安倍晋三の国政私物化を許してはならない。
- 2017年 7月 19日
- 評論・紹介・意見
- 澤藤統一郎
法の支配こそが近代国家運営の大原則。法は権力の恣意的行使を許さない。権力者の私的な利益のために権力が行使されてはならない。そのような疑惑自体があってはならないことなのだ。
歴史の揺籃期には、国家は国主の私有に属するものだった。その当時公私の別の観念はなく、国のすべてが国王ひとりのものであり、権力の行使は王の一存に委ねられていた。法の支配が貫かれている今、そのようなことが許されてよかろうはずはない。
いかなるカムフラージュを施そうとも、権力者の私的な利益のための恣意的な権力の行使が許されてはならない。国家機関の官僚が権力者の私兵として動かされてはならない。
法治に穴を穿つ人治の事実も、そのかすかな疑惑も見逃されてはならない。国民の批判を免れてはならない。それは、国の腐敗を表す行為であり、民主的な政治過程を過つ行為であり、公正であるべき行政をゆがめる行為なのだから。
森友学園事件とは何であるか。安倍晋三夫妻が、極右の幼児教育に「涙の出るほど感動」して、この極右教育者のために神風を吹かせて、極右教育を行う小学校建設の便宜をはかったことである。安倍夫妻が加担した幼児教育とは、教育勅語を暗唱させ「安倍晋三首相ガンバレ」と園児に三唱させる幼稚園教育の延長線上にあった。明らかにこの件の核心は、アベ夫妻の行政私物化にある。しかも、極右教育への賛同と称揚が動機となって行政をゆがめたのだ。けっして、アベ夫妻の公私混同の責任を看過してはならない。
この件は、世論の批判を受けて、安倍が籠池を裏切って幕引きをはかろうとしているが、問題は未解決である。近畿財務局による学校敷地払い下げ価格8億円値引き根拠や経過そして責任の所在が未解明である。「記録は破棄した」で説明責任が免責されてよかろうはずはない。なぜ、安倍昭恵を証人喚問しないのか。なぜ、トカゲの尻尾だけを切って、本体にメスを入れようとしないのか。
加計学園事件とは、腹心の友への巨額の便益供与疑惑である。普通は、厚く施されたカムフラージュの壁に阻まれて、なかなか疑惑は外に見えることなく、窺い知られぬまま葬り去られる。加計学園疑惑がここまで明らかになったのは、偶然の産物であり、奇跡でもある。
安倍としては、国家戦略特区諮問会議議長として腹心の友に利益を与えてはならなかった。安倍の論理に乗ったとしても、岩盤規制に穴を開ける最初のケースは、京産大とすべきだった。腹心の友への利益供与は、京産大獣医学部新設の成果を見たあとの二番手、三番手にすべきだったのだ。
これも、疑惑は未解明。加計孝太郎や安倍昭恵、内閣官房や内閣府、国家戦略特区の関係者をなべて証人喚問しなければならない。閉会中審査の数時間の質疑で、解明できるはずはないのだ。
アベとモリ・カケとの関係は、江戸時代のお代官と越後屋さながらではないか。明治期の藩閥政権と政商たちとの関係でもあろう。官有物払下げにまつわる疑惑は、いくつもあった。発覚したのは氷山の一角であったろう。開発独裁国家の腐敗政権も思い出される。アベ政治とは、そのレベルなのだ。
「アベのアベによるアベのための政治」「トモダチのトモダチによるトモダチのための行政」を徹底して清算しなければならない。そうしなければ、わが国は「公私混同を理解しない愚かな権力者の、愚かな手下たちによる、愚か者一味の私的利益実現のための腐敗した国家」という汚名をすすぐことができない。
(2017年7月18日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2017.07.18より許可を得て転載
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