ミャンマー人のロヒンギャ排斥感情の底にあるもの
- 2017年 10月 6日
- 評論・紹介・意見
- ミャンマー野上俊明
私の所属する日本人とミャンマー人の合同の組織では、月一回の定例会を持ちます。先月の会議では期せずしてロヒンギャ問題が話題になりました。この問題では二年ほど前、ロヒンギャという用語をNHKが使っていることに抗議する声明に在日ミャンマー人諸団体と共に我が組織も名前を連ねるかどうかで激論になり、組織分裂の一歩手前まで行きました。その経験から、我々日本人は会議ではロヒンギャ問題は出さない積りでおりました。
ところが会が少し進行して議題が尽きると、ロヒンギャについてのあれこれの話が出てきます。ミャンマー人にしか通用しない、およそ(西側)国際社会ではまともに相手にされない身勝手な話と我々日本人には思われる中身です。ロヒンギャはバングラデッシュからの不法な入国者でミャンマー人ではないので、国内から排斥されるのは当然、ミャンマー大使館に抗議行動を仕掛けてきたロヒンギャに反撃行動を起こし溜飲をさげた、渋谷にある国連(大学)に大人数で抗議デモをした、職場で日本人にロヒンギャは悪い人間だと教えたらわかってくれた、こんどはNHKは不当にも我々の言い分を放送せず、ロヒンギャに肩入れしているので抗議デモをしよう等々。
しかしそもそもこの会は入管当局の人権侵害から身を守ろうとして結成された団体です。メンバーの大多数が在留資格=正規のビザを持たない人々です。入管法の範疇では不法滞在が疑われる外国人にあたるので、本国への退去命令が出されたり、入管に収容される場合もあります。ただ多くの人は入管に収容され一定期間収容生活を送った後、入管施設から「仮放免」という条件で拘束が解かれ、一般社会で暮らすことができます。しかし就労は禁じられ、ビザがないので国保にも加入できません。居住地以外の都道府県に行く場合は。許可が必要です。いつ強制退去命令が出るか分かりませんので、日々緊張して暮らしています。国保に加入できないので、大病しても医者にかかれない人もいるわけで、そのような人々の医療支援を行なうのも会の仕事です。
したがって異国で無権利状態におかれ、不安定で不安な生活を送らざるをえないという意味で、本来はミャンマーの市民権をもたず、移動の自由もないロヒンギャと似た境遇にあり、その意味でロヒンギャへの共感と連帯感が生まれやすいはずですが、冒頭で紹介したようにまったく逆の態度です。
ロヒンギャ問題になると、ミャンマー人(ほとんどはビルマ族仏教徒)は日ごろのおとなしさから一転、激しやすく周りの雰囲気は可燃性ガスが充満したような状態になります。ロヒンギャ(インド系で肌が黒い)に対する人種的嫌悪感、ムスリムに対する宗教的反感、宗主国イギリスの植民地支配の道具として自分たちに敵対した歴史的過去への怨念など―民族的記憶の中にある諸悪をすべて畳み込んだ対象としてロヒンギャが見えてくるのでしょう。それに加えて今回は国連を代表とする西側国際社会が、許しがたいことに自分たちが選んだスーチー文民政権を束になって非難し、あろうことかロヒンギャに味方している。植民地的過去から民族的屈辱の苦い想い出までが湧き出してくるのです。西欧社会へのあこがれは、一転コンプレックスとない混ぜになってクセノフォビア(外国人嫌い)に転化します。そして民族的自尊心の核としての上座部仏教への帰依がいっそう昂じて、その昂じた国民感情はナショナリズムのチャンネルに怒涛のごとく流れ込んでいくのです。
およそ日本人は数千年にわたり人種的、民族的、宗教的な激しい軋轢とはほぼ無縁の社会で暮らしてきただけに、この雰囲気はなかなか理解しがたいところでしょう。しかし国際社会におけるミャンマー(北朝鮮と共に)の立ち位置と状況は、実はアジア太平洋戦争に至る日本の国際的孤立状況によく似ており、その意味では我々の経験と想像力の働く余地は十分あります。国民的な苦境を排外主義的ナショナリズムによって脱しようとすることの危険性、愚かしさを知る我々は、主流派ミャンマー人の心理的機序とその自尊心に十分配慮を払いつつ、彼らの排外主義への傾きには決して迎合することなく(迎合することが、友好の証だと錯覚する知緬家、ミャンマー通は多いのです)、民主化の方向にしかよりよい未来は展望できないことを倦まずたゆまず説得するしかありません。
我が会のミャンマー人同志を見ていて、気づいたことがもうひとつあります。西欧社会と比較してアジア社会一般に強く見られる傾向でしょうが、社会のときどきの大勢に対する順応的迎合的態度(conformism)が顕著であります。同調圧力が強い社会では、それに逆らうことは排除を覚悟しなければならず、実際なかなか困難なのです。平日の昼休みの時間に主流派団体が呼び掛けるデモ行進にわざわざ参加するところに「意識の高さ」だけを見るのは一面的でしょう。街頭行動へ我が会からの参加者が相対的に多いというのは、彼らが在日ミャンマー人社会のなかでは周辺に位置し、排除を恐れる気持ちが強いという面もあるのではないかと思います。
私はスーチー氏からその痕跡がなくなってしまって残念に思うことは、民主化とはつまるところ人づくりだという思想的観点が失われて、既成政治の罠にはまってしまったのではないかというところです。民主化は市民社会を築き上げ、その担い手となる「強い個人」を育て上げることにこそその核心があるのです。釈迦の説いた「我への執着を捨てる」ことと十分両立することですが、強い自我意識は強い人権感覚や正義感覚によってこそ鍛えられます。我執は自己利益に囚われた「私中心主義」を表しますが、人権感覚に優れた自我意識は、「公共的精神」や「利他感覚」など開かれた精神性を表します。私はスーチー氏が実験的に始めた一部学校での人権教育を国民運動として展開すべきだと思います。受ける側の生徒や親の印象も悪くないと聞いています。彼女のアイデアはいつも中途で立ち消えになる傾向があります。それは彼女の責任というより、彼女を神格化しその指示待ちになる社会の非民主的構造にあるのです。人権とは自分で思考する習慣を、自己決定する精神的態度を含みます。人権教育は、指導者→被指導者という一方的関係を突き崩し、指導者↔被指導者の相互作用が機能する関係をめざします。人々の意識を変え、社会関係の在り方を変える、それがなければ民主化の実は上がらず、たんなる制度いじりに終わるでしょう。
社会的弱者をいたぶり、ネオ・ナショナリズム、いや正確にいうと、「自民族中心主義 ethnocentrism」のうねりに乗ることで感じる一体感や優越感の麻酔作用は強力です。まして先進国ですら自民族中心主義は「自国ファースト」で一定の世論を引きつけているのです。しかし半世紀に及ぶ軍部独裁という回り道をしてようやくたどり着いたミャンマー民主化への道です。排外主義の流れは社会に暴力を蔓延させ、その結果国軍の過去を免罪し、国軍の地位を強化することにしかならないことを、そしてそうなれば憲法改正の道はますます遠くなることを、いま同志的忠告としてミャンマー人に強く説くべき時だと思います。
2017年10月6日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion7007:171006〕
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