書評「思想としての大塚史学」
- 2018年 3月 29日
- 評論・紹介・意見
- 中野@貴州
書評 恒木健太郎『「思想」としての大塚史学』(新泉社 2013年)
本書の構成は次のとおりである。
序章「大塚史学と現代」、第Ⅰ章「投機批判における連続と変化」、第Ⅱ章「『前期的資本』から『中産的生産者層』へ」、第Ⅲ章「『大塚史学批判』から『局地的市場圏』へ」、第Ⅳ章「『等価交換の倫理』から『社会主義化』へ(一)」、第Ⅴ章「『等価交換の倫理』から『社会主義化』へ(二)」、第Ⅵ章「『ユダヤ人』観とナチズム評価」、終章「大塚史学の残した課題」である。
このうち、第Ⅰ章は、「戦時中の統制経済が『倫理なき資本主義』を乗り越える意義を持っていたと、大塚は見ていたか否か」という派生的問題、第Ⅱ章~第Ⅴ章は大塚史学の基本理論の整理、第Ⅴ章は、「大塚の『倫理なき資本主義』批判は反ユダヤ主義につながる可能性があるのか」という問題と「『倫理なき資本主義』の対極にあるとされる『カルヴァンの神聖政権』が、実は、スターリンの行為も児戯に見える徹底した独裁政権であったことを大塚はどう見ていたのか」という二つの派生的問題である。したがって、著者の基本的見解は「序章」と「終章」に反映されていると言ってよい。
さて、この本を手にしてすぐに目に付くのは「『思想』としての大塚史学」という書名である。このネーミングは実に大塚史学の現状とマッチしていると思う。大塚史学に現在なお存在意義があるとすれば、それは、社会科学としての歴史学としてではなく、思想としての意義でしかないということであろう。
資本主義成立の重要なファクターである、商人資本による海外貿易を無視した「中産的生産者層」論、現在の学問レベルから見れば幼稚極まりない、労働価値説に基づく「等価交換の局地的市場圏」論などは、今や学問上の化石にすぎなくなってしまったと断言できるだろう。したがって、大塚史学の存在意義は「思想」しかないというわけである。
では、その「思想」とはいかなるものなのだろうか。著者は、序章の「大塚史学と現代」で、バブル末期(1996年)に執筆された大塚自身のエッセーをこう引用している。
『近代欧州経済史序説』を執筆していた時、少年のころに読んだ「ロビンソン・クルーソー」を読み返しました。そして、この生活様式の中に近代の合理的経営の原型があるのを知って意を強くしました。それは、バブルを追い求めることを拒んだ近代的経営者の魂だったのです(15頁)
著者がこの引用を行った意味は明らかだろう。つまり、もし大塚史学の「思想」が現在でも意義を持つとしたら、それは「倫理なき資本主義への批判」という観点だということである。そして、これこそが本書のライトモチーフなのである。
では、「倫理なき資本主義への批判」は現代においてどのような意味を持つのだろうか。著者は、それを知る手掛かりとして、まず、大塚とウェーバーの「近代」についての認識の差を指摘した、中野敏男氏の『大塚久雄と丸山眞男』(青土社 2001年)を肯定的に引用している。中野氏は両者の差についてこう述べている。
ヴェーバーの近代批判が、社会秩序の物象化とその起点となった「職業人」理想そのものに向かっているのに対して、大塚の近代批判は、貪欲の蝕みによって堕落したとされる近代人を批判して、むしろプロテスタンティズムの「職業人」」理想に立ち帰らせようとするものなのである(中野敏男『大塚久雄と丸山眞男』29~32頁。恒木引用355頁)
つまり、ウェーバーは、「倫理なき資本主義」に対抗しながらも、その意図に反して再び「倫理なき資本主義」を生み出してしまった、プロテスタンティズムの言わば「原罪」を含めての近代総体を批判しているのに対し、大塚は、むしろそのプロテスタンティズムの精神の復活を求めているというのだ。著者自身もこのことを以下のように表現している。
それは、かつての「資本主義の精神」を、「経済的利害情況の巨大な変化」を考慮にいれながら「復活」させる可能性である。ここで「復活」させるのは「資本主義の精神」そのものではない。そう理解すれば、さきの「生産倫理」の「復活」という意味も理解できよう。つまり現代において「資本主義の精神」のうちにふくまれた「生産倫理」を、「資本主義の精神」とはべつのかたちで「復活」させること、これこそが大塚の考えた「健全な」社会建設の方途であった(354頁)
ここに至れば著者の結論も予想できるだろう。すなわち―現代において大塚史学が意味を持つのは、「倫理なき資本主義」を厳しく排斥し、あの職業人の理想=生産倫理の復活させるというこの「思想」においてのみなのだ―この見解である。著者は結語としてこう述べている。
人が使い捨てられることを是とするような収奪社会がつづくかぎり、「思想」としての大塚史学は、貧困にあえぐ「生産者」や「勤労民衆」のための思想として、原理主義的なかたちで亡霊のように生きつづけるだろう(374頁)
評者も、こうした「批判的思想」の存在意義については言うまでもなく同意する。
しかし、その「勤労民衆」が物象化された意識や排外主義の中に閉じ込められている現代において、それが有効なものか否かについては悲観的にならざるを得ない。
また、この「生産倫理」という思想は、ブルジョアイデオロギーの中に取り込まれる恐れもあるだろう。
『プレジデント』などの雑誌の経営者インタヴュー記事の中では、「利益は社会奉仕の結果である」という発言が経営者の口から臆面もなく語られる。彼の実際の行動は「倫理なき資本主義」の行動であるにもかかわらず。
そうなると、「思想」はたんなる「道徳的お説教」に変わってしまうだろう。「『お説教』としての大塚史学」―あまりに悲観的な見解だが、それも現実の一面ではないだろうか。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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