2017年ドイツ紀行(9)Hardegsenでの日々の徒然
- 2017年 8月 15日
- カルチャー
- 合澤清
Hardegsenでの生活
雨が降らない朝は、ほとんど毎日スーパーに買い物に行くついでに近くの山道を迂回しながら散歩している。時々自動車が通る以外は、実に静かで、左手の急斜面には牛が放し飼いされて、雑草を食べている。もちろん柵があるので、歩道を歩いても全く危険はない。
すれ違って通る人は大抵犬を連れて散歩している人たちだ。ドイツ人は挨拶が好きで、どんな人とすれ違っても『おはよう』と声をかけて来る。中にはもう何度も顔を合わせている人もいて、なんとなく親しい関係が生まれる。
また、散歩道の両側の並木には何本ものリンゴの木が植わっていて、7月末ともなれば、リンゴがたわわに実っている。時々はもいで食べてみるのだが、実の大きさは既に直径7センチ以上にもなっているのに、食べるとまだ酸っぱい。木が低いうちは手でもげるが、中にはとても届かないほど大きくなった木もある。はるか上の方に鈴なりになったリンゴは誰がもぐのだろうか。おそらく鳥の餌と地面に落ちて地味を肥やすに役立つのであろう。
南国生まれの私にはもったいない気がする。
(写真は上左から「散歩道」「(緑色なので見えづらいが)リンゴがたわわになった木」、下は「すぐ近くの居酒屋」)
早朝の散歩には大抵長袖を着て、ズボンは少し厚手のGパンといった服装であるが、それでも震え上がる時もある。日本にいると信じがたいことだが、時々は道路にうっすらと霜が降りている。
スーパーでの買い物を終えて帰宅しようとするときには、逆にすごく暑くなり、上着を脱いで半そでのシャツ一枚になるのが通常である。ほんの少しの時間でも、寒暖の差がこれほど激しいのがドイツである(多分、湿度が少ないせいだろう)。
下の写真の左側の建物は、私たちの家から公園を横切って、徒歩7分ぐらいのところにある居酒屋。Burg Schenke(居酒屋・お城)という名前で、写真の右手がお城の母屋で、これは今は公共施設(多分市役所の事務所か何か)になっている。この居酒屋は、元はお城の付属建築物だったと思われる。私の様に日本で貧乏生活に甘んじている者にとっては、なんだか敷居が高い感じがするが、さに非ず。全く普通の居酒屋でしかない。去年はスラブ系の若い娘さんが二人働いていたが、今年は今のところ若者二人に代わっている。「彼女たちはどうしたのか」と尋ねたら、「まだいるよ」との答えだった。早く代わってくれとも言えず、・・・。
今年はこの店のライバル店がここから徒歩5分ぐらいのところにできた。旧市庁舎の地下(Keller)が新しく改装されてオープンしたのである。「Neue Liebe」(新しい恋人)という名前である。二度ほど行ってみたが、新装開店直後でもあり、満員の客だった。
ビールは美味しかった(König Pilsnerという銘柄)が、肝心の料理は?料理はBurg Schenkeに軍配をあげたい。
ワイン「ヘーゲル」を頂戴した友人のラルフに、「味はどうだ」と聞かれるため、(本当は持って帰って皆で飲もうと思っていたのだが)止むなく栓を開けて試飲した。かなり濃い味がした。ワインの色もドイツの赤ワインにしては濃いと思う。
この事に関して少し補足したい。「試飲」した翌日に再び、今度は本格的に飲むことにした。驚いたことに、前の日と味が違っているのである。抜群にマイルドで美味しくなっている。これは私だけの味覚ではない。連れ合いも同じことを言っていた。どうした訳だろうか?
おそらく、よくいわれるように赤ワインは空気に触れさせるのが良い、ということではないだろうか。
一昨年ペトラが持っていたのは白ワインだったという。でも、Württenbergのワインは赤が主流のはずである。白は逆に珍しい(ドイツのワインは白が主流だが)。
「ヘーゲル」のことをメールでお知らせした滝口先生から情報を聴いた日本のヘーゲル学者が、一斉に醸造元に注文でもしたら、「ヘーゲルワインブーム」がおこるかもしれない??
しかし、生方先生がチュービンゲンのタクシーの運転手に聞いたという話では、Württenbergの赤ワインは、大抵地元で呑まれてしまうため、めったに他の土地には出回らない貴重な逸品という。生産が間に合うのだろうか、などと余計な心配をしてしまう。
でも正直に言えば、私の従来からの好みは「フランケンワイン」である。これは味もコクもある絶品だ。マルクスさんは出身地の「モーゼルワイン」がお気に入りだったそうだが、こちらは「フルーティ」で美味しいが、いまいちコクに劣る。
まあ、お酒の話は切りがないのでこれくらいにする。
話題を変えて、近頃気がついたことを二題。
ペトラさんの年若い友人に、コソボ出身のアルバニア系ドイツ人女性がいる。以前に、ペトラが彼女のことを心配して、「彼女はどうも学校の勉強に身が入らないようだ」と嘆いていたことがあった。おそらくかなり生活が苦しかったのではないだろうか。
しかし、今回彼女と再会した後、ペトラに聞いた話では、彼女は一念発起してギムナージウムでアビトゥアー(Abitur)=大学入学資格試験に合格し、今は大学に通っているとか。
すごく性格の良い人なので、何とか貧困のスパイラルから抜け出して、将来を切り開いてもらいたいと心から願っている。
もう一つは、ドイツでは草刈が盛んに行われるという話。夏場から秋口にかけての日本は、まさに藪蚊のシーズンでもある。昔は蚊帳を吊って蚊による安眠妨害を防いでいたが、今日では電子蚊取りマットかなんかで、簡単に侵入を防いでいる。それでも、昼間の日常生活などで、蚊に刺されて不快な思いをすることはままある。
東京での日常生活でよく感ずるのは、公園や川渕の雑草刈りがあまりやられていないのではないかということだ。ドイツは日本に比べて比較にならない位蚊の発生が少ない。おそらく昼夜の寒暖の差が激しいから、また冬の寒さが並大抵ではないからであろう。
それにもかかわらず、ドイツ人はこの季節、頻繁に草刈をやっている。日本の様に草ぼうぼうというわけでもないのにである。おそらく二週間に一度は草を刈っているのではないだろうか。道路沿いの雑草や立ち木の枝切りなども頻繁に行われている。
日本ではどうか?大抵は夏場が過ぎて、秋になってから初めての草刈りが行われている。立木の剪定は大抵春先が多いように思う。専門家ではないので、どうしてだかは分からない。しかし、蚊の発生を防ぐ意味からいえば、なぜ梅雨入り前に草を刈らないのか、なぜもっと頻繁に草刈を実施しないのか、なぜ(体に有害な)除草剤をつかうのか、いつもこの点が不満である。蚊に刺されるのは大人でも嫌だが、夏場に河原で遊ぶ幼い子供たちが、辛い思いをするのは考えるだけでおぞましい。大して費用がかかるわけでもあるまい。ドイツを見習って、是非実行してもらいたいものだ。
始めて葬式(Leichenfeier)に参列する
行きつけの居酒屋で常連客だった一人が亡くなった。まだ76歳だったという。癌だったそうだが、2カ月ぐらい前までは元気だったという。
エレガントな感じの奥さんと一緒に、連れ立って毎週一回は呑みに来ていた。そのために住んでいる場所からゲッティンゲンまでバスの定期を買っているといっていた。
こちらではよくStammtisch(常連用のテーブル)とか、Stammkneipe(行きつけの居酒屋)といういい方をする。ほとんど毎日顔を出す人もいるにはいるが、大抵の人は、毎週決まった曜日、決まった時間帯に顔を出す。われわれも、かつては週に3回通っていたのだが、さすがにこのところは、週2回にしている。
そのせいか、常連客とは顔なじみである。中には2時間位、一緒の席に座って話し相手になってくれる人もいる。こちらにとっては願ってもないドイツ語の練習相手である。
亡くなった方ともそういう仲(もっとも、長話はあまりしなかったが)で、いつもニコニコと話しかけてくれる人だった。
彼の奥さんの友人のドイツ人で、日本で働いた事のある方が、その期間の社会保険の請求をどうすればよいのかと相談してきたことがあった。一応日本から送られてきた書類を読み、判る範囲で説明したこともあった。
彼が亡くなったと聞いたのはいつだったろうか、正確には思い出せないが多分7月の半ばごろではなかったか。
葬儀は8月4日に行われた。その日の正午に、ゲッティンゲンの郊外(今ではあまり郊外とも思えないが)にある広い市民墓地(「墓地公園」と呼ばれている)の中のKapelle(礼拝堂、チャペル)に関係者およそ100人が参列し、女性の牧師のてきぱきしたリードのもとに行われた。われわれにとって、もちろん初めての経験だったので、ペトラにいわれるがままに、ドイツ流儀のやり方に従った。
式服は日本と同じく「黒」が基調で、黒いネクタイの人も何人かいた。但し、われわれの様な知人は、「出来るだけ」という但し書きがつくだけで、平服でもかまわないようだ。
先ず、ペトラが買って来てくれたカードに、葬別の言葉(これは多分に定型化されている)を書きこみ、署名をして5ユーロ同封(これも知人はこれ位が相場であるそうだ)。
カペレには既に遺族などが座っていたが、参列者は花輪とろうそくなどで飾られた聖壇に向かって手を合わせ、椅子に座って、牧師の登場を待った。中には個別に遺族と挨拶し合う人たちもいた。
やがて重々しいパイプオルガンの音が流れ、牧師が登場、葬儀取り仕切りの挨拶と死者の経歴の紹介-「神の許に帰って行った」という如何にもクリスチャン的な言葉だけが印象に残った-全員で賛美歌の合唱(何と5節目まで歌っていた)、また牧師の話、再び賛美歌の合唱(今度は3節目まで)、そして締めくくりの牧師の挨拶。バッハの荘重な音楽に送られて全員が退場。
遺族を先頭に、お墓の場所まで歩き、牧師の簡単な話と墓穴へスコップで三度土をかけるのを合図に、遺族、親族、友人、知人の順で花を供えたり土をかけたり、首をたれたりしてお別れを済ませた。遺骸は既に荼毘に付されていたようだ。
その後は、われわれの行きつけの居酒屋にて、飲食をしながら遺族との挨拶と会話。これは日本と変わらないが、精進潔斎という仏教のしきたりの日本と違って、こちらでは肉食は勿論かまわない。
心やさしいペトラが盛んに涙をぬぐっていたのと、亡くなった知人の奥方が気丈に振舞っていたのがとても印象的だった。
一番緊張したのは、彼女と握手して「ご愁傷様です」の挨拶をする時だった。これは間違えるわけにはいかない。何度か口の中で呟いて見た後、やっと次のように言ったが、肝心の彼女の名前を終りにつけるのを忘れてしまった。Ich möchte mein herzliches Beileid aussprechen.
(2017.08.06記)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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