リハビリ日記
- 2017年 7月 4日
- カルチャー
- 日記阿部浪子
リハビリ日記①―故郷の変貌
海の遠鳴りは、夜のしじまをぬって、わが生家まで伝わってはこなかった。あんなにも、乙女心をせつなくさせたのに。
この国の高度経済成長は、田や畑や沼をビル群に変えてしまった。ビル群は、米津海岸近くまでおしよせている。田んぼのあぜ道には、リヤカーを引く人はなく、小型車が走る。わずかに残された稲田をシラサギたちが乱舞する。一斉に飛びたつ彼女たちのざわめきの音が、窓ガラスを突きやぶって聞こえてくるようだ。
ここは、浜松市内のS病院である。リハビリ専門の病院だ。生家からちょっと行ったところにある。4階の病室をでて廊下を歩くと、ガラス窓がある。2016(平成28)年7月の入院から、わたしは、窓ガラスに顔を押しつけて、しばらく外の風景を眺めいるのだった。
アキちゃんもヨッちゃんもサッちゃんも、幼友達は死んでいた。生家の近隣住民の家族模様も、すっかり変わっていた。よそから住みついた新住民が多いという。わたしはそこに50年ぶりに帰郷したのである。
1962(昭和37)年4月、法政大学の日本文学科に入学するため、生家を離れた。いまから思えば、それはひとつの冒険みたいなものだった。東京には親戚も、頼れる知人もいなかった。女子が4年制大学に入学するのは珍しい時代のこと。しかし、やみがたい気持ちは抑えがたかった。遠い東京へ行って勉強がしたかった。文学って何なのか。もちろん、わかっているわけではなかった。
コト、コト、コト、コト。海のかなたを客船が西方へむかっている。客たちのドラマを乗せて。わたしは、人たちの生きるドラマに胸をせつなくさせるような少女ではあった。
故郷の変貌におもいを寄せるのもほどなく、わたしはとつぜん倒れた。救急車で運ばれた。〈脳内出血〉と、担当医から直接知らされる。
「河野多麻-わたしの気になる人⑫」を書きおえて、インターネットのサイトちきゅう座の松田さんと府川さんに送稿した翌月のことだった。原稿は連載評伝のひとつだ。河野多麻は国文学者で、母校、浜松市立高校の先輩である。
上京後、1人暮らしがずっとつづいた。おもいがけない発症は、偏食、運動不足、ストレスがたたったのであろうか。病という伏兵が待ちうけていたのである。
明治大学大学院の文学研究科を修了後、わたしは『平林たい子全集』(潮出版社)全12巻の書誌編さんにたずさわった。指導教授で文芸評論家の平野謙の紹介である。たい子の作品すべての初出にあたるため、国会図書館など、いくつもの図書館・文学館めぐりをした。手間と時間のかかるしんどい作業だった。たい子は数年前に他界していた。その関係者と会って取材することもした。『平林たい子-花に実を』(武蔵野書房)を刊行し、女性作家の主体的な人生を明らかにした。やっと、上京後の重荷がとれたような気がした。が、そのころからストレスはたまりつつあったのかもしれない。
救急病院からリハビリ専門病院に移される。歩行が困難になっていた。箸も使えない。文字も満足に書けない。次なる課題は、これらの回復をめざすことだ。さいわい、優秀な理学療法士とめぐりあうことができた。
S病院を舞台に、リハビリ道中で、わたしが目にしたことや耳にしたことを書きとめたいと思う。療法士、ナース、ヘルパー、そして患者との交流をつづってみたい。
リハビリ日記②―理学療法士との出会い
早朝のリハビリ教室は、あわただしい。生徒(患者)は、各病室から担当の教師(療法士)に連れられて、教室までやってくる。車椅子の人もいれば、歩行器やつえの人もいる。
午前8時50分。第1時限の授業がはじまった。
わたしは、理学療法士、T先生の授業がある。
D先生が、90キロもありそうな青年を車椅子からおろす。N先生の笑みを浮かべた顔も見える。Y先生の福顔も。A先生のさっそうとした姿も。ちょっと先からは、イケヤさーんと生徒の眠気をたたくB先生の声が聞こえる。教室内はざっと一望できる。生徒はほとんどが高齢者だ。22歳から38歳までの若い教師とは、対照的である。
理学療法士は患者の足を中心に、べつの作業療法士は患者の手を中心に、それぞれ技術を施す。どちらも国家資格をもっている。教師たちは、患者のけがや病気の状態に応じたトレーニングを指導する。脳と体と心の回復をめざすのだ。
生徒は教師が選べない。病院側の指示に従うしかない。その出会いは当たり外れがあるとしても、授業はぜいたくなマンツーマン方式なのだ。わたしは、療法士について何の知識もないままT先生と対面した。しかし幸運だった。T先生は30人あまりの理学療法士のうちの実力派で、後輩たちを導く立場にある。理論もある。さらに、多くの患者と接してさまざまな現場をふんでいる。
黒縁めがねのよく似合う、長身のカッコいい男の先生だ。海釣りでほんのり日焼けした腕。バスケットで鍛えた大きな手。がばっと両肩をつかまれて、わたしはいささか興奮した。なによりも、T先生は情熱的である。プラス思考もたのもしい。
見れば、T先生の腕から汗がふきでている。生徒よりもエネルギーを消耗しているのかもしれない。歩行をひとつ目標にして、教師と生徒は、いわば同志にちがいない。
〈タッタッタッ。そう。それでいいんです〉T先生の声が室内にひびく。わたしは、パンツのすそをひざまでたくしあげ、素足で床を歩いている。まだおっかなびっくりだ。
T先生は、全体のプログラムの構想をたてて、細部を具体的に構築していく。逆からいうと、ていねいに構築された細部、細部が全体をたしかなものにしていく。そのひたむきさが功を奏して、わたしは歩けるようになっていくのだった。ぎこちない足どりだが。肩もいかついている。
〈ロボットのようですね〉たとえ上手なI先生がそばから冷やかす。T先生は長身をかがめて、わたしの顔をのぞきこみながら言う。〈あべさん、スマイルを〉よほど、わたしは怖い顔をしていたのだろう。たしかに、歩行は当たり前のことだ。しかし、いままで自分はどう歩いていたのか、まごついてしまう。ひざがガクンガクンする。
お尻、下腹、太もも、ふくらはぎの筋力は、すっかり衰えていた。体重も45キロに減っていた。体はそれぞれの部分が連動しているという。右足は左足に、手は足に、肩は腕に。たとえば、ひざはいきなり曲げるのではなく、かかとに重心をおけば、しぜんと曲がるのだ。体のメカニズムは不思議だと思う。
全力投球は、たしかにきつい。しかし、体を動かすのはたのしい。眠っている細胞がぴちぴち弾けるようだ。リハビリ教室は、あったかい雰囲気にみちている。
後半のプログラムは、筋力と体力をつけるためのトレーニングである。T先生のきびしい指導がつづく。ジャンプ、立ちあがり、起きあがり、かかとあげ、頭上げなど。わたしは、もっともっと、きれいに歩きたい、という欲望がわいてきたのだった。
リハビリ日記③―戦争未亡人
戦争未亡人という言葉を耳にしたことがあるだろうか。わたしたちは日常的に口にすることもなくなって、ひさしい。社会や歴史の教科書には記載されているのかもしれない。ちなみに、平成生まれの療法士に尋ねてみたら、彼らはこの言葉を知っていた。
ある朝の食堂でのことだ。背後からヘルパーの声がする。〈きょうから、にっぱしちょうの内海朝子さんが、このテーブルに着きます。どうぞよろしく〉生家のある町の名前を聞いて、わたしはドキリとした。どの辺りの人だろう。興味もわいてくる。ひょっとしたら、小学校時代の同級生の母親かもしれない。内海さんは見たところ、90歳は超えていそうだ。わたしの母は生きていれば、100歳になる。
数日後、妹が病室にきた。妹はわたしの世話係である。家事や農事が忙しいのによくきてくれる。〈内海さんが足を骨折したそうよ〉地元の情報がもたらされる。そうか。内海さんは、同級生の母親であった。
戦争未亡人とは、戦争で夫をなくした女性をいうのだ。いまその女性を目の当たりにして、わたしはおどろいた。衝撃を覚えたのである。この国の「戦後」は終わっていない。しみじみと、そうも思うのだった。
内海さんは毎朝、病院4階の通路を歩行器をおしながら散策している。気ままに、ゆったりと。わたしは、朝食の7時45分より早めに食堂に行く。自主トレーニングのためだ。やわらかい紙をたてに裂く。それをなるたけ小さく丸める。不自由な指先を訓練するのである。そのとき内海さんがそばを通った。思いきって呼びとめた。〈元気をもらってますよ〉〈そうですかぁ〉内海さんの色白の顔がにこにこする。
それから数日後、内海さんはこう語ったのだ。
〈ほんとに、さびしい人生でした。戦争が引きさいたのです〉。
夫と妻、父と子ども。そのきずなを戦争が無惨に切断してしまったと、内海さんは言うのである。こうも語った。〈夫のいる女の人とは、あたしはちがいます〉病室の患者4人のなかに夫の健在なおくさんがいるのであろう。そういう女の人とはなじめないと、彼女は思っているようだ。
戦争の真っ最中、1943(昭和18)年10月、内海さんは男子を出産した。その6か月後、豊橋の部隊に所属していた夫は、浜松駅頭から出兵した。それが家族との別れになった。夫はサイパン玉砕に参戦し、戦死したという。内海さんはそのとき25歳。1年と6か月の結婚生活だった。現在は96歳だという。
わたしは、若いころの内海さんを1度だけ見かけている。きれいな人だと思った。
父親を戦争でなくした級友は、1学年に2、3人いた。教師が戦死について生徒に話したことはなかった。級友どうしで話すこともなかった。ただ、1点をじっと見つめていた女子のさびしげな表情は、ずっと忘れないでいる。今になって、戦争で父親をなくした級友の母親から、その後の一端をきかされたのである。
半年間だけ、父は男子を抱いていた。〈父はよいけど。むすこはずっと、お父さんのおの字もいわなかったです〉その同級生は、父親についていっさい触れなかった。母は、その両親やきょうだいに助けられて生きてきた。〈むすこを商業高校まで出しました〉河合楽器の正社員になって調律の仕事にたずさわってきた。25年勤めたという。
〈ご主人はハンサムでしたか〉〈いや、そりゃ。あたしを見ればわかるでしょ。ハッ、ハッハ〉内海朝子さんは声をあげて笑った。
リハビリ日記④―食膳への感謝
午前11時45分。昼食が重たそうな台車に乗って運ばれてきた。定刻に遅れたことはない。わたしはいつもお腹をすかしているので、お膳がテーブルに着くやすぐに箸をとる。
ある日、ふと、前方へ目をやると、60代の女性患者がなにか祈っている。そして、80代の女性患者も手をあわせている。おやっ。びっくりした。と同時に、わたしの脳裏に浮かんだ1節がある。
はしとらば あめつちみよの おんめぐみ きみとおやごの おんにこたえよ
小学5年、6年のときのこと。担任の袴田厚先生は、戦後世代のわたしたちに毎日、この1節を復唱させた。昼の弁当をひらくまえに。小学校卒業後は復唱していない。頭の片隅に刷りこまれていたのであろう。いまごろになって、頭からすーと出てきたのである。
袴田先生は、1932(昭和7)年の生まれ。大学を卒業したばかりの人だった。わたしたちは、先生に言われるまま復唱した。きみだの、みよだのわからないままに。それを生徒が質問するのでもない。先生が解説するのでもない。先生は生徒にいったい、何を伝達しようとしたのだろう。
この原稿をまとめているとき、ふと、わたしは気づいたのだった。この1節が短歌でああることに。5、7、5、7、7の5句から成る。それで覚えやすかったのかもしれない。
しかし、内容にはなんら感慨がわかない。
*
〈あぁ、おいしかった〉食後かならず口をついてでてくる言葉だ。ほんとにおいしいのだ。病院の食事を、いつも残さず食べている。完食するのだ。耳なれない熟語だが、親族への通知表には、10点がつく。食後、ヘルパーがチェックしている。口に合わないものを残す患者もいた。
わたしの隣の席は、99歳の女性だ。1人暮らしをしていて、足を骨折したという。1日3時間のリハビリ授業は、きついとこぼす。テレビが大好きで、グループ嵐の松本潤をひいきにしているという。彼女も完食がつづくが、肉は苦手のようだ。自宅では毎日、サケと漬け物を欠かさず食べているそうだ。
病院の献立を、つぎに3回分だけ掲げてみよう。
米飯120グラム、親子煮風、盛り合わせサラダ、モズクの酢の物、フルーツ・キウイ。
米飯120グラム、豆腐のツナグラタン、切り干し大根の煮物、麩の酢の物、フルーツ・オレンジ。
米飯120グラム、豚バーベキュー炒め、ホーレン草の和え物、モヤシとピーマンのソテー、フルーツ・バナナ。
夏の食膳には、キャベツ、ニンジン、ゴボウ、インゲン、ブロッコリーなどの野菜が、よくでてきた。
わたしはこれまで、栄養の管理された食事をしてこなかった。食事時間も不規則だった。だから、きょうはどんなメニューだろう、お膳が運ばれてくるのが楽しみになっていた。
感謝すべきは、君でも親でもない。食材を作っている人たち、調理している人たち、つまり縁の下の力持ちのような存在にこそ、わたしは感謝したいと思うのだ。
リハビリ日記⑤―浴室はストリップ劇場?
患者は、1週間に2日、入浴する。ヘルパーの介助が必要だ。
隣のベッドの成川さんが、けわしい顔つきで病室にもどってきた。さきほど、入浴のためベッドを離れたはずなのに。なにかあったのかな。成川さんは足を骨折して、入院したばかりの患者である。
そのうち女性ヘルパーがやってきて、成川さんにわびている。〈配慮が足りなくて、すみませんでした〉と。
〈あたしゃ、足がふるえたよ。冷や汗をかいた。なんだ。いくらこっちが年寄りだって、プライドがある。自分のはだかを男に見せるのは、ストリップを見せるようなもんでしょう。ビックリ仰天した。もうここでは風呂に入らない。帰宅したら、あかすりのお店に行く〉。
成川さんは79歳。28歳のとき夫と死別した。それ以来〈後家〉をとおす。子どもが2人いる。日本舞踊の師匠をしてきた。調理師もしている。大柄な女性で、顔つきがおっかない。声もでっかい。
彼女はこうも言った。〈もし、この日の入浴料が明細書に計上されてたら、あたしゃ、ケツをまくるからねえ〉。
成川さんの怒りはおさまる気配がない。携帯電話をかけまくる。1回の通話が40分だ。隣のベッドに患者がいようがお構いない。わたしは4回も、成川さんの物語を聞かされた。
成川さんは、入浴の介助が男性ヘルパーだと知って、怒りを爆発させたのだ。
成川さんの抗議と自己主張は、わからないでもない。が、彼女のタンカのなかには盲点はないだろうか。浴室の観客は、2人か3人。彼らがみな男性ヘルパーだとしても、女の裸体に見いっている余裕はないだろう。彼らは、患者の入浴中の安全を守らなければならないのだから。神経も使うはずだ。ストリップ見物どころではないと思う。
*
4階の男性ヘルパーは4人いる。女性ヘルパーは8人。人手不足かもしれない。ヘルパーの労働は、きつい。体験者でないわたしは、想像するしかないのだが。その労働の対価としての給料も、とても安いらしい。女性ヘルパーのなかに、竹久夢二の描く大正美人がいる。歳は30代の後半のようだ。彼女は正社員だが、子どもの保育園料をひかれれば、手もとに残る給料は少ないという。病院内に正社員の子どものための保育園が設置されている。
ヘルパーはみな、働き者である。腰痛、肩痛、関節痛に悩まされている。大正美人も腰痛をかかえているが、顔にはださない。病院の幹部たちは、彼らの仕事の現場がどんなに過酷なものか、よく、よく見てほしい。身長186センチ、体重80キロの男性ヘルパーがいる。食堂での働きぶりは、てきぱきしている。患者たちの注目の的であった。しかし、〈会社は見てくれていない〉と、彼はじつに不満そうなのだ。
8月のこと。20歳の男性が新しく採用された。しかし、1か月が過ぎるころ、彼の姿は見えなくなった。最後に言葉をかわしたとき、彼はわたしにこう言った。〈ぼくのやる仕事がない〉と。〈ナースに、ひとりもいい人はいない〉とも。せっかく、ヘルパーという職を得たのに、新人への、責任者のリードはなかったのだろうか。ナースとのチームワークもうまくいかなかったのだろうか。
わたしは患者の1人でしかない。だが、若者の職離れのひとこまを見たような気がする。心につよく刻まれる出来事だった。
リハビリ日記⑥―先生たちへの手紙
S病院のリハビリ教室は、いつも活気にあふれている。先生たちは若いが、生徒たちは高齢である。しかし、生徒は1日も早く回復して家に帰りたいとねがっている。その切実な願いが、彼らを発憤させているのだろうか。
教室には理学療法士と作業療法士、合わせて45人くらいが勤務する。先生は、生徒ひとりひとりにやさしく接する。その物腰はやわらかい。担当の先生が休みをとると代わりの先生がやってくる。わたしが教わった先生の数は、31人にのぼった。
そのうち6人の先生へ、わたしは手紙を書いた。握力の低下と手のしびれのため、書くことがおぼつかなかった。ところが8月にはいると、文字が2Bの鉛筆で書けるようになったのだ。手紙の下書きをしてから清書をする。その手順はむかしどおりだ。1通書きあげるのに、かなりの労力がいる。集中力もいる。しかし、たのしくもあった。
その手紙を先生に手渡すのは、さらに、胸がわくわくしてうれしい。〈感動しました〉〈ありがたいことです〉先生たちは、よろこんでくれた。
6人の先生のうち4人の先生が、浜松市内で行なわれる、療法士たちの勉強会に参加している。〈ぼくはぼくでしかない〉と、ナイーブな心をのぞかせるT先生。〈勉強ができるときにしておきたい〉と、意欲的なY先生。〈恋人を見つけるにはどうしたらよいか〉と、まじめに人生をかんがえるB先生。そして、〈ぼくたちに利潤が還元されない〉と、するどい批判をするA先生。
その4人へ手紙を書いたことは、正解だった。いずれも、将来への飛躍を想像させる努力家なのだ。
先生たちはなぜ、わたしの手紙に心を動かしたのだろう。ひところ、子どもたちの個性の尊重が叫ばれた。しかしその後、子どもたちの個性は希薄になり、彼らは平均化している。企業にとっては、人たちは労働力の部品にすぎない。人材を手軽に交換できる時代になってしまったのかもしれない。
わたしは自分の眼をとおして、6人の先生のことを率直に表現したつもりだ。ささやかな人物批評になりえていれば、幸せである。先生たちの側からいえば、自分自身を客観化されたことになるのかもしれない。自分が他者の眼にどう映っているか。その手がかりになれば、わたしは、手紙を書いてよかった。
6人の先生はそれぞれ、おもしろいキャラクターの持ち主である。
理学療法士も、作業療法士も、社会的な認知度は浅いみたいだ。わたしもこれまで、その存在を知らないできた。
先生の何人かは、学生時代に骨折して療法士の世話になったという。そのとき、自分もこの職業に就きたいと思ったらしい。先生たちのこの職業への動機は、それぞれちがうだろう。その動機はともあれ、彼らは、専門学校、大学に在籍して勉学している。現場では患者に施術するだけではない。人とのコミュニケーションも要求される。ふたつの能力をもった先生たちの授業を、わたしは6か月も受けたのだ。おまけに手紙まで書いて交流できたのである。
リハビリ日記⑦―女たちのいびき
早朝からわが病室は、不穏な空気につつまれている。中里さんの声がひときわ大きい。その甲高いに声には、怒りさえ感じられるのだ。
〈あんたのいびきで、朝までずーと眠れんかったのよ。ねぇ、寝方をむこうむきにしてほしいんだけど〉。
古味さんはだまっている。中里さんの唐突な抗議にどうこたえたらよいものか。迷っているのかもしれない。
同室者には不愉快な出来事だ。しかし、わたしがとっさに思ったのは、じゃ、あなたのおしゃべりはどうなるの、ということだ。中里さんの昼間のおしゃべりには、同室者はうんざりしている。中里さんも古味さんも骨折で入院していたが、中里さんは昨秋、脳こうそくを患っている。その再発への恐怖心は、他人にはわからない。医者からおしゃべりこそリハビリだと言われたという。75歳である。
古味さんは、おとなしい人だ。84歳である。
2人はその後、どう話し合ったのか。中里さんが古味さんに弁明している。〈ごめんよ。リハビリの点数が不足してるって、先生に言われて。退院がおくれてしまうかもしれない。で、あんたに不満をぶつけてしまったの〉。
看護士長が病室にやってきた。中里さんに個室への移動をすすめた。〈もう、この件は2人で話して解決しました〉と、中里さんは答えている。その後、古味さんのわだかまりは、消えたろうか。消えたようには見えなかった。
*
深夜12時を過ぎたころ、前方のベッドから、キャーッというものすごい悲鳴が聞こえた。わたしは眠りをやぶられた。なんだろう。高川さんは、カーテンのすき間から誰かにのぞかれたのだろうか。数時間前、見舞いの夫が帰っていった。ひとりぼっちになり怖い夢をみたのだろうか。悲鳴のあとは寝言。高川さんは大柄で、男っぽい感じの人だ。70歳。
高川さんの寝言にしても、先の2人のいびきにしても、発信する本人には自覚も記憶もないのだから、始末がわるい。発信者は、翌朝にはケロッとしている。わたしは就寝が早いから、夜中に目がさめる。彼女たちのいびきの合唱たるや、とてもにぎやかだ。体の小さな人も、年老いた人も、そのヴォリュームは大きい。わたしには、共同生活の経験がない。びっくりした。ケタケタわらってしまった。
しかし、これも生きる証なのだと気づき、もの悲しくなってきた。人が食事するのも、排泄するのも、生きるいとなみだが、いびきもそれと同じこと。真夜中、昼間のストレスをいびきで発散させているのかもしれない。
それと知らず、中里さんは古味さんに抗議した。そこには弱い者いじめの気持ちはなかったか。
入院中、わたしは3人のいじわるオバサンに遭遇した。彼女たちは共通して、おしゃべりなのだ。食堂でもしゃべりっぱなし。トイレのまえでもそうだ。くわえて、彼女たちは単独行動がとれない。孤独に耐えられないのか。さらに、自分の意に反するとすぐさま怒る。自分の感情が抑えきれずナースセンターにとびこむ。告げ口をする。
他人のいびきを非難する。相手の心をいじめるのと同じだ。いじめたくなるその人の内面にこそ、じつは問題があるのかもしれない。
リハビリ日記⑧―女の人生は波乱万丈
夕暮れの秋空には、ピンク色の雲が細く、長くうかんでいる。きれいだ。病室の窓から西方には、ひときわ高くそびえるマツの大樹が見える。江戸時代に開業したという外科病院の跡地にそのまま残されたものだ。その近くにわが生家はある。しばらく眺めていると、入り口で呼ぶ声がした。手押し車をひく中川さんだ。
〈こういうところでねぇ、この人はと思える人はすくない。あした退院するので、来たわよ〉中川さんとは、食堂でテーブルがいっしょだ。足の骨を折って入院している。目がぱっちりした、感じのいい女の人だ。1920(大正9)年生まれの96歳。
中川さんの思いがけない言葉に心がほかほかしてきた。明るい気持ちになった。中川さんは、自分の言葉で正直に語りかけてくる。
いつだったか、中川さんはこんな話をした。
〈戦争は憎いですよ。わたしは戦争に人生を翻弄された。アメリカを憎んでも憎みきれんです〉家屋も自分で購入した嫁入り道具もすべて、戦火でなくした。戦後は無一文で出発したというのだ。
〈女は学校に行かなくてよい。生意気になるだけだ。女は働け〉と、父親が命令する。小学校高等科を卒業すると、中川さんは、電話局に勤めた。1945(昭和20)年5月、縁談があって結婚した。夫はその3日後に召集される。そして敗戦。外地に出兵しなかった夫は死なずにすんだ。
だが後年、夫は他界する。〈おい、おい〉洗い場に夫の声がきこえる。中川さんがふりむいたときには、夫はふにゃんとなっていた。心筋こうそくだった。中川さん54歳のとき。4人の子どもが残された。末っ子の長男は20歳で、父親の鉄工場を継ぐ。
さらにこんなことも言った。〈よくやったもんだ。神さまが休ませてくれなんだ。休もうと思ったときには、体がうごかない。わたしは欲張りでね、100歳まで生きるつもり〉。
この中川さんと同じように波乱の人生を過ごしたのが、久木さんである。
〈酒もタバコも男も、わるさはみんなやった。やらないのは、人殺しくらいよ〉と、彼女は言う。1948(昭和23)年生まれの68歳。脳こうそく後のリハビリで入院している。認知症の老人の介護ヘルパーをしてきた。〈人生はせつない。老人を看取ってほっとする。これって何だろう。彼らは人生の先輩です〉と、久木さんはしんみり語る。この入院を機に退職したいという。
久木さんは農家に生まれた。中学校卒業後の15歳から働いている。結婚後は夫といっしょに〈土方〉(土木作業員)をした。溝の掘削工事である。1人の子どもを背負って、3人の子どもの手をひく。働きづめの毎日だった。
44歳のとき、夫が蒸発した。彼女は工場に勤めたり、施設のヘルパーをしたりする。
家出した夫は、大阪でべつの女と生活していた。2年前、警察から連絡があり、子ども2人が父親の遺体と対面したという。
〈男って、甲斐性なしだ。男は信用できない〉久木さんのこの言葉を、わたしは何回、隣のベッドで聞かされたか。〈人によって、苦しみは楽しみに変わる〉彼女の波乱の人生から獲得した人生哲学なのであろう。
*
女性は、夫の庇護からほうりだされたとき、受動的な生き方から能動的なそれへと転向するのかもしれない。ひところ女の結婚を、「永久就職」とか「3食昼寝つき」とかいったたものだ。しかし、そうはらくらくいかないのが現実のようだ。わたしは今回の入院をとおして実感した。死別、離婚の人がおおい。ずっとおくさんでいられた人は少ないのではないか。
リハビリ日記⑨―言葉のちから
毎朝、病室にナース2人の巡回がある。患者の血圧、体温、脈拍を器具で測定して、彼女たちは、その数値を明らかにする。そして、〈体調は変わりないですか。足のむくみは? 手のしびれは?〉ときいてくる。つぎに〈お通じは出ましたか。量は両手、片手ですか〉とくる。お通じが出たか、というのは、便が出たかということであろう。ならば、通じはあったか、のほうがよい。わたしはこの質問のたびに違和感をおぼえてきた。
〈ごめんなさい〉〈すみません〉〈ありがとね〉そのような場面でもないのに、この言葉を連発するナースがいた。患者へは低姿勢を思わせる。しかしそのナースは、入院したばかりの患者に〈こんじょわる〉と、罵声を浴びせられた。ナースが指示した場所にその設備がないことに、患者は腹を立てたのだ。ナースは言葉をうわのそらで患者に発信したのだろうか。彼女はよく、患者とトラブルを起こす人みたいだ。
ある朝のこと、そのナースが4人の患者の前でまくしたてた。若いころ先輩ナースにいじめられてきたというのだ。迫力があった。遠州弁だからパンチがある。おどろいた。
遠州弁の日常会話は、語尾に特徴がありそうだ。そうけ。そうだに。そうずら。それら語尾にアクセントが打たれるから、全体に断定のひびきになってしまう。他人をつつみこむ優しさがない。言葉は本来、相手に自分の意思を伝達するものだ。が、その機能に安らぎのちからがくわわれば、言葉は有意義なものになるのではないか。
看護婦(士)といえば、少女時代から耳になじんできた女性の職業である。S病院には意
欲的な看護士はいると思う。ただ、わたしが具体的に接して、がっかりしたことがある。足のむくみをなくすために包帯を巻いてもらった。しかし翌朝には、包帯はずるずるほどけてしまった。いつもは、授業のあるたびに理学療法士のT先生に巻いてもらっている。きちっきちっと巻くT先生の、ひたむきさと根気には、胸が熱くなった。看護師なのに包帯がうまく巻けない。なんなのだろう?
1週間に1度、主治医の回診も病室ごとにある。こちらは薬剤師、リハビリの代表者、ナースもいっしょでものものしい。〈あべさん、足を使わないと枯れてしまいますよ〉と、主治医が声をかけてくる。そうか、枯れてしまうか。
若くはないこの主治医が、いつだか、窓の外にひろがる稲田を眺めながらしんみりと言った。〈あそこにシラサギが飛んでますね〉と。〈先生はロマンチストですね〉わたしはとっさに応えていたのだ。
〈足のむくみをなくすために、足をバタバタさせなさい〉とも、注意を促して、主治医は病室をでていったのだった。
*
2017(平成29)年がスタートする。わたしたちは、4階の東側の窓のところで、しずしずと昇ってくる初日の出を待った。ヘルパーの案内で12人ほどの患者が集まっていた。落ちついた気持ちになっていく。初日の出を見るのは、わたしは、はじめての経験だった。
元旦から、リハビリの授業が1時間だけあった。S病院は今年から「リハビリ365日」の方針を打ちだしたという。担当はユーモアたっぷりの、作業療法士、A先生。
A先生はいきなり、〈今年の目標は?〉と尋ねてきた。わたしはすぐさま、〈書くこと恋すること〉と、答えたものである。
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〔culture0501:170704〕
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