「日本人は歴史に学べ」 - 作家の半藤一利さん、終戦記念日に語る -
- 2017年 8月 19日
- 評論・紹介・意見
- 半藤一利岩垂 弘戦争
「過ちを繰り返さないために、日本人は歴史に学ばなくてはいけない」。昭和史研究の第一人者とされる作家の半藤一利さん(87歳)が、73回目の終戦記念日の8月15日、東京・池袋の映画館であった、自作の『日本のいちばん長い日』について語るトークで、日本は再び戦争を起こしてはいけないと熱弁をふるった。
新文芸坐のスクリーンの前で自作について語る半藤一利さん(左)、
右は聞き手の立花珠樹さん
8月14、15の両日、池袋駅東口の映画館「新文芸坐」で第6回新藤兼人平和映画祭が開かれた。『原爆の子』や『一枚のハガキ』をつくった映画監督として知られる新藤兼人・監督を偲び、その思いを継承しょうというイベントで、2012年にスタート。毎年8月に開催しており、今年で6回目。主催者はテレビ番組制作会社ディレクターの御手洗志帆さんだ。
今年は14日に新藤監督の2作品を上映したが、15日は『日本のいちばん長い日』の新旧2本立て上映だった。いずれも、半藤さんが1965年に執筆したノンフィクション『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』(文藝春秋刊)を原作とするもので、最初の映画化は1967年で、監督は岡本喜八、製作は東宝。2回目の映画化は2015年で、監督は原田眞人、製作は製作委員会である。
今年の映画祭でこの作品を取り上げた理由について、御手洗さんは「毎年、8月6日、広島原爆の日に開催してきた映画祭ですが、今年は終戦記念日を中心に開催する運びとなりました。戦争とは何か、失われた命とは何だったのか、日本国憲法施行70年の機会にぜひ皆さんと一緒に考える機会に出来ればと思っております」と述べている(映画祭の入場者に配られたパンフから)
太平洋戦争を始めた日本は、1945年8月15日に無条件降伏したが、これは、平穏裡に実現したわけではなかった。というのは、米、英、ソ連3国首脳が発したポツダム宣言(日本に無条件降伏を要求)をめぐり、これを受諾するかどうかで御前会議・閣議が紛糾したからだ。とくに陸軍は徹底抗戦を主張し、まとまらなかった。結局、聖断(天皇裁決)で、ポツダム宣言受諾が決まるわけだが、これに反対する陸軍の若手将校らがクーデターを起こし、近衛師団長を殺害し、宮内省の職員らを軟禁する。さらに、天皇の「終戦の詔書」を録音した玉音放送のレコードを奪おうとNHKに侵入する。が、クーデターは失敗し、若手将校は自害を遂げる。
映画『日本のいちばん長い日』は、こうした終戦をめぐる8月14日から15日にかけての日本中枢の緊迫した動きをドラスティックに描く。新旧2作の一挙上映だから、上映時間は午前10時から午後4時に及んだ。その後、スクリーンの前で、半藤さんのトーク。聞き手は共同通信社の立花珠樹・編集委員兼論説委員。266の客席は満席。
半藤さんは聞き手の質問に答える形で まず『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』をめぐるエビソードや内幕を語った。
それによると、この本を書き始めたのは1965年の正月からだが、当時35歳で、文藝春秋の社員だったから勤務中に書くわけにはゆかず、毎朝4時に起きて出勤前に書いた。出来上がった本は会社で出版してくれたが、印税は払ってもらえなかった。「取材で会社の金を使っているだろうから」というのが、会社の言い分だったという。さらに、出版当初は著者名に自分の名はなく、大宅壮一編になっていた。「お前は無名。有名な大宅壮一氏の名前なら売れるだろう」というのが会社の説明だったという。
執筆のきっかけは、ある座談会で一緒になった人の発言だった。それは「戦争中のことが、多くの人に知られることもなくどんどん風化してゆく。あの戦争で何があったかをぜひ若い世代に伝えてゆかねば」というものだった。その時、「過去を忘れないように自ら努力しなくてはと思った」と、半藤さん。
執筆にあたっては、60人くらいに取材した。最初の映画化にあたっては、撮影現場に立ち合った。
その後も半藤さんのトークが続いたが、とくに印象に残った発言をいくつか紹介する。
「終戦当時の人物でとくに私が好きな人物は、首相の鈴木貫太郎だ。彼は終戦の日の8月15日の夜7時のラジオ放送で国民に語りかけたが、その時の放送の草稿が私の手元にある。その中に『私モ老兵ノ一人トシテ存スルトコロデス」という個所がある。この一文により、彼が生命を賭けて日本を終戦に持ち込もうとしていた覚悟のほどがうかがえる。陸軍には、玉砕を叫ぶ者がいた。そして、近衛師団長は殺害された。間一髪で同じようなことになるかも知れなかった。そんな中で、鈴木はよく日本を終戦に持ち込んだと思う」
「戦争というものは、始めるのは簡単だが終わらせるのが難しい。太平洋戦争でも、どうやって終結させるか陸軍も海軍も政治家も相談しなかった。終結の方法を考えないで戦争に突入した。だから、日本は、戦争を止めて平和な国家にすることがものすごく難しかった。でも、鈴木貫太郎はあの戦争を終わらせた。偉いと思う」
「終戦の時、私は15歳だった。大人たちは、アメリカ兵が日本にやってきて、男たちを奴隷にして米国に連れて行き、女性たちをめかけにするに違いないと話していた。だから、私は、そうなる前に楽しいことをやっておこうと、友だちと防空壕の中でタバコを吸ったりしたものだ。そしたら、おやじにどなられた。アメリカが日本人の男を奴隷にしたとしても、米国まで運ぶ船がないし、日本の女性をめかけにしたら、アメリカの女性が黙っていないよ、と」
「歴史は繰り返さない。しかし、歴史をつくるのは人間だ。だから、人間が変わらないと、人間はまた同じことをやる。したがって、私たちは歴史から学ばなくてはいけない。日本人はこれまでどういうことをしてきたかを学びたい。歴史を学ぶ上で映画も役立つ」
「日本国憲法は押しつけられたものと言う人があるが、そんなことはない。この憲法が出来た時、国民は歓迎し、これからの日本はこれで行く以外にないと思った。そのことを思い起こしたい」
初出:「リベラル21」より許可を得て転載http://lib21.blog96.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion6875:170819〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。