。何ぞ紳士君の計に従ひ、手を束ねて死を俟つことを須ひん哉。何ぞ豪傑君の略に循ひ、怨を隣国に買うことを須ひん哉。――(原文p.202)
たしかに、矢沢国光氏の書く如く、「国防意識は、1945年8月15日の敗戦とともに消失した。」のかも知れない。その証拠に、日本人は自国の武装力を「隊」とは呼んでも、「軍」とは呼ばない。安倍首相の九条改正案さえ「自衛隊」条項の追加である。日本社会の本体はそうであっても、その極小部分に「軍」カテゴリーを復活させた人々がいた。いわゆる新左翼の諸党派である。
1960年代末から1980年代末、新左翼諸派は武闘路線を採っていた。その過程で赤軍とか革命軍とか解放軍を名乗る地下ゲリラ組織が複数個武装活動を開始した。
私は、1984年4月北海道大学から千葉大学に移って、校庭に立看があって、そこに「軍報」が貼られているのを目撃して、異様な感銘を受けた記憶がある。「嗚呼!軍報とは!」新左翼のあるグループの活動報告であった。活動の実質が軍事にあたるとは全く言えないにしても、軍なる概念が肯定的な響きを有していた極小世界が日本社会に再生していた。
かつて、1950年代前半日本共産党が軍事方針を持っていた時代、その武装斗争組織を「山村工作隊」、「中核自衛隊」と呼んでおり、決して「軍」とは呼ばなかった。
また三島由紀夫が創設した軍装組織は「盾の会」であって、「隊」でさえなかった。従って、「盾の会」の成員は、会員であって、隊員でさえなかった。いわんや兵士・軍人ではなかった。日本民族主義者達の世界でも日本独立国士・木村三浩氏が議長であった「統一戦線義勇軍」があった位ではなかろうか。それでさえ、「軍」概念の主体的復活と言うよりも、新左翼諸党派の「軍」活動への反射であったのであろう。
日本国の公式武装力は、言うまでもなく、巨大な自衛隊であって、決して自衛軍ではない。また、新左翼諸党派の諸軍を制圧したのは、警察機動隊であった。日本社会では「隊」が「軍」を制圧したのである。日本社会の本流において生き抜いている「軍」は、武力とも戦斗とも無関係な「救世軍」だけではなかろうか。こうして新左翼の衰亡と共に、軍概念もまた消失してしまったようだ。
1960年代後半に非同盟武装中立・労働者自主管理社会主義の国・旧ユーゴスラヴィアに三年間留学した私=岩田にとって、このような「軍」なき社会はどこかに不健康な臭いを感じさせる。
戦後、日本社会を「軍」なしでやって来られたと言う共同幻想が支配し得たのは、巨大米軍メカニズムが日本国武装力をほぼ完全に包摂して来たからであろう。日本市民社会は、憲法九条保持のために米軍による日本国武装力・戦闘力の包摂を是としているようだ。矢沢国光氏が言う通り、安倍政権が「自衛隊の国軍化をしゃにむに進めて来た。」として、矢沢氏に象徴される日本市民社会は、米軍による日本戦闘力の包摂によりも、「自衛隊の国軍化」の方により強く皮膚感覚的恐怖感をいだくらしい。それには十二分な根拠がある。
一つの根拠は、言うまでもなく、大東亜解放戦争の性格よりも大東亜侵略戦争の性格の方がはるかに濃厚であったあの戦争の敗北と悲惨な戦争体験である。その戦争を領導した軍部支配と軍部執権に対する拒絶感である。そこから当然生じる反軍部思想が反軍思想と不可分になってしまった。前者は当然であるが、後者は余りに長期化すると不自然に化す。何故ならば、軍部とはある特定政治条件下の軍エリート集団であるのに対し、軍とは社会生活の公的対外防衛反応の称であるから。
もう一つの根拠は、日本市民社会は(日本常民社会も)かかる防衛反応を専門的に担うエリート社会集団を主権者として統制統御する主体的力量を有していると言う確信自信に欠如している所に存する。武家政権の700年と明治憲法体制期70年の歴史から来る現代日本市民(常民)の本音の中に、自衛隊を国軍化したら、再び軍部が執権集団となり、市民社会(常民社会)を制御するであろうから、それよりも米国市民社会によって統制統御されている(ように見える)米軍によって自衛隊を包摂してもらっている方が安心であると言う弱音が少なからず存在する。
私が先に発表した「『戦争のできる国』と『戦争をしない国』」において、「和戦哲学を日本国民の心とする。」とか「哲学的背骨」とかの凡人岩田らしからぬ表現に込めた意は、かかる「弱音」への批判である。
平成29年6月13日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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