周回遅れの読書報告(その53) 本を持たない生き方
- 2018年 3月 18日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
「人生の店じまい」という言葉を最近聞いた。閉店ならば、たいていは「閉店セール」という割引販売がある。人生のそんなものがあるか、と考えてみた。多くの場合は「なにもない」。それでどうやって「店じまい」をしようというのであろうか。人生の場合は「捨てる」かカネを払って「引き取ってもらう」ものしかないのが普通だ。「そんなものは、後に残る子供たちに任せればいい」と言う先輩もいるが、できれば何も残さずに、あるいは極力少なくして人生の「店じまい」をしたいものだと思っている。
そうなると、厄介なのは書籍である。特別な読書人ではなく、蔵書がやたらと多いというわけでは決してないが、長い間には相当な冊数の本がたまってしまう。どう逆立ちしても、あと何冊も読めないから、このままでは未読のままに残ってしまう本がかなり出てくる。さりとて、それ何に苦労して入手した本であるから、簡単に捨てるわけにもいかない。
どうしたものかと思いあぐねていたら、本を持たない生き方というものを知った。その生き方を鹿島茂が『成功する読書日記』で紹介している。もちろん、蔵書家の鹿島本人の方法(生き方)ではない。鹿島が知っているフランス人の学生の方法である。しかも、実に単純で、昔から知られていた方法でもある。この学生は、「家が貧しい」という理由で、本はすべて図書館から借りて読み、「読書ノート」にその抜粋を書いていたという。その結果、「僕の蔵書はリセの図書館や国立図書館で写したノート数十冊分の引用、これだけ」ということになった。つまり、この学生は部屋に一冊の蔵書を持つことなく、抜粋のための「読書ノート」だけで暮らしていたのである。
しかしこうして作った「読書ノート」は散逸しないものかという疑問がある。自分自身が、若い頃から何度となく「抜粋ノート」を作ってはそれを散逸させてきたからである。しかし、鹿島の本を読んでいると、どうも書籍を並べておく「書庫」があるから「読書ノート」が散逸するのではないか、と思えて来た。書庫がなく、部屋には「読書ノート」しかないという状況であれば、散逸のしようがないのである。
そうか、そうすればいいのか。そう思った。本を持たずに、すべて借りてくるということになれば、今読んでいる本はそう簡単には読み直すことができない。そういう緊張感を持って読むことにもなる。印象に残った部分は全部書き抜けば、それだけ印象も正確になり、深くなる。手書きで抜粋を作るのは大変な作業だが、逆にその対象を絞る動機にもなる。いいこと尽くめである。欠点は、抜粋を作らなければならないことから、読む冊数がひどく限られてしまうことと、抜粋に書き損じ、書き誤りが生じ、それを引用として使うことに問題が生じることである。しかし、あと何年も生きられないという時期になって、「読む冊数」を気にする理由はないし、引用として使うことを留意しなければならない根拠も希薄である。それよりも、本を持たないほうが遥かに意味がある。
これを読んで、書棚に乱雑に積み上げられている様々な書籍を処分する勇気がようやく湧いてきた。「読書ノート」だけを《蔵書》にして、図書館で読めるものは(演習用の本や図版を主な内容とするものを覗いて)基本的に全部処分すればいい。鹿島のこの本をなんでもっと早く読んでおかなかったんだろうという後悔は残ったが、書籍というモノでなく、その中に入っている情報だけが欲しいという向きにはこの方法は、「優れた方法」であると言える。
そう思って部屋を整理していたら、古い「読書ノート」がずいぶんと出て来た。だがもう、その読書ノートさえ、多くは無用のものになっている。そうなると、最近5年くらいの分を除いて、あとは「読書ノート」さえ捨ててもいいということになる。鹿島は、そのことにも触れておくべきではなかったか。
鹿島茂『成功する読書日記』文藝春秋、2002年
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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