DHCスラップ訴訟学習会レポートと、憲法と社会改革をめぐる議論ー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第106弾
- 2017年 7月 17日
- 評論・紹介・意見
- 澤藤統一郎
本日(年7月16日)は久しぶりに「DHCスラップ訴訟」についての学習会。13時から17時までの長丁場。いささかくたびれたが、熱心に耳を傾けていただく聴衆を得て、とてもありがたい。
準備したレジメは、A4(40字×40行)8枚びっしりとなったが、大部なレジメを見ているうちに、「レジメのレジメ」が必要と思うに至った。それが、下記の1枚もの。結局はこのレジメと板書だけで3時間の報告。言わんとするところの大意はつかんでいただけるのではないか。
私は、DHCスラップ訴訟を素材に憲法を語った。そのあと、出席者の憲法をめぐっての議論が興味深いものだった。概要をご紹介しておきたい。
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DHCスラップ訴訟報告・レジメのレジメ
第1 言論の自由について
1 表現の自由(21条)の位置づけの理解について
*表現の自由は人権のカタログの中で優越的地位を占めるものとされる。
*その根拠は、表現の自由が
(A)「自己実現の価値」(自己の人格を発展させる個人的価値)と
(B)「自己統治の価値」(政治的意思決定へ関与する社会的価値)とを
ともに有しているからである、という。
2 「自由とは、他人を害しないすべてをなし得ること」(人権宣言4条)か?
*「他人を害しない自由」「誰をも害しないことをする権利」は意味がない。
*権力者におもねり、権力を称賛する言論の自由を論じる意味はない。
第2 すべての権利に内在する限界についての一般論
*外在的な「公共の福祉」や「公序・公益」ではなく、
他の人権との衝突の局面での「調整原理」が内在的制約。
第3 私のブログでの言論が許されるか。
1 私のブログでの言論はDHC・吉田の人格権を侵害した。
*だから私の「表現の自由」と、吉田の人格権との調整の問題が生じる。
2 私の言論の(B)「自己統治の価値」(政治的意思決定へ関与する社会的価値)が、DHC・吉田の人格権の価値を凌駕する。
3 そのことが以下の結論(ないし説明)となった
「当該言論は、原告の社会的評価を低下させているが、
*表現の内容が公共の事項にかかるものであり、
*表現の目的がもっぱら公益の目的に出たものであり、
*かつ表現が真実(ないしは真実と信じたことに相当の根拠がある)だから
違法性を阻却される。
第4 反撃訴訟では、裁判を受ける権利(32条)の限界が問題となる。
*スラップを起こす側の「裁判を受ける権利」は保護に値するか
*スラップの被告側にも、「無謀で不必要な提訴にさらされない」権利がある
○スラップ原告の主観的目的や態様次第で民事訴訟制度本来の趣旨を逸脱
○スラップを起こされる被告の具体的不利益と社会的不利益
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「メディアに立憲主義という用語が蔓延し、『憲法とは、国民が権力に守らせるための命令で、国民自身が守るべきものではない』と説明されるようになった。しかし、これに賛意を表している左派陣営に違和感を覚える。」
こんな風に議論の口火を切ってくれる人がいるとありがたい。
「かつて左翼陣営は、法そのものを『支配階級のイデオロギー』と理解していたはずではないか。だから『合法主義』が身内への悪口となっていた。」「『憲法とは、国民自身が守るべきものではない』という意見の底に、憲法分野での運動に対する軽視の姿勢が見えるように思える。」
「いいや、それは誤解だ。」という反対論が出る。「それは、ことさらに政治論と憲法論を混同させる議論ではないか。戦後の革新政党は一貫して憲法論や憲法運動を重視してきた。けっして、法や憲法における分野の運動をおろそかにしてきたわけではない。」
「そうかな。結局はプロレタリアートのディクタツーラ(独裁)が人民を解放し社会矛盾を解決するという考え方と、ブルジョワ憲法を擁護して憲法の理念の実現をはかれ、という運動論が両立するだろうか。むしろ、明確にプロレタリアート独裁路線ではなく、議会制民主主義を通じての平和と人権を実現する日本国憲法の路線を採る、と宣言するべきではないのか」
「私も、かつては左翼の一員として、法は支配階級のイデオロギーに過ぎず、法の改良を積み重ねて社会改革などできるわけはない、と考えてきた。しかし、今は考えを変えている。日本国憲法は国民の福祉の充実まで保障している。これを社会的綱領と考えて、憲法を擁護し憲法の全分野の理念を実現する運動で、体制を変革せずとも、相当のことができるのではないか」
「本家本元の革新政党が、そういう立場に立っていない。プロレタリア独裁を通じてではなく、議会制民主義を通じて社会改革を実現するとし、『憲法を守る』だけではなく、むしろ積極的に社会主義的な要素を取り入れた『進歩的な憲法改正案』を提案すべきだと思う」
「現行憲法の中には、先見的な社会保障の分野もある。これを進歩させるというやり方も考えられる。日本国憲法は生存権を明記しているが『最低限度の』保障。韓国憲法は『すべての国民は、健康で快適な環境において生活する権利を有し』となっていて、日本のように『最低限度の』という限定はない。『生存権』ではなく『健康権』と呼ばれているそうだ。そのような憲法改正を積み重ねて社会を変えていく、という方法が魅力的だ。」
「とはいえ、政党には政党それぞれの理念がある。革新政党が、将来のことにせよ資本と労働との基本矛盾を克服しないかぎり真の人間解放はあり得ないとしている立場を不当とは言えない。資本主義憲法の根幹をそのままに、改良を重ねて行けばよいかどうか。軽々に回答は出ないのだから、今は、憲法を論じる際に政治論を絡めずに議論するしかないだろう」
「人権、自由、あるいは平等という価値、平和や民主主義も、体制の如何を問わず普遍的なものではないか。その根源にあるものは、個としての人間一人ひとりの尊厳を尊重するということ。革新政党も、日本国憲法に盛りこまれている諸価値の普遍性を積極的に認めて、将来にわたって尊重することが重要ではないか」
このあたりで、会場の退出時間となって終了。さて、今日の議論は、DHCスラップ訴訟にまつわる議論だったのかな。それとも離れてしまったのかな。
(2017年7月16日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.07.16より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=8866
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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