焼麺麭とフェイスブック
- 2018年 3月 10日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
昔といっても戦後ちょっと経ったころまでの昔でしかないのに、不勉強のせいで、ずいぶん昔のものになってしまう本がある。そんな「歴史的な本」を読んでいると、言い回しに、あれっと思うことがある。でもそこまでは、いってみれば方言についていくのと似たようなもので、どうにかなる。ところがちょっと面倒な(歴史的ではない)本ででもお目にかかることのない漢字に出くわすと、はたと困る。
やおら漢和辞典を持ち出して、「へん」や「つくり」から個々の漢字の読みを調べて、複数の漢字が続いたときの読みを想像して調べるのだが、あれこれやっても見つからないことも多い。読むリズムを乱してまで調べてはみたものの分からずじまいで、あきらめて読み進めることになる。
英語なら、人称や時制変化したものを原形に戻しさえすれば、あとはスペル通りに辞書を引いてゆくだけになのに、日本語では読めないと辞書を引けない。なんとも不親切な、勉強しにくい言語だと呆れながら、辞書と取っ組み合いをしてきたような気がする。
長年そんなことをしてきた数年前のある日、MS-Wordに付帯した機能の「IMEパッドー手書き」の使いように気がついた。「IMEパッドー手書き」でマウスを使って手書きで入力すれば漢字をサーチできる。サーチしてでてきた漢字をコピーして、Googleに貼り付ければ、インターネットでその漢字だけでなく、その漢字を含んだ熟語さえもでてくる。
本を読むのにPCでGoogleを立ち上げておいて、なんとも変な感じがしないではないが、漢字だけでなく、何か分からないこと、それが英語であろうが、その他の外国語であろうが、調べながら読み進めるのが習慣になってしまった。意味を適当に想像して読みすすめるしかないときもあるが、PCなりタブレットで調べられるのなら、多少の手間をかけてでも調べながら読んだほうがいい。
印刷された本では、でてきた漢字をキーでローマ字入力するか、マウスを使って「IMEパッドー手書き」で入力しなければならない。これが電子ブックや電子データなら、漢字であろうがなんであろうが、コピーしてGoogleに貼り付ければいいだけだから、入力作業もいらない。つくづく便利になったものだと感心する。
永井荷風の『つゆのあとさき』に「鶴子は毎朝一人で牛乳に焼麺麭を朝飯に代え……」というくだりがある。
「焼麺麭」を見て、「やき めん ほう」と読んだものか、もし違うにしても、なんと読むのか想像もつかない。よしんば、こう読むと言われて、読みは分かったにしても、それがまさか「トースト」だと分かる人とがどれほどいるのだろう。
『大辞林 第三版』には、「麺麭・麵麭・麪包」「小麦粉を主な原料とし、水でこね、イーストを加えて発酵させてから焼きあげた食品」という記述があるが、紙の辞書や資料を調べて、そこまでたどり着くのは容易なことではない。やっとたどり着いても、それがトーストだと気がつくのにもう一手間、二手間かかる。
それにしても昔の人たちは外来語をなんとか日本文化のなかに取り込もうとして、漢文の素養をもとに悪戦苦闘したのだろう。今は見ることもなくなった漢字表記に遭遇すると、当時の人たちが外国語を日本語に苦労して翻訳した姿が目に浮かぶ。
それにひきかえ、と他人事のようにいうのをためらうが、今は外来語の音をカタカナで表記して日本語にして終わりにしている。漢字を駆使したあげくに、なんと読んだものかと考えこむようなのも困りものだが、音をカタカナにすれば事足りるというのも、あまりに安易で不安になる。
それでも、これはどうしたものかと思うのに出くわすと、どっちもどっちだし、カタカナで押し通してしまった方が手っ取り早いし、もう安易に流れるしかない、諦めるしかないと思いだす。ただ諦めるというのも癪にさわるしで、腹をくくるしかないと言いなおそうとする。
いい例が、Facebookで、これを字面で「顔本」と漢字に意訳したら、あるいは「自己紹介」などとでも訳そうなものなら、それこそ何をいっているのかわからない。せっかく使い勝手のいい、よすぎて注意しなければと思いはするが、カタカナでフェイスブックでいいじゃないかって。
思想も文化も社会もあらゆることが言葉との関係で成り立っている。その言葉が、人々の日常生活の変化につれてどんどん変わる。日本が、日本語がそして日本人が変わる。その変わっていっているのをカタカナが実感させてくれる。つくづく便利な文字を発明したものだと先人の知恵に感謝するのだが、戦時中まではカタカナの使い方に躊躇があったのかもしれない。あるいは躊躇している余裕があったのが、戦後は躊躇する余裕すらなくなって、カタカナ表記の翻訳で間に合わせざるを得なくなったということかもしれない。
カタカナ表記の外来語がない日本語はもうないし、それ抜きの生活もなければ、それなしで物事を考える日本人もいない。カタカナ表記の外来語がなければ、意思が通じないし会話もなりたたない。それは、まるで外来語のカタカナという虫に食われ続けて、元の形がわからなくなってしまいそうな日本語という葉っぱを見ているような気さえしてくる。
余計なお節介だとしかられそうだが、日本の日本のと言っている(右翼の?)人たち、このあたりのこと、いったいどう思っているのか訊いてみたい気がする。訊いたところで、流石にと納得するような話が出てくるとも思えないが、それでも戦車ともタンクとも呼ばずに特車と呼んでいる集団がいるという話だから、目からうろこもあるかもしれない。
まあ、巷の一私人、国語の先生でもあるまいし、あるがままにまかせて変わっていく日本語に置いてけぼりを食わないようにしなきゃと、多少の緊張感と期待が入り混じった気持ちで、古い日本語に四苦八苦しながら、新しい日本語に遭遇するのを楽しみにしている。
p.s.
<アウフヘーベン(Aufheben): 止揚、揚棄>
外国語の意味を訳すのに万能に近い漢字と、音を表記するのにこれ以上はないというカタカナをもってしても、これはどうしたものかというのがある。久しく忘れていたアウフヘーベンをニュースで聞いて、唐突に何をいいだしたのかといぶかしく思った。あまりに唐突で、いぶかしく思うなといわれても難しい。
前後の脈絡なしで、「しよう(止揚)」や「ようき(揚棄)」と音で聞いても、「止揚」や「揚棄」は思い浮かばないし、「アウフヘーベン」と聞いたら、一風変わったバームクーヘン?かと思ってもおかしくない。漢字でもカタカナでも、何のことやら分かる人にしか分からない。自分の無教養を棚に上げてのことで恥ずかしいが、分かっている人たち、本当に?という気持ちがなくならならい。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion7466:180310〕
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