書評:『「飽食した悪魔」の戦後』-戦後日本社会の闇を形作る731部隊の亡霊
- 2017年 11月 26日
- カルチャー
- 合澤清
『「飽食した悪魔」の戦後-731部隊と二木秀雄「政界ジープ」』加藤哲郎著(花伝社2017 )
加藤のこの大冊(「人名索引」を入れると400頁を超える)をそれでも一気に読み上げた。著者一流の綿密で広範な文献渉猟よりなるこの書は、大いに読み応えのある一冊で、ここに網羅された問題は、只に戦中・戦後のある時期の問題というだけでなく、まさに今日に至るもまだ脈々と続く日本の闇社会の底流を形作っているものを暴き出している。それだけに「不気味なリアリティ」をもって読む者に迫ってくる。
この本の「はしがき」冒頭でも触れられているが、この日本軍細菌戦部隊(通称731部隊と呼ばれる、石井四郎軍医中将を最高責任者とする関東軍防疫給水部)の犯罪性を戦後いち早く暴露し、全国に衝撃を与えたのは、作家森村誠一の実録『悪魔の飽食』(1981)である。
「平時の自国ではおおむね平凡な市民で(あり)、家族を愛し、社会から分担された仕事を受け持ち、責任と常識を弁えた善良なる小市民」による、これ以上考えられないほどの残虐非道な戦争犯罪を赤裸々に告発したのがこの森村の書であった。
加藤があえてこの問題を再び取り上げた直接の機縁は、彼が長年手掛けてきた原発研究(福島原発事故をもたらした日本の科学者と平和運動についての研究)と、情報社会(情報戦)という観点から「ゾルゲ事件」を見直すという研究、とりわけ後者に関連する形でこの731事件が引っ掛かってきたことによるという。しかし、評者の管見によれば、「安保法制化」「共謀罪」という形で、戦争犯罪(侵略の歴史)を隠蔽しつつ、再び戦争国家たらんと画策する日本社会(支配構造)の根幹のところに、この731部隊に象徴される「おぞましい」歴史的現実が実際には無反省・無自覚に継承されていること、この点を暴き出すこと、危険性を告発することが大きな要因になったのではないだろうか。
事実としても、この部隊の主要な残存者は占領軍にデータを提供して戦犯訴追を免れ、大学(東大、京大、金沢大、広島大、長崎大などの全国各地の大学や研究機関-本書、296頁参照)の医学部教授や大手製薬会社の創業者や幹部などの地位に納まり、あるいは右翼雑誌社の設立者・経営者、株屋(この書で取り上げられている二木秀雄がそうだったように)として、政界や裏社会とのつながりにおいても戦後をのうのうとして生きのび、今日の社会にも依然としてその影響力を行使しているのである。
例えば、この本の中で写真が引用掲載されているのだが、2013年5月12日の日付で、現総理大臣・安倍晋三が、航空自衛隊のアクロバット飛行隊隊長機の操縦席に座って撮った写真(宮城県松島の自衛隊基地)では、飛行機のボディの日の丸の横に、大きく「731」と書かれている。これは無神経というよりは、自国の戦争犯罪、あるいは731部隊の犯した犯罪の大きさに対する全くの無反省・無自覚からくる一連の歴史修正主義へとつながる現政権の危うさ、意図を感じさせるものである。
繰り返しになるが、加藤が研究書としてこの大著を書いた意図は、むしろ今日までの戦後社会に及ぶ無自覚な(というよりも、却ってこれらの事実を称揚する気配すら感じさせる全く思慮を欠いた)歴史認識の危うさを、証拠を示すことによって根底から批判しようとする学者としての良心と気概にあったと思われる。その意味でこの書のアクセントは、戦後の日本社会、とりわけ今現在におかれていると見て差支えないだろう。
ただし、この書の全体を書評することは評者の力に余ること故、ここではほんの一部の問題に限定して紹介しながら一緒に考えていければと願っている。
ここで取り上げるのは冤罪性が極めて濃厚な事件として有名な「帝銀事件」である。この事件の背景には、戦争責任の問題、戦後の日・米関係の問題などが複雑に絡み合っていて、戦後になお生きる731部隊を観照するのに適していると思われるからである。
≪1948年1月26日に発生した「帝銀事件」の謎に迫る-G2の捜査妨害はなぜ起きたか≫
1.731部隊とは…
最初に、この書のカバー表紙裏でも紹介されているのであるが、731部隊について簡単に記しておく。
731部隊の隊員数は、3560名。「部隊の正式な解散命令はいまだ出されていない」といわれる。石井四郎(最高責任者、軍医中将)の厳命により、彼らの間には次の三つの掟が課せられていた。
一、郷里へ帰ったのちも、731に在籍していた事実を秘匿し、軍歴を隠すこと
二、あらゆる公職につかぬこと
三、隊員相互の連絡は厳禁する
そして、およそ「口止め料」であるとしか思えないのだが、戦後、731部隊隊員には(全員ではないが)その階級に応じて「退職金」が支払われているという(本書234頁以下参照)。
「関東軍731部隊は、もともとソ連との戦争を想定して細菌戦研究・実験を進めてきた。しかし実際には、ソ連軍との戦闘が開始されて真っ先に敗走したのが731部隊関係者であった。それは石井四郎と731部隊の独断ではなく、関東軍の命令によってでもなく、『内地』の参謀本部からの特別の指令によるものである。731部隊は、石井四郎の発案とはいえ、日本帝国陸軍の正規の部隊だった。」(p.78)
また「米国にとって、731部隊は、細菌戦部隊であるとともに諜報部隊でもあった。」(p.191)ことにも注目したい。
以上を予備的な前知識として、ここでは主に二つの視点から「帝銀事件」の謎に迫る著者の鋭利な推論を追思惟してみたい。
第一の視点は、「天皇の戦争責任につながる国際法違反の細菌戦・人体実験」ということ、第二は、731部隊とGHQとの密接な関係である。
2.帝銀事件とは…
帝銀事件とは、1948年1月26日に当時の帝国銀行椎名町支店で起きた大量毒殺事件のことである。
白昼堂々と「防疫消毒班」という腕章をつけた中年の男が、「進駐軍の命令」で「近所で赤痢が発生したので、予防に来た」と告げ、行員16名に予防薬を二度に分けて服用させ、そのうちの12人を殺害し、現金16万円と小切手1万7000円を奪い逃走したのである。
その際、実在した「厚生技官・医学博士 松井蔚」の名刺が使われたこと、また、使われた毒物が青酸化合物であるということ、捜査はこの二点に絞って行われた。
そして松井蔚(彼には確かなアリバイがあった)と名刺を交換した人物として平沢貞通が逮捕され、画家であった平沢がテンペラ絵具の下絵に用いた青酸カリが当の毒物であると特定された。
3.警視庁の捜査はどう行われたのか…
しかし、当時の警視庁の捜査の主な流れは、この毒物が青酸化合物ではあるが即効性の「青酸カリ」ではなく、遅効性の「青酸ニトリール」であったことから、旧軍隊でつくられて実験されたものではないかとして、731部隊をはじめとする旧軍関係者、及び米軍の防疫衛生部隊などが捜査対象とされていた。
これらのことは、TBSディレクター吉永春子の甲斐文助警部の「捜査手記」の発見(1975年)、米国ジャーナリスト、ウィリアム・トリプレットのGHQ「帝銀事件ファイル」の発見(1982年)で明らかにされた。
「甲斐手記」によれば、特殊な青酸化合物という線から、陸軍中野学校、731部隊、陸軍第六技術研究所(化学兵器研究)、第九技術研究所(登戸研究所)、陸軍習志野学校など30余りの軍施設関係者が洗われた。
また「医学博士・松井蔚」も南方防疫給水隊の厚生省側責任者で、石井四郎のネットワークに入っていた。
「石井部隊の青酸化合物実権を追って、平房731部隊以前の背陰河・東郷部隊時代の青酸カリ人体実験までつきとめた。敗戦時の『マルタ』(人体実験の対象とされた生身の人間=「敵国」人たち:評者注)処理にも青酸カリが使われ、広く隊員に自決用毒物が配布されていた。」(p.241)
48年3月には、捜査は731部隊関係者に及んだが、石井四郎以下の関係者は捜査に協力的だった。
加藤はこの点に関して、「(この当時までには)石井四郎(は)当初要求した文書での免責は受けていなかった。不安定な立場での刑事事件であるから、メディアの取材や噂の流布など731部隊情報の拡散を恐れ、G2ウィロビーのコントロールが効く日本の警察に情報提供して、隠蔽をはかったのかもしれない。」(p.242)と推論する。
実際に石井四郎は、「軍関係に間違いなし、自分もそう思う。特務機関に関係」「自分の部下に犯人がいるように思う」と漏らしている(7月20日)。捜査は絞り込まれたように思えた。
4.捜査の急転-なぜ…?
ところがここで、GHQの関係者からクレームが入る。それは既にG2ウィロビーの歴史課に深く組み込まれた、つまりG2のエージェントたる服部卓四郎(元参謀本部)と有末精三(元参謀本部「諜報機関」)からである(8月3日の「甲斐手記」)。-つまり、石井部隊はGHQと関係があるので、軍の機密を聞くのは無理だというのである。
ここから捜査は毒物ルートから「松井名刺」ルートへと急転する。その結果、8月21日の平沢逮捕となる。
GHQの介入に関する詳細は、本書の243頁以下に譲り、ここでは加藤による次の極めて重要な指摘を紹介しておくにとどめたい。
第一は、「敗戦によって731部隊の存在と人体実験・細菌戦が明るみに出ると、ジュネーブ議定書違反で関東軍の実行犯が追求されるのみならず、陸軍中央・昭和天皇の戦争責任に波及する可能性があった」(p.84)ことである。昭和天皇は731部隊を「正規の軍隊」として当然ながら承認している。また、ノモンハン事件などでは実際に細菌作戦が実行されている。
第二は、次のようなアメリカ側の事情である。「…ウィロビーにしてみれば、国務省の反対意見を抑えてまでようやく成立させた細菌戦情報と免責のバーターが壊れ、明るみに出る危険があった。それは国際的問題になることを意味した。48年8月は、極東国際軍事裁判結審(11月)の前であり、朝鮮半島の二つの国への分裂が決定的になり、中国内戦で共産党の勝勢が確定する時期である。ソ連がいつ人体実験の問題を蒸し返すかも、予断を許さなかった。かくて、ウィロビー配下の旧軍最強力メンバー、有末精三と服部卓四郎を捜査本部に派遣して、731部隊調査にストップをかけた。日本の警視庁も、G2・CICの管轄下にあり、従わざるをえなかった。」(p.245)
5.なお残るいくつかの疑問
この事件が起きたのは、石井四郎たち幹部連の免責が米国との間でほぼ固まり、「復権段階に踏み出す矢先」であった。しかも、先に述べたが、現金 16万円と小切手1万6000円余が奪われたのであるが、その数倍の現金が現場に残されていたという怪をどう説明すべきか。以下の事情からの推論も一応考えうるだろう。
「…731部隊の一般隊員が『隊員の犯行では』と直感したのは当然だった。敗戦・帰国直後の『一時帰休命令・自宅待機』と給与支給の約束が十分に果たされず、解散命令で退職金=口止め料が皆に出たわけでもなく、秘密保持と公職厳禁の掟にしばられ求職活動もままならない生活苦の境遇を共有していて、他人事ではなかったからだろう。…捜査の進行次第で、『三つの掟』が根拠を失する危機だった。」(p.245)
≪今日に至るも跳梁跋扈する731部隊の亡霊≫
この書評の一応の締めくくりとして、1996年に薬害エイズ事件を起こした血液製剤メーカー「ミドリ十字」(1950年に日本ブラッドバンクとして設立、1998年に吉富製薬に吸収合併)などの大手製薬会社の幹部に731関係者が平然と復活・復権している事実と、福島原発事故以後、ますます増加する傾向にある若年層への放射線被ばく被害に関連した問題を簡単に触れたい。
以下、長文の引用をするが、いかに彼らに「罪の意識」が希薄であったかがよく解る。
「…実際、焼跡・闇市の日本には、伝染病が蔓延していた。45年から46年にかけて天然痘(死者3000人)、発疹チフス(死者3000人)、梅毒(性病罹患40万人)、48年日本脳炎(死者2600人)などの流行が記録されている。その対策・ワクチン製造に、旧731部隊関係者ら日本人医師・医学者が大量に動員される。そこでは医療事故も避けられなかった。1948年11月、宮城県岩ヶ崎町の乳幼児百日咳ワクチン接種による三人死亡を含む65名の結核感染(岩ヶ崎事件)を、サムスは共産党によるBCG反対闘争の一環と考えた。同時期に起きた京都市及び島根県で84名が死亡したジフテリア予防接種事故については、杜撰なワクチン製造にあたった大阪日赤医薬学研究所の製造主任が『満州25201部隊』(731部隊の秘匿名)引揚者であったことも明らかにされている。」(p.289)
「…陸軍軍医学校防疫研究室長・軍医中佐で敗戦を迎え、米軍相手の隠蔽・免責工作の最前線にあった内藤良一は、戦後は一時期東芝生物理化学研究所新潟支部長であったというが、郷里の京都に戻り、小児科医をしていた。武田薬品研究部長となった金沢謙一、日本製薬の国行昌頼、興和薬品の山内忠重、日本医薬工場長の若松有次郎らは、製薬業界に入った。鈴木重夫(後に精魂会事務局)の東京衛材研究所、早川清の早川予防衛生研究所、八木沢行正の抗生物質協会、目黒正彦・康雄の目黒研究所、加藤勝也の名古屋公衆医学研究所なども医薬業界の一部である。そしてその業界は、もともと厚生省官僚の格好の天下り先となっており、東大教授等を経た医学者たちが顧問などの名目で迎えられる民間就職先だった。731部隊関係でも、例えば安東洪次は、伝研教授から武田薬品顧問となる。金子順一も武田薬品である。」 (pp.302-3)
731部隊の関係者がかかわったために薬害問題が起きたと強弁するつもりはない。しかし、1945年8月6日に広島市、また8月9日に長崎市に投下された原子爆弾による多くの犠牲者に対する救助活動よりは、この「原子爆弾をいかに戦争継続のために利用するか」に腐心して情報収集に走る日本軍と日本政府の姿は、731部隊の残虐性と酷似している。
731部隊において放射線(X線)照射の人体実験が行われていたことは、森村誠一が既に指摘している。
そして、いわゆる「原子力ムラ」といわれる医療関係の人たちの人脈(系列)をみると、かなりの人が(直接ではないにしても)731部隊や旧軍隊の系譜に連なっているように思う。
海軍少将だった都築正男を初代の理事長とする放射線影響研究所(放影研)、二代目の理事長の重松逸造も軍医、その系譜に長瀧重信、山下俊一が続く。
原爆投下直後の広島原爆被害調査団の中心にこの都築正男がいたことは、笹本征男が『米軍占領下の原爆調査』で詳しく報告している。調査は救助目的ではなく、あくまで「被爆者をモルモット扱いにした」データの回収を狙ったものだった。
福島原発事故の後、9月に福島県が全県民を対象に「県民健康調査」を実施したが、そのときの中心が山下俊一であり、その目的は「不安の解消」「安全・安心の確保」であったという。長瀧が首相官邸ホームページに掲載した文章では「三週間以内に亡くなった人びとは放射線による死亡と認められるが、四週目以降に亡くなった人びとはそうとは認められない」と書かれている。しかし、チェルノブイリ事故の際、IAEAやWHOが「放射線被ばくによる最終的な死者数は約4000人」と発表(2005年)しながら、翌年には約9000人と訂正、しかもこの数字は被災者や被災地域を限定した上での最小の予測である。ある研究者の推定では、9万3000~98万5000人という数字すら出されているのである(広川隆一『福島 原発と人びと』)。
ここではこれ以上この問題に踏み込まない。以下の本書からの引用で締め括りとする。
「広島の被爆史研究者・堀田伸永は、2011年東関東大震災・福島原発事故の直後、この石川太刀雄の論文を掲載した『輿論』(二木秀雄が創設した雑誌:評者注)四月号が広島市立図書館郷土資料室に保存されているのを見出し、京大原爆調査団、文部省調査団、日米合同調査団(ABCC)などに731部隊に関わった石川太刀雄、緒方富雄、渡辺廉、木村廉、小島三郎、田宮猛雄、御園生圭輔らが入って、原爆被告の『治療なきデータ収集』が行われたこと、その流れが、国立予防衛生研究所、放射線医学総合研究所、放射線影響研究所(放影研)、広島大学医学部・長崎大学医学部を含む大学医学部、日本医学会主流の今日の放射線被ばく研究に連なっていることを、克明に描き出した。」(p.183)
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