「近代の超克」論者の運命 ― 西部邁を送る ―
- 2018年 2月 20日
- 評論・紹介・意見
- 半澤健市西部邁
2018年1月21日に評論家西部邁が自裁した。
気になる知識人の死に当たって一言書いておきたい。
《私にとっての西部邁》
私が最初に西部邁を意識したのは、NHKテレビで宮崎勇(1923~2016)に食い下がる姿を見たときである。80年代の一時期だと思う。リベラル派の官庁エコノミスト宮崎が高度成長を軸に肯定的な日本経済論を語るのに対して西部は、経済優先主義を批判して日本近代論の土俵に引きずり込もうと執拗に挑戦していた。会話は平行線を辿って進み結論は出なかった。これは40年ほど前の記憶であり主観的に整理され過ぎているかも知れない。
次に西部邁本人と出会ったのは、20人ほどの読書会においてである。
90年代後半だった。福沢諭吉を論じた近著を語ってもらい討論に入った。西部は、福沢を近代主義者とする論を一面的だと述べた。それに対し大手全国紙の記者が「戦後民主主義」を自明の前提として西部に反論した。西部は語気を荒らげて証拠を示せと相手に迫った。その言語と迫力は、私が体験したビジネスの現場でも、稀にしか感じない強いものだった。しばらく沈黙が続いた。私は進行役であるのにパニクった。幸い、一緒にいた西部担当の雑誌編集者が取りなしてくれた。
《ニヒリズムの近代を論ずる『虚無の構造』》
西部の死後、私は彼の著作を一つ読んだ。
『虚無の構造』(中公文庫・2013年、親本は飛鳥新社・99年)である。
その書物を半澤流に強引に要約して次に掲げる。
近代はニヒリズムの時代である。これが西部テーゼである。
「神は死んだ」に象徴される絶対価値の喪失=全ての価値の相対化。世界の全体像の消滅。大衆(大量)社会化による他者追随。自己証明(アイデンティティー)の喪失。これらをキーワードとして西部の近代批判が展開される。次のくだりがある。(■から■)
■かつてはニヒリズムとの死活をかけた思想の闘いがあった。その戦はおおよそニヒリズムの勝利に終わったとはいえ、その戦に投入された精神の真摯さが、その時代を魅力的なものにみえさせてさえいた。卑近な例でいえば、日本の文学史は、北村透谷、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫といったふうに、ニヒリズムとの闘いの敗北を刻んでいる。
二十世紀末から二十一世紀へかけて、我々は最も消極的なニヒリズムを生きている。つまり自分がニヒリストであることを自覚せぬまま、ニヒリズムの諸断片を状況の推移に応じて次々とだらしなく垂れ流している。しかもそのことに現代人はおのれの「個性」を見出しているのだ。精神の表玄関で「ヒューマニズム」の表札をつけることによってニヒリズムを追い払いつつ、裏玄関からそれを迎え入れるという詐術を近代人は続けてきた。その結果、我々は、「実在」について想うことを忘れ、「当為」について考えることを禁句とし、さらに「虚無」について語ることをやめたのである。■
《ニヒリズムの克服はできるのか》
ニヒリズムが近代の本質的な病であるから、近代そのものを克服しなければ、病は治らないというのが西部の主張である。「近代の超克」論である。
近代のキーワードである資本主義、市場原理、国民国家、基本的人権、民主主義、平等主義までが、批判と消去の対象となる。ラジカルである。戦後民主主義者は相当な衝撃を受ける筈である。
西部は、西洋思想のパノラマ様の解説によって―私見ではその根っこはエドマンド・バークとホセ・オルテガである―近代主義の単純性と虚妄を切りまくる。
バークが歴史、習俗、経験に依ったように、オルテガが「マス」(専門的知識人を含む大衆)を排して思想的知識人に依ったように、西部は歴史に多くを求める漸進主義と良識あるエリート支配を理想としたようである。彼の社会認識は、原理主義的であった。比べて政策認識は具体性に乏しく、いつも原理論に還っていった。そのギャップを本人も自覚しており知的な饒舌でそれを埋めようとした。その話術と叙述はある種の滑稽さを醸しだした。
《『東京物語』に共感する保守とリベラル》
西部は資本論を読まずに安保闘争を闘った。そして「エリート知識人の卵」だと思っていた全学連闘士が「マス」であることを知った。一方、奉ずべき「伝統」は、戦前の富国強兵と戦後の高度成長がによって、ほぼ消滅していた。西部邁の味方はどこにも居ない。聡明な彼は早い時期にそれを悟ったと思う。近代の毒に汚染された我々には、彼の「近代批判」はおおむね滑稽である。だから彼はトリックスター(道化)となった。しかしシェークスピアの戯曲ではトリックスターが真実を述べることがある。
私の手許にTVを録画した一本のDVDがある。西部が佐高信と対談した日本映画「東京物語」論である。当時のCS局「朝日ニュースター」は保守対リベラル対決と銘打って、二年間にわたり、書物と映画について二人に語らせた。本にもなっている。この「東京物語」論議は対立どころではない。そこには日本の醇風美俗が近代化によって崩壊してゆく映像への愛惜がある。
私は西部邁の良い読者ではなかったが、気になる知識人ではあった。西部言説は難解でしばしばペダンティックであった。しかし右翼や保守と呼ばれる一群の論者にない、深い知見と強い心情に、私は打たれるところがある。西部の問題提起は、戦後民主主義への強力な批判であった。それは我々の胸底に地雷として埋め込まれたと私は思っている。(2018/02/13)
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