呪術としてのマルクス主義?―甘田幸弘氏が問いかけたこと
- 2017年 12月 17日
- スタディルーム
- 「市民科学研究室」会員杉野実
問題、むしろ「事情」の所在
「自然科学からみた社会理論の科学性―特にマルクス経済学に関連して」(杉野2014)を発表したとき、筆者は冒頭にこう書いた。「『科学』ということばの意味は、わかっているようで実はよくわからない。自然科学と社会科学とではかなりちがうようだ、とは多くの人が感じているところであろうが、さてそれがどういうちがいなのかと問われて、即答できる人がどれほどいるであろうか。」この問題意識は現在でもまったくかわらないが、物理学や生物学などとくらべて、マルクス理論にはその科学性に難があるのではないか、と論難するばかりであった当時と比較すると、「科学性」の理解おいて、短期間ではあったものの、筆者にもかなりの進歩があったようだ。よりくわしくいうと、「結論を先に決め、論理で追いきれないところを願望でおぎなう」傾向が非科学性をまねいているのではないかと、さらに具体的に論じられるようになったのである。
さて、ここに「マルクス主義は現代の呪詛宗教である」と題するサイト(甘田2014)がある。このサイトはすでに閉鎖され、甘田氏の著作はいまでは電子書籍だけになったので、「あった」というべきかもしれない。世にマルクス批判はまだ多く、そのなかには「俗流右翼」的なものも少なくないが、甘田の批判は決してそのようなものではない。マルクスが理論の当面の目標を資本主義社会の分析においたことの裏返しで、マルクス批判はその「分析」のあやまり、たとえば労働価値説のあやまりを指摘することが多いが、甘田の批判はそういうものでもなく、マルクス理論が資本主義のどの側面を強調してどの側面を捨象し、もってその信奉者をどんな行動にかりたてるか、ということに焦点をあてたものである。「現状分析」としての資本主義論ではなく、「未来社会論」としての革命論の方に重点をおいて批判するという構想もありそうでなかなかなく、「論理と理想(願望)」という筆者の問題意識とも基本的には合致している。甘田理論の意義はなによりも、マルクスの「弁証法的」理論が、「えたい結論を先に決めた」ものであることを論証した点にある。同理論の登場により、マルクスをめぐる既存の理論が混迷していた理由が解明されたと筆者は考えるので、まずそういう点から論述を始めることにしたい。
労働価値説と頭脳労働
甘田の独特なマルクス解釈の背景には、「資本主義社会のなかで頭脳労働はどう位置づけられるか」という問題意識がある。甘田もいうように、マルクス『資本論』のなかには頭脳労働形態・価値に関する記述がほとんど存在しない。だがだからといって頭脳労働が価値を生産しないとは考えられず、頭脳労働は「間接使用価値をもつ情報」を生産すると考えねばならない。『資本論』の中で資本家はもっぱら労働者を搾取する存在とされているが、たとえば機械の設計に関与する頭脳労働者は、資本家と同様に身体労働者を搾取する存在なのであろうか。マルクスは、生産費から身体労働価値をさしひいたものを利潤としたうえで、「利潤」に「搾取」にもとづく「剰余」という否定的な意味を与えた。甘田はこうもいう。「ある労働過程を不変資本と可変資本と剰余価値に分析した場合、その不変資本のなかに生産手段としての機械が存在するとしたら、その機械の生産過程もまた同様に不変資本と可変資本と剰余価値として分析できる、そのような入れ子細工状の構造をなしているわけである。」それなのに、『資本論』において「頭脳労働がまるごと無視されているようにみえる」のは、あまりに異常ではないかというのだ。
上述したような経済学理論の奇妙な外観はマルクス自身のイデオロギー的偏向を反映したものとは考えられないであろうか。筆者の考えはあとでのべるが、少なくとも甘田は、頭脳労働の排除はマルクス自身が「論理的必然性があるかのごとくみせかけることによって実に自然に巧妙に誘導」したものであると断じる。そして新古典派などの経済学者がこの「頭脳労働の排除」問題を論じないのは、そこにふみこめば労働価値説自体をみとめたことになるからであり、マルクスはそこまで考える「恐るべき天才の心理的隠蔽術」をもっていたかもしれないともいうのである。つまるところ甘田は、「マルクスは『資本家の頭脳労働』の存在を読者に気づかせないため、他の頭脳労働もないことにした」という。資本主義動態分析のみごとさによって、社会主義革命の「必然性」を印象づけるという目的を達成するために、「経済学的にあやまっていることはわかっているのに」マルクスは頭脳労働を捨象した、というのが甘田の結論であるといえるであろう。
ところで甘田は、マルクスが頭脳労働についてほとんど論じてこなかった、と断じているが、「頭脳労働」ならぬ「サービス労働」についてなら、マルクス経済学者による議論にもそれなりの蓄積がある。だがマルクス経済学内部における論争の歴史を要領よくまとめている長山(2002)も、同経済学で「価値」をもつ「商品」とされるのはもっぱら工業製品であり、たとえばただの「運送業」と区別される「引っ越し業」は価値を生産していないことになるのか、と困惑をかくさない。「サービスも立派な商品である」とする水谷(2000)の立場は大変明快であるが、「エネルギーやデザインやプログラム」をも「物的商品」にふくめる立論には、マルクス的な議論を現在の状況になんとか適合させようとする、苦心のあとがうかがわれる。「(サービス産業で)商品として売買されるのは労働力ではなく、労働力の独自の役立ちである」との議論も、「労働と労働力の区別」というマルクス的立論と、サービス産業との相性の悪さを示しているとも思われる。
マルクス経済学で頭脳労働ないしサービス労働がとりあつかいにくいという事実の背後には、マルクスの「弁証法的」理論が採用しているモデルが、実は静態的な社会経済像であるという事情もあると筆者は考える。たとえば岩林(2001)はこういう。「マルクスの推論は、以下のような仮定が成立する社会ではその正当性が保証されるであろう。すなわち、社会構成員たちがさまざまな欲望を持ち、それらを自分たちのさまざまな私的労働力の支出によって生産した生産物の交換を通じて充足する、そしてそのことを通じて社会とその構成員たちの存続が確保される、という社会において、社会構成員はすべて商品生産者であり、どの成員の労働も社会的欲望の充足にとって、したがって社会の存続にとって必要な生産物を生産する社会的に必要な労働である、という仮定が成立する社会である。」「仮想性と現実性」というロジックで労働価値概念を「救済」しようとする和田(2001)も、結合生産が存在しないとか、「1物1価」法則が純粋に作用するとかの条件をもうけており、労働価値説の成立が現実には困難であることを事実上みとめている。
「完全な兼任」と「抽象的能力世界」
資本主義社会に「革命」をおこして、社会主義社会に改造する、という課題について考えるためには、資本主義と社会主義がどのような共通点と相違点をもっているのか、という問題を考える必要がある。そして甘田のマルクス解釈およびマルクス批判は、まさにこの点において大変独創的である。革命が遂行されれば、「資本家的経営者1人、労働者2人の工場」においても、資本家1人は放逐されて、労働者2人が残る。さてこの工場で今後、「経営に関する頭脳労働」は一体どのように遂行されることになるのであろうか。身体労働が不可欠であり、頭脳労働も同様に必要であるのなら、この場合労働者らは、身体労働と頭脳労働を「同時に」遂行するしかないではないか。「自動車の開発設計、細部に至る具体的な設計製図などを、自動車を制作している身体労働者が同時に行わなければならない…開発設計をその多数の身体労働者の頭脳の中のみで達成しなければならない」とも甘田はいう。彼がいうとおり、その種の「超頭脳」が現実に形成されうるかどうかが検討すべき問題であり、それはもはや社会科学の問題ですらないのかもしれない。
「資本制生産様式中心部の身体労働と相互依存をしている頭脳労働は資本家においては否定、それ以外の頭脳労働に対しては徹底して捨象」するような思考様式は、社会主義革命を目的とするマルクス主義の思想体系全体に対して、どのような性格規定を与えてきたのか。この問題に対する甘田の解答もまた独特である。社会主義社会すなわち「全面的に発達した個人の形成する社会」を実現するためには、「労働形態、価値を十全に定位し、それに対応する経済的意識形態を十分に把握する」ことにもとづいて、「相互依存をしている身体労働と頭脳労働を統合する」ことが必要になるが、それは完全に技術論の問題である。だが甘田が同時に強調するとおり、「プロレタリアート独裁さえ実現すれば革命は成就する」といわんばかりのマルクス主義革命論は全体として、そういう重要であるはずの課題を背景におしやるものにもなっている。資本家による搾取が労働者の「疎外」や社会の二極化をもたらすとする資本主義批判も、弁証法と称される歴史発展の法則も、いずれも強調されることによって、身体労働と頭脳労働の統合という課題を背景におしやり、信奉者を「革命」に邁進させている、というのが甘田のここでの結論である。
経済学史を多少とも知る者が疑問に思うのは、かつて斯界をおおいにさわがせた「社会主義経済計算論争」に、甘田が言及していないことである。鈴木(2013)によると、ミーゼス・ハイエクの「社会主義における合理的経済計算は不可能である」という批判に対するランゲの反論は、以下のような具体的(?)方法への言及をふくむものであった。「『各本源財』の『要素価格表』を経験によって作成し、その表にもとづいて算出された、消費財の生産にもちいられる本源財の合計額、すなわち『資源費用』を暫定価格として、需要と供給にあわせて価格を調整し、逐次改定していく。」「選択行為を誘導する選好表」と「資源の利用可能量に関するデータ」は社会主義社会においても容易に入手可能であり、「代替物が提供される条件に関するデータ」を社会主義社会で入手するのは困難だが不可能ではない、とランゲは論じたがそれは妥当であったのか。「存立や存続の可能性の問題をすべて資本主義経済の側に押し付けた」ランゲは、論争の当事者としてはうまい立ち回り方をした。「資本主義がうまくいくなら社会主義もうまくいくはずだ」というわけだが、その考えには市場機構とコンピュータを同一視する「楽観論」がともなっていた。
冷静に考えればやはり不可能なはずの「身体労働と頭脳労働の完全な兼任」を、マルクス主義者らがどうして可能と考えたのか、という問題をここでどうしても考えざるをえない。この問題を論じた個所では甘田はやや冷静さを欠き、マルクスが非科学的思考におちいっているときめつけている。この問題を「科学的に」分析をしているのは、わかったようでわからない「イデオロギー」という概念の「本来の意味」を解明しようとした萩原(website)であろうか。「観念、感情、美徳、悪徳といった人間精神の道徳的状態と、肉体的・身体的状態の間の因果関係を解明することで、良識を習慣に、道徳を欲求に改造するための方法が発見されるであろう。」萩原が論じているのは「道徳」についてであるが、「能力」についても同様の議論がなりたつと考えれば、「完全な兼任」が可能とマルクスらが考えた理由も想像できる。すなわち彼らは、「ある個人の思念がその人のおかれた状況により決定される」のであれば、たとえば身体労働者が企業を経営する立場におかれれば、当然に経営能力を発揮すると考えたのではないか。「資本家の能力が労働者に移転されるとする呪術的な説明」と甘田は説明しているが、「社会状況をかえれば人々の心理状態をかえることができる」という考えこそ「物から心へむかう『裏返しの呪術』」だと筆者は考える。
「イデオロギー超有機体」と社会主義論
甘田サイトの「第一部」が、『資本論』テキストを素材として「マルクスの資本主義論」を検討するものであったのに対して、その第二部では、おもにソビエト連邦の歴史を素材として「現実の社会主義社会」を分析しようとしている。そこではアポトーシス、すなわち細胞死という生物学用語が出てくるのがいかにも唐突に感じられる。「生物の正常な発育過程における一部細胞の自死」を意味するこの用語が採用された背景には、甘田もみとめるとおり、マルクス主義が「資本の廃絶」および「国家の廃絶」をめざすことへの連想があるが、それにしても、実際には「全体主義の犠牲になって個人が抹殺されること」の意味で「アポトーシス」なる用語が用いられていることには、違和感がぬぐえない。
もし「ひとつの脳」が社会を管理すれば計画経済を可能にする「グローバルブレイン」が出現するが、その代替物として社会主義国家に出現するのが、「ひとつの脳」としてふるまう特定の個人、つまり独裁者であると甘田はいう。そういう独裁者が支配する全体主義的な国家社会を彼は「イデオロギー超有機体」とよぶのであるが、「イデオロギー遂行の主体」が、「自分の意志とは無関係に」そういう動きにしたがわされるといった、まさにマルクス的「疎外」に準ずる論理展開がなされているところには、疑問をいだかざるをえない。独裁者といえども生身の一個人であって、能力において絶対的な優位性など本来もちえないが、だからこそ、それ以外の諸個人は社会における「脳」以外の役割をおしつけられ、それにしたがわない者は収容所やテロルで抹殺される。それがすなわち社会主義社会におけるアポトーシスだというのだが、社会主義「建設」が成功しないのは「敵」のせいだとされたという古典的説明とは別に、「イデオロギー超有機体」の形成がめざされたとことさらにいうことに、はたしてどれほどの意味があるのか。
独創性という点ではたしかに比類のない、甘田の「イデオロギー超有機体」論に対する最大の疑問は、それが現実の世界における「社会主義のいきづまり」を正確に描写しているのかという点にある。たとえば「何をどれくらい作るかは中央の共産党政府が決め、それを生産するための資本財の価格や投入量も共産党が一方的に決め」るということを現実におこなおうとすると、そのあと事態はどう進展するであろうか(マレニヨム2013)。「共産党」の統制下で生産を担当する諸企業は、割り当て生産量を達成できなければ当然処罰されるが、割り当てを超過したらしたで、「能力を正直に申告しなかった」かどでの処罰はまぬがれても、割り当てそのものが次から引き上げられる憂き目をみかねない。現実には他企業と財の交換をしなければ生産が続行できないとすれば、ノルマの引き上げは生産の不可能性を意味するから、企業はむしろ目標をやや下回る生産へと誘引され、かくして国全体の生産量も低下する。各企業は「コストをかければそのまま代価がえられる」ので、国全体で無駄づかいが進んだとする単純な説明(加藤1991)も多いが、それなど「企業は甘やかされていた」とするもう一方の極端であろうか。ともかく「人間の粛清」を性急に非難するだけでは、「経済体制としての」社会主義の非合理性はみえてこないらしい。
「コミュニケーション」により「疎外」を克服しうるという考えがきびしく批判されるということは、山形(2008)ものべている。「疎外」とはそもそも「葛藤」をこむずかしくいいかえただけのものであり、疎外のない「本来の自分のすがた」などだれにも決めようがない、というのが山形のいいたかったことであるらしいが、ここでみるべきなのはむしろ、「一つの数字でしかない」価格が、「みんなで集会を開いて学級会のまねごとをするよりもはるかに豊かな情報量を持っている」から、「コミュニケーション」で市場取引に付随する「疎外」が解消できるとは考えられない、ということの方であろう。つまるところ甘田は、理想社会をめざす社会主義計画経済が「究極の人間疎外」をうみだす過程については論及したが、「疎外の解消を原理的に優先する経済システムは、非効率性を原理的にかかえこまざるをえない」(吉原2006)という認識が彼にはない。いまのべたような問題は、「諸個人が思念をたがいに表明しあう過程としての利害調整」は社会に不可欠であり、その廃絶をめざすべき理想と考えてはならないことを示していると考えられる。
マルクス的思考様式の呪縛、そしてこれから考えるべきこと
本論ではここまで、さまざまな角度からマルクス主義に言及した近年の諸論稿ともからませながら、大変独創的な甘田の論稿について、特に特徴的と筆者には思われる三つの論点に焦点をあてて紹介してきた。まず甘田は、労働価値説に立脚すると称するマルクスの経済学体系において、「頭脳労働がまるごと捨象されているようにみえる」という事実に注意を喚起する。だが頭脳労働を捨象しつつ資本主義社会像をえがいてみせたマルクスは、社会主義建設においても頭脳労働は重要ではないかのようについ思ってしまった。マルクスのこの見通しの甘さは現実により批判されることになったが、不幸なことにはマルクスの側には、「各人の思念の内容は、その人がおかれた状況により『厳密に』決定される」という強固な想定があった。甘田はそのあと、「非現実的な想定から出発した社会主義が、現実に機能するようになるために無理をする」との理路から「イデオロギー超有機体」論をとなえたが、それは彼らしからぬ「通俗右翼」的議論にもつながるものになった。
マルクスの理論が「えたい結論を先に決め、論理と願望(理想)を混同する」ものであることを強調した甘田の所論は、マルクス主義の理論と実践をめぐるさまざまな混乱を手ぎわよく説明するものであった。しかし残念なことには、自身がまた「共産主義にくし」の感情にとらわれた甘田は、社会主義が悲惨な全体主義をうみだすという結論をみちびくために、「各人の思考内容が厳格にコントロールされる」という、いかにもマルクス的な仮定を採用してしまった。ところで斉藤(1991)はこういう。「プルードンのいう契約の場合…各人は主体的、意識的に契約に参加する。…契約の習慣が拡大・定着すれば、社会的妥協も透明度を増す。…異質であるからこそ交換・交流が生じ、契約が交わされる。そして、交換を通して各自の個性はますます豊かになる。」高名なアナーキストの思想とはいえ、これは資本主義社会の住人が日常していることをなぞったものでもあって、必ずしも荒唐無稽な夢想ではない。だがたしかに「各人の個性をゆたかにする」市場の作用には注意すべきものがあるが、「異質だ(対立する)からこそ生じる交流」は市場取引にはかぎられないことに筆者は注目したい。具体的には非営利組織に着目することになるが、非営利組織が営利企業のように「相互交流による事業活性化」ができないといってなげくのではなく、そんなことはあたりまえであり、だからこそ、「個人同士としての深い心理的交流をする相手」を求める人々がまず非営利組織につどえばいいと、筆者は思う。
参考文献
甘田幸弘(2014)「マルクス主義は現代の呪詛宗教である」http://www.h4.ne.jp/~kosmos9/index.html
萩原能久「『悪魔の科学』イデオロギー」http://fs1.law.keio.ac.jp/~hagiwara/lawsemi4.html
岩林彪(2001)「マルクス価値論における使用価値捨象の誤謬」『松山大学論集』13-4
加藤弘一(1991)「書評・森本忠夫『ソ連経済730日の幻想』/ブラキンスキー&シュヴィゴドー『ソ連経済の歴史的転換はなるか』」『週刊宝石』2月28日
マレニヨム(2013)「共産主義経済とラチェット効果」http://hakase-jyuku.com/mare/category1/entry2.html
水谷謙治(2000)「サービス商品とマルクスの労働価値説」『立教経済学研究』53-3
長山雅幸(2002)「サービス労働論についてのひとつの覚え書き」http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6752/service-j.html
斉藤悦則(1991)「矛盾と生きる―プルードンの社会主義」『思想と現代』27
杉野実(2013)「自然科学からみた社会理論の科学性―特にマルクス経済学に関連して」『ロバアト・オウエン協会年報』38
鈴木頌(2013)「社会主義計算論争ノートその3」http://shousuzuki.blog.jp/archives/5010537.html
和田豊(2001)「労働価値概念の仮想性と現実性」『岡山大学経済学雑誌』33-1
山形浩生(2008)「研究資料の余白に:『はだかの王様の経済学』は戦慄すべき本である」http://cruel.org/other/matsuo/matsuo.html
吉原直毅(2006)「市場社会主義はアソシエーションにパレート優越する」http://www.ier.hit-u.ac.jp/~yoshihara/ronsou/ronsou12.htm
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study922:171217〕
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