周回遅れの読書報告(その34) クレジット・アンシュタルトの危機と破綻
- 2017年 11月 18日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
竹森俊平が『中央銀行は戦う』という本を書いたことがある。この本の中で竹森は、中央銀行でもない、クレジット・アンシュタルト(オーストリア)にかなりの頁を割いて、説明をしている。1931年5月の同行の危機(「破綻」と言われることもあるが、このとき同行は倒産したわけではないから、「破綻」というのは誤解を招く表現である。このことについては、またあとで触れたい)が引き金となって、ヨーロッパ信用恐慌が生じ、それがひいては同年9月のイギリスの金兌換停止につながっていったことを考えれば、この問題に対する竹森の力の入れ方は、当を失したものではない。実際クレジット・アンシュタルトの危機は、「100年に一度の津波のような事件」とされた2008年の金融危機の直接の原因となったリーマン・ブラザーズの破綻となぞらえられることさえあった(例えば、竹森との対談で宮崎哲也は「リーマンは、21世紀のクレジット・アンシュタルトになるかもしれない」と言っている)。
同行の危機はそれほどの大事件であった。その原因を何に求めるかということは、経済史的には極めて重要な問題であり、様々な議論がある。そのことを考えると、日本で竹森以前に同行の危機に大きな関心がもたれなかったことのほうがずっと不思議である。同行の投資先、融資先を見ると、東欧諸国の重みが大きく、そのために東欧農業恐慌が大きく影響し、それによって経営が圧迫されることになったということが、もっともらしい危機の原因とされてきた。竹森もまた「(中東欧の主要輸出品である)第一次産品価格が急落し、農業を主体とする東欧の経済がさらに打撃をこうむった1930年初頭に、(クレジット・アンシュタルトは)ついに経営破たんを迎えた」(164頁)とする。「1930」とあるのは、「1931」の誤植であろうが、東欧(中東欧)農業恐慌がクレジット・アンシュタルトの原因となったというのだ。しかし、1930-31年には東欧諸国の経常収支は大幅に改善していた。したがって、クレジット・アンシュタルトの経営悪化の原因を単純に東欧農業恐慌に求めてはならない。1920年代のオーストリアの銀行の実態をもう少し慎重に見なければならない。
もっとも、ここでの私の関心はこんな高尚な話ではない。関心があるのは、クレジット・アンシュタルトの「破綻」のことである。通常「破綻」といって、思い出させられるのは、「倒産」のことであり、銀行に限って言えば、「窓口」での支払い停止のことであろう。では、そういう意味でクレジット・アンシュタルトは「破綻」したのか。「否」(いな)である。確かに1931年5月に、同行の前年までの同行の決算報告が偽装されていたことが分かると、同行からの預金の引き出しが急増したことは事実である。しかし、同行はオーストリア中央銀行からの支援の下で何とか、支払いを続けた。この点で、「破綻」してしまったリーマン・ブラザーズとは大きく異なる。竹森は前述した宮崎との対談でクレジット・アンシュタルトは「潰れた」と明言しているが、同行は決して潰れてなどいなかった。では一体なぜ同行は「潰れた」とされたのか。勿論、同行を「潰れた」とするのは、竹森に限られるわけではなく、むしろ多数意見でさえあるが、それをもってして「危機」を「破綻」とすり替える言い訳にはなるまい。あるいは、潰れてしまったリーマン・ブラザースになぞらえるためには、クレジット・アンシュタルトは「潰れた」ことにしたほうが好都合だったのか。しかし、これも適切な説明にはならない。
クレジット・アンシュタルトの最大の問題は、少なくとも私のような素人にとっては、「危機」か「破綻」といった問題を含めて、それが経済史の問題としては、あまりに面白すぎるということにある。同行の危機(いや「破綻」か)の原因が東欧農業恐慌にあるなどというのは、この面白すぎる問題をつまらなくさせる陰謀の一つではないか、とさえ思ってしまう。
竹森俊平『中央銀行は闘う』(日本経済新聞出版社、2010年)
なお、竹森と宮崎の対談は「世界同時不況 日本は甦るか(座談会)」『文藝春秋』2008年12月号99頁)を参照。宮崎の発言は、竹森が「先の世界恐慌でも、危機が世界的に広がり深刻化していった大きなきっかけは、1931年、オーストリアで預金資産の7割を集めていたクレジット・アンシュタルトという銀行が潰れたことでした」と言ったことを受けてのものである。
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