連載・やさしい仏教経済学-(38)宮沢賢治の詩情と地球救援隊構想/(37)平和思想の先覚者、安藤昌益に学ぶ
- 2011年 4月 1日
- 評論・紹介・意見
- やさしい仏教経済学安原和雄
連載・やさしい仏教経済学(38)
東日本大震災(2011年3月11日発生)は天災(地震・大津波)と人災(原子力発電事故・大量放射性物質の飛散)による戦後未曾有の複合的な大惨事をもたらしている。大規模な救援・復興活動のなかで地味ながら貢献しているのが自衛隊である。大地震に限らず、地球温暖化に伴う異常気象のほか、疾病、飢餓など地球規模の支援策を求められる脅威が今後強まることは避けられない。
この多様な脅威には軍事力は無力であるだけではなく、有害でさえある。この機会に自衛隊を全面改組して、「地球救援隊」(仮称)創設へと進むことを提唱したい。これはわが国の平和憲法本来の「平和と非武装」理念を具体的に実践していくことにほかならない。同時に宮沢賢治の「雨にも負けず」に込められている詩情を地球規模で生かすことにもつながるだろう。(2011年4月1日掲載)
▽ 自衛隊を非武装「地球救援隊」に全面改組へ
(1)なぜ今、地球救援隊なのか
日米安保体制=軍事同盟は、憲法前文の平和共存権と9条の「戦争の放棄、非武装、交戦権の否認」という平和理念と矛盾しているだけではない。日米安保体制を「平和の砦」とみるのは錯覚であり、むしろ平和=非暴力に反する軍事力を盾にした暴力装置というべきである。だから日米安保=軍事同盟は解体すべきであり、それこそが平和への道である。
いのち・自然を尊重し、多様ないのちの共生を希求する仏教思想から導き出される日本の新たな進路選択が非武装の「地球救援隊」創設である。なぜいま地球救援隊なのか。
第一は今日の地球環境時代における脅威は多様である。脅威をいのち、自然、日常の暮らしへの脅威と捉えれば、主要な脅威は、地球生命共同体に対する汚染・破壊、つまり非軍事的脅威である。非軍事的脅威は地球温暖化、異常気象、大災害、疾病、飢餓、貧困、社会的不公正・差別など多様で、これら非軍事的脅威を戦闘機やミサイルによっては防ぐことはできない。
第二は世界の軍事費(2009年)は総計1兆5310億ドル(ストックホルム国際平和研究所=SIPRI調べ。1ドル=85円で換算すると約130兆円。実態は総額2兆ドル近いという試算もある)の巨額に上っており、限られた財政資金の配分としては不適切であり、巨大な浪費である。この軍事費のかなりの部分を非軍事的脅威への対策費として平和活用すれば、大きな効果が期待できる。
第三は「9・11テロ」(2001年アメリカの政治、軍事、経済の中枢部を攻撃した同時多発テロ)以降、テロの脅威が独り歩きしているが、これらテロの背景にアメリカの世界戦略、外交・軍事政策に対する反発、報復があることを認識する必要がある。いいかえればアメリカの先制攻撃論に支えられた強大な軍事力を梃子(てこ)とする覇権主義が、むしろ世界における脅威となっている側面を見逃すべきではない。アメリカの国家権力こそ世界最大のテロリスト(暴力)集団という見方も成り立つ。
以上から今日の地球環境時代には軍事力はもはや有効ではなく、むしろ世界に脅威を与えることによって「百害あって一利なし」である。武力に依存しない対応策、すなわち地球の生命共同体としてのいのちをいかに生かすかを21世紀という時代が求めているというべきであり、そこから登場してくるのが非武装の地球救援隊構想である。
中米のコスタリカは1949年の憲法改正で軍隊を放棄し、今日に至っている。日本が
自衛隊の全面改組によって地球救援隊の創設に踏み切れば、コスタリカとの連携を深めつつ、世界の平和(=非暴力)を創っていく上で先導的な貢献を果たすことにもなるだろう。
(2)地球救援隊構想の概要
地球救援隊構想の概要(目的、達成手段)は次の諸点からなっている。
*地球救援隊の目的は、非軍事的な脅威(大地震などの大規模災害、感染症などの疾病、不衛生、貧困、劣悪な生活インフラなど)に対する人道的救助・支援さらに復興・再生をめざすこと。
*活動範囲は地球規模であること。特に海外の場合、国連主導の国際的な人道的救助・支援の一翼を担うこと。
*地球救援隊の積極的な活用によって、国と国、人々との間の信頼感が高まり、軍事的脅威の顕著な削減を実現できるという認識に立っていること。
*自衛隊の全面改組であること。従って地球救援隊と縮小した武装自衛隊とが併存するものではないこと。
*自衛隊の全面改組の具体案
・装備は兵器類を廃止し、人道救助・支援に必要なヘリコプター、輸送航空機、輸送船、食料、医薬品、建設資材・機械類などに切り替える。特に台風、地震、津波など大規模災害では陸路交通網が寸断されるため、空路による救助・支援が不可欠であり、非武装の「人道ヘリコプター」を大量保有する。
・防衛予算(現在年間約5兆円)、自衛隊員(現在実員約23万人)を大幅に削減し、訓練は従来の戦闘訓練ではなく、救助・支援・復興のための訓練とする。
・特に教育は重要で、利他精神の涵養、人権尊重に重点を置き、「いのち尊重と共生」を軸に据える新しい安全保障を誇りをもって担える人材を育成する。
▽「雨にも負けず」の詩情を地球規模で生かす
(1)込められている慈悲と利他の心
地球救援隊構想にはイメージとして宮沢賢治(注)の「雨にも負けず」の慈悲と利他の心が込められている。その詩情を地球規模で生かしていくのが地球救援隊である。
(注)詩人、童話作家の宮沢賢治(1896~1933年)は東日本大震災の直撃に見舞われた岩手県の生まれで、花巻で農業指導者としても活躍し、自然と農業を愛した。日蓮宗の信徒として仏教思想の実践家でもあった。
よく知られている「雨にも負けず」の大要を紹介したい。
雨にも負けず、風にも負けず、慾はなく、決して怒らず、いつも静かに笑っている
(中略)
東に病気の子供あれば、行って看病してやり
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、行って、怖がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないからやめろと言い
旱(ひでり)の時は涙を流し、
(中略)
みんなに、木偶坊(でくのぼう)と呼ばれ、褒(ほ)められもせず、苦にもされず
そういう者にわたしはなりたい
この詩を地球規模の視野に立って、21世紀版「雨にも負けず」として読み替えれば、以下のように解釈し直すこともできるのではないか。宮沢賢治の深い仏の心と詩情が戦力なき地球救援隊の創設をしきりに促していると受け止めたい。
(2)21世紀風に読み解くと・・・
(以下の<>内が読み替え)
*雨にも負けず、風にも負けず、いつも静かに笑っている
<日本は2011年春に巨大震災と原発事故による複合的大惨事に襲われ、死者・行方不明者は総計約2万8000人(内訳は死者1万1532人、行方不明者1万6441人=3月31日午後9時現在・警察庁まとめ)にのぼった。自衛隊ヘリコプターなどの活躍がテレビを通じて放映された。備えが十分で、いつでも地球救援隊が駆けつけてくれるという期待があれば、苦痛の中にもささやかな安堵感を抱くこともできよう>
*東に病気の子どもあれば、行って看病してやり
<開発途上国では生まれてから1歳までに亡くなる赤ちゃんが年間約700万人、5歳の誕生日を迎えられずに命を失ってしまう子供は年間1100万人にものぼる。その過半数は栄養不良による。どのように看病すれば、いいのか。世界中で自然環境を汚染・破壊し、いのちを奪うために浪費されている巨額の軍事費のうちほんの一部を回せば、子ども達の目も生き生きと輝いてくるだろう>
*西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
<世界中で安全な飲料水を入手できない人は11億人(地球総人口は2010年10月現在の国連推計で69億人)で、コンピュータ利用者の約2倍に及んでいる。また基礎的な衛生施設を利用できない人は24億人もいる。人口増加を考慮に入れると、2015年には予測される世界人口の40%に相当する約30億人が「水不足国」に住むであろう。水をめぐる局地的な紛争や武力衝突は増加する可能性が高い。アフリカや西アジアでは水瓶(みずがめ)を頭の上に乗せて何キロも離れた距離を運ぶ女性の姿は珍しくない。これでは女性、母たちもたしかに疲れるだろう!>
*南に死にそうな人あれば、怖がらなくてもいいと言い
<世界で南の発展途上国を中心に8億人が飢えている。地球上の住民のうち8人に1人が飢えている勘定だ。南の国々でマラリアの患者は3億人超ともいわれる。スマトラ沖大地震・インド洋大津波(04年12月26日発生)による死者・行方不明者約30万人、避難民約150万人。毎年50万人超の女性が妊娠と出産のために死んでいる。「怖(こわ)がらなくてもいい」と言われても、死に直面する恐怖から自由になるのは容易ではない。地球救援隊が素早く駆けつけて、救援の手を差し伸べることができれば、少しは恐怖が軽減されるかも知れない>
*北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろと言い
<「北に喧嘩」の北とはアメリカであり、喧嘩とは、アフガニスタン攻撃に続くアメリカ主導のイラク攻撃とイラク占領を指している。正当な理由もなく、正義に反し、世界中の非難を浴びているのだから、性懲りもなく続けるのは止めなさい、という声は地球上を覆っている>
*旱(ひでり)のときは涙を流し
<欧州西部(フランス、スペイン、ポルトガル)で2005年水不足が深刻になり、庭の水まきやくるまの洗車を禁止する自治体が増えた。国境をまたいで流れる河川の水の奪い合い、広域の山火事も発生。03年夏は35度を超す酷暑となり、フランスでは高齢者を中心に1万5000人が死んだ。異常気象がもたらす悲劇にはたしかに涙を流さずにはいられない!>
*みんなに「でくの坊」と呼ばれ、褒められもせず、苦にもされず
<日本がイラクへ自衛隊を派兵しなければ、アメリカは日本を「でくの坊」、つまり 「役立たず」と非難し、褒めてはくれないだろう。しかし自衛隊の派兵を日本が拒否し ていたら、イラクをはじめ、多くの国や人々からは「苦にもされず」つまり「結構では ないか」と評価されただろう>
*そういう者にわたしはなりたい
<そういう国に日本はなりたい。そういう思いやりがあり、「世のため人のため」に働く人間に私はなりたい>
もし宮沢賢治が今健在なら、日本や世界の現状をみてどういう感想を洩らすだろうか。もはやそれを聴く術(すべ)はないが、想像すれば、日本を含めて世界の激変、悪化に驚き、天を仰いで歎き、涙を流すに違いない。
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(11年4月1日掲載)より許可を得て転載
http://kyasuhara.blog14.fc2.com/
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0400 :110401〕
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連載・やさしい仏教経済学(37)
安藤昌益は若い頃、禅寺で修行した経験があるとも伝えられるが、その昌益が罵倒に近い表現で、釈迦や仏教を批判している。にもかかわらず昌益の思想と仏教経済学との接点は少なくないと考える。それはエコロジー、男女対等論、反金銭観、非武装平和論 ― などで、いずれも21世紀に継承発展させるに値する昌益思想である。なかでも江戸時代に非武装平和論を唱えて、平和思想の先覚者としての地位を築いた昌益に着目したい。
昌益は武士支配下の封建体制を果敢に批判し、それを解体して理想の世界を創ろうとした。その比類のない大胆な構想力と変革・創造への高い志に現代のわれわれは学び、活かさなければならない。(2011年3月25日掲載)
昌益(1703・元禄16年~1762年)は江戸中期の思想家。現在の秋田県大館市生まれ。医学や本草学を学び、のち青森の八戸で町医者となり、晩年には広く各地を歩き、自然の道理を明らかにするため『自然真営道』(全101巻。弟子が昌益の死後に遺稿をまとめた)を書いた。農耕を天地自然の本道として人間生活の基本だと力説した。一方、武士、町人、僧侶は社会の寄生虫と決めつけ、封建社会を激しく批判した。すべての人が生産に従事して平等に生きる反封建的な社会観を説いた。
▽ 昌益の釈迦・仏教批判を今日どう理解するか
昌益は「聖釈(聖人と釈迦)よりも馬糞の方が益あり」と言った。「不耕貪食の徒」(土地を耕作しないでただ食を貪っているだけの輩)よりも肥料として役立つ馬糞の方がまだましだ、というのだから痛烈な物言いである。
このように昌益による釈迦批判は罵倒に近い。ここでは仏教の五戒(注1)に対する批判のうち不殺生戒に絞って紹介する。
(注1)不殺生戒=殺さないこと、不偸盗戒=盗まないこと、不邪淫戒=人妻と不倫関係にならないこと、不妄語戒=ウソをつかないこと、不飲酒戒=酒などのアルコール類を飲んで酔っぱらわないこと。
*不殺生戒について
「(出家して)父母を捨て妻子を離るるは、直ちに手を立ててこれを殺すより重罪なり。孝養すべき自然の父母を捨ててこれを殺し、慈育すべき子を離れてこれを殺す。故に(不)殺生戒を破るは、他に非ず、釈迦自ら破るなり。(中略)末世に殺生を業とする者の絶えざるは、釈迦の亡魂なり」と。
五戒の一つ、不殺生戒を破っているのはほかならぬ釈迦自身であり、その故に現世が乱れに乱れているのだ、と痛罵されては、お釈迦様も立つ瀬がなくなる。以上のような釈迦批判を今日どう受け止めるか。
昌益は釈迦とともに仏教を厳しく批判しているが、実は釈迦が出家したことなどをとらえて、自らは農耕に従事せず、食べ物をつくらないで、食を貪(むさぼ)る「不耕貪食の徒」としての生き方・行動を批判しているのである。仏教思想それ自体を批判しているのではないようにみえる。いいかえれば昌益が釈迦自身の説法、さらに釈迦没後の利他主義などを採り入れた大乗仏教をどこまで理解していたのかは不明である。
江戸時代の現実社会での仏教のあり方、僧侶の生き方が徳川幕府の権力構造に組み込まれて腐敗堕落していた事実に昌益は厳しい批判の目を向けたのである。いずれにしても批判の立脚点は「不耕貪食の徒」の一点にあった。
▽ 昌益思想を今世紀に生かす(1) ― エコロジー、男女対等論
ここでは比類のない昌益思想の大筋を紹介し、それを今世紀にどう生かすかを考えたい。
<エコロジー>について
まず昌益の「自然・いのち・米(こめ)」一体論を紹介する。
昌益は「米から人間が生ずる」、「米は人の親」などの認識に立ち、いのちの源は米であるという思想を打ち出している。しかもその米は「自然=天地」に依存しているのだから「自然=天地」、「米」、「いのち」が三位一体関係の下に認識されている。その意味では昌益は自然を重視するエコロジストの先駆者でもあった。このエコロジー思想を今日どう生かすか。
三位一体関係でとらえている「米」を今日では人・農・食・水・森・土地からなる田園のシンボルとしてとらえ直したい。それを今日の循環型経済社会の構築につなげていくことが課題である。その場合、最低次の三つの条件を考慮しなければならない。
*いのちを生かす農業=食はいのち、健康の源ある。そのためには安心・安全な食の供給、確保が不可欠である。農業はいのちを育て、生かする産業であり、いのちを削る工業とは異質であることを認識すること。
*食糧自給率の向上=日本の自給率(カロリーベース)は先進国中最低の40%で、残りの60%を海外に依存している。近い将来の世界的な食料不足時代に備える食糧安全保障の見地からも、価格が安いからといって過度に海外依存するのは危険である。自給率をもっと引き上げること。
*自然・環境保全型=人間を含む生き物は、自然・環境から多様な恵みを受けながら、いのちをつなぎ、暮らしている。いのちの根源である自然・環境の保全を重視する農業であり、経済社会であること。
<男女対等論>について
昌益は徹底した人間平等、男女対等論、恋愛賛美論を主張し、次のように述べている。
*人間平等の思想=「人において上下・貴賤の二別なし」
*男女対等論、恋愛賛美論
男女対等論=「男女(注2)にして一人」である男と女は「上なく、下なく、二別なき」ものである。
(注2)昌益は「男女」と書いて「ひと」とふりがなし、「人」と読ませるほど男女を対等に扱った。
恋愛賛美論=「此(ここ)の男女と彼(かしこ)の男女と、互いに相知ること、(中略)終(つい)に親和して、夫婦となる」
以上のように昌益は単に平等一般を説いただけでなく、男女対等論、恋愛賛美論にまで視野を広げている。寺尾五郎著『安藤昌益の闘い』は「これほど徹底した平等の観点、封建的身分秩序への反抗はない。200年後の明治においてすら匹敵するもののない人間平等の思想であり、近世日本の思想史上に比類なき破格のものである」と高く評価している。
徹底した人間・男女対等論には今日学ぶべき点が少なくない。21世紀を迎えてなおみられる多様な人権軽視・差別温存の現状をどう打開していくか。古くて新しい課題である。しかし人間中心主義に立って自然の征服・支配・破壊に向かいかねない人間平等論の21世紀ではない。むしろ生命中心主義に立って「人間は自然の一員」、「自然との共生」という自覚をもち、自然と人間との間でいのちを分かち合う人間・男女対等論でありたい。
▽ 昌益思想を今世紀に生かす(2) ― 反金銭観、非武装平和論
<反金銭観>について
昌益はどのような金銭観を抱いていたのだろうか。
*金銭欲が諸悪の根
「金銀銭をもって人倫上下の通用となし、世の望みことごとく足りて善いことと思うことが、慾の根となる。(略)貴賤上下貯金をなさんことを欲し、銭のために謀計をなし、互いに巧(たくら)み、巧まれ、常に慾心のやむことなし。慾は諸悪の根なれば、すなわち乱世も慾より起こり、人を殺し殺さるるも慾のなすところなり」
*商(当時の「高利貸・前期商業資本」としての商人)への批判
「商道は、不耕にして、利を巧らむ諸悪の始なり」
「金(かね)は万欲・万悪の太本なり」
昌益の商と金銭への攻撃は徹底している。そこには「欲は諸悪の根」という考えがあり、欲の中でも金銭欲が最悪という認識である。今日の経済では商いは必要だが、当時は前期商業資本、つまり高利貸し横行の時代で、昌益自身がその被害にも遭ったらしく、「カネは万欲・万悪の太本」と断じている。
昨今の拝金主義の横行は現代資本主義の末路を暗示さえしている。「非貨幣価値の尊重」という文化を経済社会の中にどう組み込んでいくかが今日の課題である。昌益の金銭無用論は理想にすぎない。現実論としては貨幣価値(=市場価値。お金で買える商品、サービス)と非貨幣価値(=非市場価値。お金では買えない地球環境、自然、人類愛、変革への志、利他主義、簡素、連帯感、心づかい、思いやりなど)の「両価値共存」のもとで非貨幣価値を重視するという経済社会を構築していくことが課題である。
<非武装平和論>について
昌益は徹底した平和主義者でもあった。彼の主張は今日に継承発展させるべきところが少なくない。単に平和論を説いただけではなく、平和の実現策つまり武力の削減案まで構想しているところに特色がある。
以下、安藤昌益の思想を発掘し、優れた理解者であったE・H・ノーマン(注3)の昌益評を紹介する。
(注3)E・H・ノーマン(1909~57年)は在日カナダ人宣教師の子として長野県の軽井沢で生まれる。米ハーバード大学で日本史を研究し、都留重人(経済学者、一橋大学学長を歴任)らと親交を結ぶ。駐日カナダ代表部首席を歴任。著書に『日本における近代国家の成立』、『忘れられた思想家 ― 安藤昌益のこと』(上、下)など。
*武力を否定する文明人
「昌益は強い語調で平和の愛好と一切の暴力および社会闘争の嫌悪とを宣言した。いわく、〈争う者は必ず斃(たお)れる。斃れて何の益があろう。故に我が道に争いなし。我は兵を語らず。我戦わず〉」(『忘れられた思想家』上)
「昌益は、平和を愛し、平和を求める人であった。したがって武力を否定する正しい意味での文明人(civilized man)であった」(『同』下)
*家臣団の大幅削減を提案
「封建領主は近隣の大名に不意打ちされること、否それよりも人民の蜂起を恐れて厖(ぼう)大な家臣団を養っているが、昌益はこの家臣団を大幅に縮小して領主一人あたりにつき家臣の数を限定し、職を離れた者は帰農さすべきであると説く。そうすれば社会はこういう寄生者を扶養する負担から解放され、彼らを有用な勤労に就かしめることができる。費用のかかる大勢の家臣を養うことをやめて、人民を押しつぶす負担を免除するならば、全国の支配者も封建諸侯も農民騒擾(そうじょう)の根因を一挙に除くことができると昌益は説く」(『同』下)
*武士は単なる穀潰し
「昌益の重農論の最も独創的な特徴は、かれの時代のどの思想家とも異なって、武士を全く無用な怠け者、社会的に何ら有用な機能を行わない単なる穀潰(ごくつぶ)しであり、したがってかれの改革案では何らの役割をももたない者として排撃したところにある。これこそ実に昌益の思想の本質であり、独立農民からなり、武士階級の存在しない農本民主主義である」(『同』下)
*提案の実現性
「職業軍人からなる大常備軍の必要なき社会を招来する綱領は今日では合理的であるだけでなく、実現しうる。それがはじめて提唱されてから200年の歳月を振り返るならば、それは大胆にして創意に富み、しかも本質において現実的な精神にしてはじめて構想し得たものであった」(『同』下)
常備軍全廃論ではドイツの哲学者・カント(1724~1804年)の著作『永遠平和のために』(1795年に出版)が知られる。カントは「常備軍は時とともに全廃されなければならない」と提案した。
昌益の常備軍廃止論はカントのそれよりも半世紀近くも前に打ち出された構想(もっとも当時は未発表)であり、武士支配の封建体制下で武士の存在そのものを否定する、これほど創意にあふれる提案にたどり着くとは驚くべきことである。それも生産労働者としての農民を主役に据えたからこその先覚者らしい着想であろう。
昌益の独創的な常備軍廃止論は今日こそ継承発展させるべき構想である。自衛隊の全面改組による非武装「地球救援隊」(仮称)創設へとつなげたい。これが仏教経済学の目指すところである。
<参考資料>
・E・H・ノーマン著/大窪愿二訳『忘れられた思想家―安藤昌益のこと』上、下(岩波新書、1950年)
・寺尾五郎著『安藤昌益の闘い』(農山漁村文化協会、1978年)
・安原和雄「安藤昌益と仏教経済学 ― 二十一世紀版<自然世>を考える」(駒澤大学『仏教経済研究』第35号・平成18年)
初出:安原和雄のブログ「仏教経済塾」(11年3月25日掲載)より許可を得て転載
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〔opinion0388 :110325〕
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