社会学者の見たマルクス(連載 第1回)
- 2017年 9月 13日
- スタディルーム
- 片桐幸雄、ポスト資本主義研究会会員
連載を始めるにあたって
翻訳原稿を分割して連載してみようと思う。この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。テンニースは『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(原著の出版は1887年)の著者で知られている社会学者であり、ここで改めて説明する必要はないであろう。
社会学者としてはマルクスの理論に批判的だったとされるが、一方で労働組合や協同組合運動に積極的に参加し、またフィンランドやアイルランドの独立運動を支援したといわれる。そして晩年には公然とナチス批判を行った。実際、本書でのテンニースはマルクスに対しては、その理論を社会学者の視点から批判する一方で、マルクスの人となりに対しては好意的でさえある。ただ本書の内容についての評価は避けたい。読者がそれぞれ判断すべきものだと思うからである。
テンニースは、原著の序文で次のように書いている。
マルクスの著作について厳密な研究をしたり、彼の生涯とその著作に関する膨大な文献を読んだりするためには多くの時間と労力を必要とする。しかしマルクスを知るためにそれだけの時間と労力を向けることのできない人や、またそういう意志のない人もいる。この論稿は主としてそういう人たちのために書かれたものである。
しかし素朴な感想としては、本書でのテンニースの文章はマルクスを短時間で理解しようとする読者にとってはあまりにも難解である。岩波文庫版の邦訳『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』の訳者の解説でもテンニースの原文は難解であると書かれていたと記憶するが、本書でも同じ思いをさせられる。その一例が文や段落の異常な長さである。原著では77頁からマルクスの理論が紹介される。その直後の78頁の13行目から、なんと96頁の10行目まで、改行は一箇所もない。18ページにわたって、『資本論』第1巻の要約が延々と続けられる。また17行にもわたって、ピリオドなしに続く文もある(原著144頁~5頁)。「マルクスを知るために多くの時間と労力を向けることのできない人や、またそういう意志のない人」のためにはこれはあまりに不親切である。翻訳では、読みやすさを優先して、多くの段落を設けた。
テンニースの文章が格調高いドイツ文だとしたら、その香りを残したまま、それを日本語に置き換える能力は私には無かった。彼の語らんとすることを普通の日本語に置き換えることだけを心掛けた。また、どうしても必要と思われる訳語の補充([ ]で示した)は別として、訳者としての注は一切付けなかった。主たる理由は、それが書けるだけの知見が訳者にないからであるが、テンニースの語らんとすることをそのまま伝えるためには、注はつけないほうがいいとも思ったからでもある。
誤訳からは免れてはいない可能性がある。それは訳者の非才のみに責任がある。それでもこの翻訳を公開するのは、二人の恩師に対する「負債」を奇麗にしておきたかったからに他ならない。批判を頂戴したい。
二人の「恩師」に対する「負債」とは次のようなものである。ひとつは、渡邊寛教授に対するものだ。本書を知ったのは、1991年3月(7日)のことである。当時東北大学におられた同教授から本書の全文のコピーが届けられた。その際に同封された手紙には翻訳を薦められると同時に、「この本の存在は殆ど知られていないと存じます」と書かれていた。実際、あちこちで調べてもこの本は容易に見つからなかった(渡邊教授はこの本を仙台の古本屋の店頭で見つけて買ってきたと言われたことがある。私自身はその後何年かかかって、ある古書店からやっと届けてもらった)。渡邊教授からこのコピーを頂からなかったら、この本を知ることも、それを翻訳することもなかったはずである。
もうひとつは、山田潤二教授に対してである。大学(横浜国立大学)時代、ろくに教室にもいかなかった私に山田教授は辛抱強くドイツ語を教えて下さった。教えていただいていた当時は苦痛でしかなかったが、それでも辞書を片手になんとかドイツ語の本が読めるようになった。そのおかげで私は読書の幅を広げることができた。山田教授は、この翻訳を読まれたら、「自分は君にこんな翻訳をするような教え方をした覚えはない」と怒られるかもしれないが、山田教授との出会いがなかったら、私はドイツ語で書かれた本を読むことなどはなかったはずである。
二人の恩師は今はともに泉下におられる。残されたものとしては、拙いものではあるが、この訳書をもって学恩に対する「ひどく遅れた報告」としたい。
2017年 初秋
社会学者の見たマルクス
私の長年の友人、
哲学者、社会研究者、社会政策家にして
労働運動、組合運動の先駆者である
フランツ・シュタウディンガーに
その1919年2月15日の70歳の誕生日への遅れてしまった贈り物として
献ずる
これまでのすべての社会の歴史は階級闘争の歴史である
とする、マルクスが『共産党宣言』で立てた命題は、結
局二つの根本的に異なる闘争形態を一緒にしてしまうも
のであった。
F・シュタウディンガー
はじめに
マルクスに関する文献[1] はあふれるほどに多い。また、あらゆる先進諸国の言葉を含む多くの言語でもって書かれた、雑誌、新聞の論説、論文もある。これらを含めればとりわけそうである。それを読破することが若い人たちにとっては生涯の課題となるほどだ。したがって、ここにまた小冊子を一冊加えるとなれば、著者としてはその釈明をしなければならないと感じることになる。ただ、たとえすでに文献があふれるほどであったとしても、この釈明はそんなに難しいことではない。マルクスという人物の人間性について知っておいた方がいいこと、そして思想の世界をかつて激しく揺さぶり、今もなお揺さぶり続けている彼の考えの核心、この二つを同時に論じる小論を、教養と知識欲とを持った多くの人に読んでもらうことは依然としてなお意味のあることだと思えるのである。
周知のことではあるが、数年前、マルクスの生涯に関するフランツ・メーリンクの著書が出版された。多大な労力と極めて深い学識でもって書かれたものである。包括的な著作であり、その本質からして、マルクスの著作についても綿密に論じられているが、メーリンクは、収集した資料が著しく多くなってしまったために「偉大な著述家の伝記を書く場合の習慣的な副題である『その人生と著作』の後半部分を圧縮することになってしまった」(序言、Ⅶ頁)と言う。このメーリンクの著作と争おうという意図は、私にはない。私は、メーリンクの著作から得たものについて感謝するものであり、本書ではMgという記号を付けて、何回かこれに触れている。
マルクスの人となりと作品とを特別の関心を持って研究しようとするならば、メーリンクによるマルクスの伝記を細部までしっかりと学びとる必要がある。そうすればまた、マルクスの人間性にかかる矛盾を見過ごすこともないであろう。この矛盾はマルクスの支持者達の間でも意見が大きく割れているものであり、単に文献上のみならず、政治上も重要な意味を持っている。
メーリンクは、若かった頃、まずトライチュケが行った社会主義への攻撃に反論し、そのあと、国民自由党の立場から社会民主主義について論じたが、最後は、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトの親密な友人であった。メーリンクのマルクス伝の第二版を編集したのは、メーリンクの遺言執行人であるが、彼の断言するところによれば、メーリンクは、彼の友人であったローザとカールが「死んだときに」、逝ったのであり、エーベルト、シャイデマン、ノスケの社会主義政権がメーリンクの命を奪ったのである。メーリンクの本を読んで、スパルタクス的傾向がこの本を強く彩っていると思う読者はいないであろうが、この本は実際は熱烈な共産主義者の著作なのである。
無政府主義者バクーニンやラッサールについては、この二人の名前にマルクスを重ね合わせて、敵意のある批判があった。メーリンクは二人をこの批判から擁護しようとしている。本書ではこのような論点には立ち入らない。対象を枢要な事項に限定するためである。
本書はまた、アメリカ人ジョン・スパーゴの『カール・マルクス 人と作品』(ドイツ語版はライプチッヒ、1912年)を無用のものとしようというものではない。この本は、たとえ全てにわたって信頼できるというわけではないにしろ、素晴らしい著作である。スパーゴの本は345ページの分量がある。もっとも、メーリンクの本に至ってはさらに分厚く、544ページもある。スパーゴもまた共産党員として書いているが、マルクスに対する彼の理解はメーリンクのそれとはかなり違っている。スパーゴの著作はメーリンクのものに先行している。メーリンクはそれを、価値のない寄せ集めであるとしているが、これは明らかに不当な評価である。
メーリンクの死後、グスタフ・マイヤーによるフリードリッヒ・エンゲルス伝の第一巻『エンゲルスの青春時代 1820-1851』(ベルリン、ユリウス・シュプリンガー書店、1920年)が出版された。これはきわめて内容豊かにして批判的精神に貫かれた著作である。マイヤーのエンゲルス伝が完成すれば、ドラマの主人公であるマルクスより先に、いつもその主人公を仰ぎ見ていた随伴者であるエンゲルスに対して、スケールの大きな書物による記念碑が献じられることになるように思われる(本書では何回かMyという記号でもってこの伝記の第一巻に触れている)。
このような著作と比べると、本書のような小さな論稿では限られたことしか語れないし、またそうするつもりである。マルクスの著作について厳密な研究をしたり、彼の生涯とその著作に関する膨大な文献を読んだりするためには多くの時間と労力を必要とする。しかしマルクスを知るためにそれだけの時間と労力を向けることのできない人や、またそういう意志のない人もいる。この論稿は主としてこうした人たちのために書かれたものである。
ウィルブラントとビールの著作の目的もこれと似ている[2]。しかし、彼らと私はおそらく共存しあえるだろうし、彼らの著作と私の以下の論稿とを併せて読めば、読者の多くはこれらが互いに補完しあっているのを見いだすであろう。私はそう確信する。ただ、前もって判断することは差し控えたい。
ウィルブラントは自分の著作を「概説のための試論」と呼んだ。私はウィルブラント以上に、対象をマルクスの生涯の簡単な説明とその学説の再録に絞り込んだが、それでも私はこの論考を「紹介と評価のための試論」と名付けたいと思う。厳密な意味での批判は最後の方の僅かなページに付加してあるだけである。
この論考のこうした限定の中でも、なお、私は次のことを期待している。ウィルブラントの著作の中にはマルクスだけでなく、ウィルブラントもまた姿を現しているが、私のこの論考のなかにも私自身がいることを明瞭にそして十分に読み取ってもらえるのではないか。42年以上にわたって、自分の考えの特性と自立性とを失うことなしに、マルクスを理解し、彼から学ぶことを心がけてきた私自身を、である。
同じことがビールの簡潔な著作についても言える。私は本書を書き終えた後になって初めてビールの著作を知った。彼の著作は分量についてみれば、本書よりもっと短く、また考察の観点も幾分異なっている[3]。
私は、上述した全ての著作からも、マルクスに対する批評で、私の知っている全てのもの――それらのなかでは、ゾンバルト、ツガン=バラノフスキー、及びマサリクによるものが強調されてしかるべきだが――からも、同じ様に、可能な限り距離を置いた。私は原典に、つまりマルクス自身が書いたものに拠った。マルクス個人の成長についての最も重要な事柄も彼が書いたものから読みとることができる。そういうわけで、ここで私が提出しようとするものを、作成者自身は報告テーマの陰に引き下がるようにしている忠実な報告書であると紹介してもいいのではないかと考えている。
拙著『ゲゼルシャフトとゲマインシャフト』の第1版は1887年に出版されたが、その時は「経験的文化形式としての共産主義と社会主義」という副題をつけた。その序文でも私は次のことを強調しておいた。「研究にあたっては、3人の傑出した著述家のそれぞれ内容の全く異なった著作から、きわめて深い影響を受けた。それは刺激的、啓蒙的かつ確信的な影響であった。その3人とは、サー・ヘンリー・マイン、O・ギエレク、そして、私が一番重要視した(経済学的)見解に関しては、最も注目すべきであると同時に最も深い内容を持った社会哲学者である、カール・マルクスである」。私はまたそこでは、マルクスを、資本主義的生産様式の発見者、一つの思想を創出しそれを明確化しようとした思想家、と呼んだ。その思想は、今度は私が、自分で新たな概念を形成することによって、自分なりの方法で表現したいと思っている思想でもある。『ゲゼルシャフトとゲマインシャフト』の本文中でも私は多くの箇所でマルクスの優れた業績に言及している。
このことから、シェッフルは(『ゲゼルシャフトとゲマインシャフト』に対する、後になってからの批判のなかで)、私には「少なからざるマルクス崇拝」が見られると思い込んでいる。これは全く根拠のないことであり、事実だけに即して見るならば、ほとんど生じるはずのないものである。私はそのような熱狂にとらわれたことは決してない。私がマルクスの名をどういう関連で引き合いにだしたのかを考えれば、それだけで私はこのような批判から免れるはずである。私は、自分の考えを構築していくにあたって負うところがあった著述家として、コント、スペンサー、シェッフルそしてワーグナーの名も挙げている。シェッフルも、である。ただ、いうまでもなく第一番目にではないが。
その時以来、マルクスについて、またマルクスの重要性について、自分の判断を大きく変更することになるほど、多くのことを学んだとも、また熱心に学び直したとも言えない。ただ当然のことではあるが、当時はできなかったことがある。マルクスは、ユートピア的な幻想を決定的に克服することに骨を折り、またそのことを誇りにしていたが(当時私はそう書いた)、こうした努力や誇りにもかかわらず、彼の思想は、明晰さを欠いた未熟な頭脳を興奮させ、動揺させるのに、なんと適していたことか。そして、マルクス自身はきわめて純粋かつ厳密な認識に向けて没頭したが、その頭脳にはなお青年期の興奮と動揺がいかに多く残っていたことか。これを判断することが当時の私にはできなかった。
フェルディナント・テンニース
[1] エルンスト・デュラーンの『伝記的・書誌的資料に見るマルクスの経歴』(ドイツ政治・歴史出版協会(有)刊、1920年、総59頁)のうち、マルクス自身に関する書誌は、マルクスがあちこちに書き散らかした小論文や新聞の論説などのリスト、手紙の宛先及び発信日と(当然のことながら、完全なものではないが)個々の手紙のリストが収められているため、きわめて価値の高いものとなっている。これに対して、そのⅣ章及びⅤ章—マルクスを論じた文献の書誌—は全く不完全であり、この本よりも、それ以前に出されたものの方がまだ優れている。
[2] ウィルブラント「カール・マルクス」(『自然と精神世界から』621号)ライプツィッヒ、1918年
ビール『カール・マルクス―その生涯と学説』ベルリン、1919年
[3] マルクスを論評した者との論争は本書では意図的に避けた。最も重要な批評者や解説者(エンゲルス、カウツキー、ベルンシュタイン、メーリンク、マサリク、ゾンバルト、フォァレンダー、シュルツェ=ゲベルニッツ、ツガン、シュタウディンガー、プレンゲ、クーノーなど)の何人かに関しては、マルクス主義について論じることになっている別巻でまた取り上げようと考えている。
(連載第1回 終わり)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study886:170913〕
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