社会学者の見たマルクス(連載第13回)
- 2018年 2月 17日
- スタディルーム
- ポスト資本主義研究会会員片桐幸雄
この連載で紹介するのは、フェルディナント・テンニース(Ferdinand Tönnies, 1855年7月26日 – 1936年4月9日)の、 Marx. Leben und Lehre (Lichtenstein, Jena, 1921)である。全文を翻訳した。
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ラッサールの死(1864年)は、だがマルクスとエンゲルスを驚かせた。ラッサールの死の原因はある人物との決闘だった。エンゲルスはこの人物を「ラッサールと女性を争って見捨てられた恋敵」、さらに「去勢された雄馬のようなペテン師」とまで呼んだが、マルクスは、この決闘をラッサールがその人生で犯した多くの無神経な活動の一つだとした。マルクスは言う。
ラッサールがスイスで軍事的冒険主義者や黄色い手袋をはめた革命家達のグループに入らなければ、こういう破局に陥ることはあり得なかったはずだ。だがラッサールは運命のように、くり返しくり返し、ヨーロッパ革命のコブレンツ[合流点]に引き込まれた。
いずれにしろマルクスは、さまざまな感情的衝動をこらえて、優れたアジテーターであったラッサールをその「記念すべき年」《Jubeljahr》には決して攻撃しなかった。これは、マルクスにとっては、実にいい結果になった。ラッサールは、自分のアジ演説についても自信満々に手紙に書いてきていた。マルクスは言う。「ラッサールは、われわれ(マルクスとエンゲルス)から借用したフレーズを勿体ぶってひけらかし、そしてまるで自分が将来の労働者の指導者であるかのように振る舞っている」。マルクスはとりわけ、ラッサールが絶えず大言壮語を吐き続けることが気に入らなかった。そして彼が死ぬことになる年の始めから、彼との手紙のやり取りをやめてしまった。マルクスはずっと後になってから、ドイツ労働運動を15年の長い眠りから再び目覚めさせたのはラッサールの不朽の功績であるとして、彼をたたえたことがある。しかしラッサールの生前は、マルクスとエンゲルスはラッサールの活動を不信の目でもって見ていた。
これに対して、1864年10月のラッサールの死後に起こった事件は、最初は目立たなかったが、マルクスとエンゲルスにとって、特にマルクスにとっては、深い意味を持っていた。「国際労働者協会」の設立がそれである。マルクスは、1864年11月4日付けで長い手紙を書いている。宛名を「フレデリック」とした手紙であったが、これには「知らせようと思うことを一つとして書き忘れることのないように」番号を打った文書が同封してあった。その手紙で、このことについて報告している。文書1では、「ラッサールとハッツフェルド伯爵夫人」のことが述べられている。このなかで、マルクスはリープクネヒトに対し、こう文句を言っている。「リープクネヒトは、僕はラッサールを見殺しにしたと言っている。まるで僕が、ラッサールに対して、黙って、彼のしたいようにさせておくよりも、もっとよくしてやれたかのようだ」。続いて文書2では「国際労働者協会」の設立のことが語られる。「しばらく前、ロンドンの労働者がパリの労働者に、ポーランド問題に関して挨拶を送った。ロンドンの労働者はこのなかで共通の問題を討議することを申し入れた。パリの方では、代表団を送ってきた。団長はトルバンという名の労働者だが、非常にいい男だ(彼の仲間達もみんな気持ちのいい青年達だ)」。
1864年9月28日にセント・マーチンホールで集会がもたれた。これはイギリスの労働組合とフリーメーソンのおかげである。若いフランス人がマルクスのところに使いに出された。ドイツ人労働者を「集会」へ派遣し、そこで演説させてもらえないか、そして何よりも、マルクスにドイツの労働者を代表して「集会」へ参加してもらえないか、こういう希望をマルクスに述べるためであった。
マルクスは、このような招待は拒否するのが自分のいつもの流儀であることを強調した。だが、この時は例外を作ることにした。なぜなら彼は、ロンドン側からもパリ側からも重要な「勢力」が参加することを知っていたからである(マルクスは自分でこの「勢力」という言葉に引用符を打って、同時に、労働者階級の復活が感じられると述べている)。こうしてマルクスは「息ができないほどに参加者であふれた」集会に参加した。彼は演説者として仕立工エカリウスを指名した。エカリウスはみごとに演説をやり遂げた。マルクス自身は、エカリウスを「演壇の上で黙って座っている人間として助けた」。二人とも臨時委員会の委員に選ばれた。マルクスはまた、要綱を策定することになっていた小委員会の委員にもなった。マルクスの重要性は、参加者にも、あるいはまた発起人達にもはっきりと知られていたのである。
マルクスは、最初の何回かの集会についてさらに詳細に語っている。集会のうちの一回はマルクスの自宅で開かれた。マルクスは、自分が同盟の精神的指導者であること、あるいはそうなるであろうということをすぐに自覚した。マルクスは同盟の創設宣言を起草した。これは、小委員会ではかなりの反対があったが、総会では全会一致でしかも熱狂的に受け入れられた。創設宣言は、ヨーロッパの労働者階級が抑圧されている状態を描いている。それが各国の富が伸びていく輝かしい時代と対比されている。さらに、商工業危機と呼ばれる社会的疫病が激しさと規模とを拡大しながら繰り返し襲来していることと、その致死的な影響を指摘し、1848年革命の失敗後のイギリスと大陸ヨーロッパの労働者階級の全般的な後退を嘆いている。宣言は次のように言う。
だが、この展開に明るい側面がなかったわけではない。この間に、二つの大きな事件が起きた。一つはイギリスにおける10時間労働法の実施である。10時間労働法は、肉体的にもモラルの点でもそして精神面でも、工場労働者に大きな利益をもたらした。このことは今やあらゆる立場の人々から認められている。10時間労働法は、需要と供給の法則が盲目的に支配するのを社会全体で把握し、注視することによって、生産を社会的にコントロールするという原則の勝利であった。中産階級の政治経済学は、労働者階級のそれの前に、白日の下ではじめて屈服した。
しかし、労働者階級にとってもっと重要な勝利が眼前に迫っている。これが二番目の大きな事件である。我々は、協同運動、すなわち協同工場のこと、大胆さに関してはむしろ控えめな労働者の仕事のことを言っている。この偉大な社会的実験の価値を評価しすぎるということはあり得ない。彼らは、議論に代えて行動でもって、次のことを証明した。すなわち生産は、労働者階級を利用する経営者階級の存在なしで、近代科学の進歩と歩調をあわせて、もっと高次の段階へ進むことが出来るということ。そし賃労働もまた、奴隷労働や隷農的労働と同様に、社会秩序の過渡的にして従属的な形態に過ぎず、手を自発的に動かし、精神を生き生きとさせ、心から楽しんで、その仕事を行う協同労働《assoziierte Arbeit》の前には消滅するべく定められているということを、である。
協同組合システムはロバート・オーエンがその種を蒔いたものだが、宣言は、オーエンのシステムの有効性には限界があるとする。労働大衆を解放するためには国家的規模でその道を切り拓くことが必要であり、国家的手段でもって解放を押し進めることが必要であることを考えれば、これは当然のことである。それ故、政治的権力を掴むことが今や労働者階級の大きな任務である、として、こう言う。「労働者階級はこのことを理解しているように見える。なぜなら、イギリス、フランス、ドイツ、そしてイタリアで同時に反乱が起こり、労働者の政党の再編成が時を同じくして生じているからだ」。創設宣言は次のような要求でもって締めくくられる。「労働者階級は、国際政治の秘密を突き止め、国家間の交流にあっても、私的な人間関係を律する道徳と権利の簡単な規定が最高の規定として適用されるように働きかけるべきである。このような外交政策に関する闘争は労働者階級の解放のための一般的な闘争に包括される」。
創設宣言の最後の言葉は『共産党宣言』の次のスローガンをくり返している。「万国の労働者、団結せよ」。マルクスにとって、新しい創設宣言が受け入れられたことは大きな成果を意味したのは事実である。しかしマルクスは、長い間ずっと実践活動から遠ざかってはいても、自分の考えをこの集団のなかで貫徹する困難さを見誤ることは、決してなかった。マルクスは、「穏やかに動く」よう心がけることが必要であること、再び目を覚ました運動がかつての大胆な言動を許容するまでには時間がかかること、こうしたことを誤解することはなかった。
ウィルヘルム・リープクネヒトが1896年にも語ったことだが、このことはもちろん、マルクスが第一インターナショナルに命を吹き込んだということでは決してない。マルクスはただ躊躇しながら、そしてほとんど自分の意に反しながら、そこに参加したに過ぎない。第一インターナショナルをまとめる中核となったのはイギリスの労働組合の活動家達であった。またそこにはコント主義に立つ小さな知識人グループと並んで、何人かの古いオーウェン主義者やチャーチストが含まれていたし、マルクスがその理論と空虚な決まり文句を軽蔑していたフランスのプルードン主義者も一緒だった。
マルクスの助力が求められたのは、労働組合の作戦を支え、その支柱に普遍的な理念と政治的精神を注入するためである。マルクスは、哲学に関してはコント主義者よりも自分の方がすぐれていると感じていたが、それでもコント主義者と歩調を合わせた。スペンサー-ベーズリーは、セントマーチンズホールでの設立大会の議長をつとめた歴史学の教授で、実証主義哲学者であったが、マルクスと彼との関係も、労働組合の指導者達の場合と同様に友好的なものになった。
しかしマイナスもあった。この組織のための仕事は、思想家、研究者としてのマルクスの時間をすっかり奪い去ってしまった。マルクスは、1863年には『資本論』第1巻の完成に向けてとりわけ熱心に取り組んだのだが、ただでさえ様々な身体的苦痛のために作業を絶えず中断しなければならなかった上に、こうしたことがあったために、その完成はさらに遅くなってしまった。国際労働者協会と「それに伴うあれやこれや」は、心配の種のように彼の負担となった(1865年12月26付けの手紙)。新たに参加した一般会員はマルクスに強い関心を持ちながら、マルクスの思想はほとんど知らず、ただマルクスを仰ぎ見ていただけであった。
だから、彼らに自分の仕事ぶりを垣間見せてやる機会を持つことは、少なくともマルクスには歓迎すべきことであったに違いない。そしてそれは、1865年6月、総評議会で行われた講演によって実現した。この講演は最近ドイツ語に翻訳されて、よく知られるようになった(『賃金、価格及び利潤』がそれである)。この講演の基(もと)になったのは、古いオーウェン主義者であるウェストンとの論争である。ウェストンは、『ビーハイブ』(週刊の新聞で国際労働者協会にとっては一時的に機関紙として機能した)で、賃金の一般的な上昇は労働者にとっては何の役にも立たず、それ故労働組合に害を及ぼす、と飽くことなく主張した。マルクスはこの見解を詳細に批判し、次のような結論に達した。
ウェストンのいう一般的な労賃の上昇は商品価格「全体に」影響を与えうるものではなく、利潤率の低下にのみ作用することになろう。一方、資本主義的生産様式の一般的傾向は平均的基準賃金を低下させることになる。労働組合はこのことに対する抵抗の中核として機能する。しかし労働組合は、概して現在のシステムの働きに対抗するのにゲリラ戦だけに限定してしまうことによって、この目的を見失ってしまいがちだ。労働組合は、このゲリラ戦を行うと同時に、変革を目指すべきであり、労働者階級の最終的な解放、すなわち賃金システムの最終的廃絶のための原動力としてその組織力を用いるべきなのだが、それをしていない。
1865年9月、インターナショナルの第一回会議《Konferrenz》がロンドンで開かれた。会議では、1866年9月3日から8日までジュネーブで開かれる設立大会での議事日程に、「民主的基盤に立った」ポーランドの独立の回復に関する議案と共に、宗教問題を社会的・政治的・精神的発展との関連において組み込むという動議が採択された。ヨハン・フィリップ=ベッカーの新聞『フォアボーテ』によれば、ジュネーブはこの組織の中心地となった。
マルクスはジュネーブでの大会の準備のために長い時間をかけたにもかかわらず、この大会には参加しなかった。彼は『資本論』第1巻の最終段階の作業をしていたのである。マルクスは、内々の手紙の中で、この作業を通じて労働者階級のためにできることに比べれば、なにかの会合のために自分が個人的にやれるどんなことも重要性は低い、と語っている。大会では、激しい論戦の下でマルクスの提唱した路線(イギリス代表の建白書はマルクスによって起草された)が有力なものとなった。この結果にマルクスは満足した。ただ、「フランスの無知なお喋りどもが自分(マルクス)を不愉快にさせた」。
国際労働者協会の第2回大会は、1867年9月2日から8日までローザンヌで開かれた。分かりきったことであったが、マルクスの提唱する路線がプルードン主義者のそれと共に主導的なものとなった。マルクスはこの大会にも参加しなかった。
彼の本がようやく世に出た。『資本論――経済学批判 第1巻:資本の生産過程』である。また分量的には第1巻よりずっと多くのものが、完成するかほとんど完成するかしていた。しかし整理がされていなかった。これらの手稿は編集者をひどく煩わせることになった。マルクス自身、1866年2月16日にエンゲルス宛に次のように書いている。「原稿は現在の形で一応完成はしているのだが、僕以外の誰にも、君でさえ、編集することは不可能だ」。マルクスはこの頃健康を損ねたが、夜遅くまでの過酷な作業がその原因であった。ドイツの戦争によって生じた政治的な騒ぎもまた出版を妨げた。第1巻の原稿は1866年11月にようやくハンブルクの出版業者オットー・マイスナーのところに送られた。
5ヶ月後、マルクスは私的な休暇を取ることにした。海の旅行は彼の健康を回復させた。マルクスは引き続いて、ハノーバーの女医クーゲルマン博士を訪問した。彼女はマルクスを尊敬していて、彼を強く誘ったのである。マルクスは、彼(とエンゲルス)が与えた影響は、労働者よりも高学歴の官僚層に対してのほうが大きいことをそこで知った。ベニグセン[ドイツの政治家]と会える見込みが出てきたが、この会見が成功したかどうかは不明である。
1867年5月、マルクスはロンドンに戻った。印刷はライプツィッヒで続けられた。8月、マルクスは最後の部分を校正した。マルクスはエンゲルスに次のように書き送った。「かくしてこの巻は完成した。君に祝福あれ」。「こういうことが出来たことを君に感謝する。僕に対する君の犠牲的献身がなかったら、この三巻本を作るという途方もない仕事は僕には不可能だった」。ハノーバーからもマルクスは同じ意味のことを書いている。「君(エンゲルス)がその素晴らしい才能をもっぱら僕のために商業活動の中で浪費し、錆びつかせてしまったこと」が、いつも悪夢のように僕(マルクス)の心にのしかかっていた、と。この頃の見込みでは、第1巻に続く二つの巻は翌年の春までには完成することになっていた。
(連載第13回 終わり)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study939:180217〕
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