こんどは悲劇のヒロイン!?―アウンサンスーチーの裏返しの美化を斥ける―
- 2018年 3月 30日
- 評論・紹介・意見
- 野上俊明
スーチー大統領顧問はロヒンギャ危機になかなか有効に対処できず、国際社会から非難の十字砲火を浴び続けています。氏が3月17,18日のオーストラリア・シドニーでのアセアン首脳特別会議に出席のさなかに、母国ではテインチョウ大統領が突然辞職を発表、後任として側近の一人で下院議長であるウィンミン氏が就任予定という慌ただしさでした。ロヒンギャ問題が主要議題のひとつであったにもかかわらず、スーチー氏は体調をこわし(?)会議期間中かなりの時間をホテルでの休養にあてた由。こうしたNLDを取り巻くドタバタが不安心理を掻き立てたのでしょう、一時スーチー氏も辞職するという情報が流れ、あわてて顧問府が打ち消すという騒ぎになりました。しかしスーチー氏が職を辞したがっているという観測は、まんざら根拠がないことではないように思われます。というのもロヒンギャ問題での手詰まり感のみならず、NLDの選挙公約トップの内戦終結に向けた和平交渉も暗礁に乗り上げた感があり、和平会議の再開の見通しも立たないのが現状だからです。自分ひとりに権限を集中させてはみたものの、どれ一つとってもうまく裁けない現状では、早晩新しい大統領に最低でも権限の一部譲渡を図って難局を乗り切るしかありません。
国際社会の批判止まず、どこかうつろで疲れた表情(2018.3月 アセアン首脳会議にて)
こうした時局柄でしょう、ドイツ公共放送「ドイッチェ・ヴェレ」(3/8 電子版)に「アウンサンスーチーの悲劇」なる論評(アジア編集長ロディオン・エビゴーゼン)が掲載されました。その論旨は、スーチー氏は宿命的な三つのしがらみにまといつかれて、解決への出口がみえない状態に陥っているとするものです。この論評を手がかりに、ミャンマーの政治状況の若干の解析を試みてみましょう。
いうところの三つのしがらみとは、ひとつには2008年憲法による各種制約です。国防、少数民族地域の治安、警察・内務官僚機構といった実力的権力の中枢を国軍が握り、シビリアン・コントロールから自由であること。また国会・地方議会のすべてにおいて国軍任命の議員が1/4議席を占めること、国家の非常事態においては国軍最高司令官が全権を掌握することができること。しかも最近はNLD政府と国軍との力関係は拮抗しているというより国軍の支配力が増しており、少数民族地域での戦闘激化やロヒンギャ迫害については、政府の無力さが浮き彫りになっています。
ふたつ目のしがらみとは、ビルマ族仏教徒有権者の圧倒的な優位と仏教排外主義的世論の抬頭です。ムスリムもふくめ少数派は差別や迫害をうけ、もしスーチー氏が少数派を擁護すれば、たちどころに国民多数の支持失うだろうとされる事態です。
三つ目は、西側国際社会のスーチー氏に対する賞賛から呪詛へ大転換です。かつて後ろ盾としていた国際社会は、スーチー氏に与えた数々の人権と民主主義擁護の栄誉賞を剥奪し、その名声が地に墜ちるに任せています。その結果、スーチー氏は国内世論と西側国際社会の非難との板挟みで身動きが取れなくなっているわけです。
しかし国際社会自身もロヒンギャ危機への緊急支援ではいくらか実績をあげているものの、アナン勧告に盛られた政策提言を政府や国軍に実行させるだけの力はもちません。このまままもなくやってくるモンスーン(雨季)とサイクロンの襲来を前にして有効な対策が講じられなければ、キャンプで大勢の犠牲者が出るのは避けがたいでしょう。
論評がこれら三つのしがらみを「宿命的」(schicksalhaft)としているのは、いかなる人知をもってしても避けがたく、甘受するしかないという意味でしょう。しかしほんとうにそうなのでしょうか、これら三つのハンディキャップは宿命的で動かしがたいものなのでしょうか。かつての人権のヒロインであるアウンサンスーチー氏は、悲劇のヒロインを演じるしか他に道はないのでしょうか。これには西側大手メディアの記者にして、ミャンマー社会の表層しか見ていないのではないかという疑問が湧いてきます。
一国の政治状況を分析するとき、現時点の断面だけみて諸要素の相互関係を分析するだけでは――もっとも世論調査や各種社会・経済統計が十分整備されていない現状では、その作業自体簡単ではありませんが――不十分であり、それに加えて政治を過去から現在へ至る過程として、主要な要素の因果関係を捉える視点が必要でしょう。哲学者ヘーゲルのことばを借りれば、政治状況というものは、単なる所与ではなく「運動や生成過程としても存在する」(「精神現象学」序論)という二重視点で捉えなければならないものですから。あるいは言語学の概念を借りて、通時的diachronicと共時的synchronicの両面でみる必要があるといってもいいでしょう。換言すれば、政治的現実というものは、過去における不作為をも含む政治選択の結果として出来上がっているのであり、現状の勢力配置を固定化して捉えると、将来展望が描けなくなります。現状を構成する要素があまりに小さく無力であれば別ですが、NLDを中心とする民主化勢力は2015年11月の総選挙での地滑り的勝利が示したように、けっしてそういうものではありませんでした。スーチー氏とNLDというアクターは適切な政治的政策的選択をしていれば、選挙圧勝の余勢を駆ってもっと情勢を有利に変ええたはずであり、三つのしがらみの制約からもっと自由でいられたはずなのです。
私は、ミャンマーの政治的現状全体に影響を及ぼした因果関係の連鎖の開始点を、2011年のNLDの合法化の時点におきたいと思います。その時期、NLDの合法化とバーターで国軍との融和路線を、「国民的和解」というビジョンに基づいてスーチー氏は政治的に決断したのです。20年にわたって民主化勢力は壊滅状態にあり、組織的な抵抗の可能性がほぼゼロに等しいとき、とりあえずはNLDの合法化と引き換えに国軍側に譲歩することは已む得ないことでした。しかし問題は、和解路線それ自体は誤ってはいなかったにせよ、国軍との距離の保ち方という重大な戦略問題について民主化勢力内で十分な議論をせずに、スーチー氏は原則なき融和路線にのめり込んでいったことでした。戦略構想にかかわることがらを独断専行で決することの危険性に、政治経験の浅い―15年間は自宅軟禁でした―スーチー氏は気付いていませんでした。表面的な強いリーダーシップは、民衆勢力の弱さの裏返しであることの自覚が十分でなかったのです。圧倒的支持といっても、しょせん浮動票的なものでしかないこと、このことに国軍側は早晩気付くはずでした。
かくして一方で2008年憲法の改正なしには民主化は完遂できないという原則に立ちながら、実際は近代化・民主化の条件である国内の平和と安定は、国軍の協力がなければ不可能と称して、国軍の有する権益を容認し、さらに少数民族武装組織やロヒンギャに対する軍事作戦にはいっさい容喙しませんでした。さらには2012年以降激化した反ロヒンギャ・反ムスリム・キャンペーンと、その中心人物である過激仏教僧侶ウラトゥのヘイトスピーチに対しても、何ら有効な手を打たないままで放置しました。スーチー氏の沈黙と不作為によって、政治状況の主導権がNLDの側からウルトラ・ナショナリズムの側へ移って行きました。こうして我々は国軍支持のデモ隊列が、ヤンゴンの目抜き通りを埋めるという信じがたい光景を目にすることになります(10年前のサフラン革命では、反軍・反独裁の僧侶デモと群集が同じ通りを埋め尽くしたのです)。
ミャンマーのような伝統的に極端に権威主義的な精神風土においては、最初の鶴の一声をスーチー氏がどう発するのか、世論の流れはそれによって大きく規定されたのです。
――想い出してください、NLD勝利後の、スーチー氏の国民への最初の呼びかけは、「街をきれいにしよう!」でした。この呼びかけに応えて、有名俳優や一流の歌手、政府要人から市井の無名の人にいたるまですべての人々が、ゴミ拾いに熱中しました。私はずっと以前ヤンゴンで暮らしていたとき、周りの若者たちに「街をきれいにしよう」と呼びかけましたが、みな「そんなことはYCDC(市役所)の仕事だ、やる必要はない」と冷たく言い放たれ、無視されました。私は市民の自発性内発性に基づかない迎合的行動は、おそらくすぐに熱が冷めるだろうとみましたが、案の定、スーチー氏は二度と呼びかけることはなく、民衆も一度きりのゴミ拾いで終わり、街は再びゴミが散乱するようになりました。あのキャンペーンはいったい何だったのかと、問いかける人すらいないのがミャンマーの民情だったのです。
ゴミ拾いの件は余興にしても、最初の時点でスーチー氏は民主主義の実現のために、国民一人一人が何をなすべきかを訴えるべきでした。日常の市民生活の中で、どんな小さな不正や理不尽さでも見て見ぬふりをせずに闘う勇気を持つこと、権威にむやみに頼らず自分の頭で考え、みなで議論し知恵を出し合い解決を図ること等々、民主主義の土壌を肥やし一粒の麦を播くべきでした。しかしスーチー氏はそうしないで、民衆の圧倒的支持を自分への全権委任と読み換えて、ある種の全能感に満たされたのでしょう、あらゆる権限を自己に集中させたのです。こうして民主主義の嫌いな民主主義のヒロインができあがったのでしょう。「裸の王様」にならなければいいが、というのが当時の私の印象でした。
くどいようですが、分析をもう少し続けましょう。父親のアウンサン将軍とちがって、下からの大衆活動の経験をもたないスーチー氏には民主化運動の運動論・組織論的な発想が欠けています。そのために政党をつくっても現場力のない足腰の弱い議員政党になってしまい、政治手法も密室的権謀術数的なものに陥る傾向を免れないでしょう。ましてやスーチー氏を囲むNLD中央の主要幹部の多くは、軍の高級将校上がりです。軍人文化は上意下達方式であり、民主主義的発想やスタイルの行動は苦手であり、中央独裁的な党ガバナンスに傾斜するのは避けがたいのです。市民社会に深く根差した政党組織をつくり上げるというのは、先進国における政党政治の劣化を克服する基本条件ともなるので、その意味では先進国、発展途上国はともに世界同時的に共通課題を背負っていることになります。
また大衆政党や民主化勢力を強化するのに不可欠なヘゲモニー※という戦略的な権力概念が欠けていました。そのため国軍勢力と力の拮抗するなかで自派勢力を拡大していく政治プランを描くことができません。いうなれば、民主化勢力の成長戦略をもち得ないでいるのです。軍・警察・文民官僚機構といった戦略的要衝を国軍はしっかり押さえており、これに対して少なくとも文民官僚機構における国軍のヘゲモニーを奪い返していく方策が重要です――1988年の国民的決起の後半には、公務員組織が運動の主要な担い手に浮上しました。近代産業が未発達な国情では、労働者階級とその組織は未熟で弱体であり中産階級の層も薄いがゆえに、公務員組織の果たす役割は大きかったのです。
※ヘゲモニーという政治概念は、A・グラムシが獄中で彫琢した重要な分析用具でした。私はこれを政治的・知的・道徳的主導権と理解しています。たんなる覇権ではなく、国民の政治的・知的・道徳的な納得と同意を勝ち取る力能とも言い換えられます。
ヘゲモニー概念には、国軍の国家主権至上主義(反国民主権)や仏教排外主義などに対抗して、国民を民主主義や人権にかんして教化して自己の側に引き寄せるためのイデオロギー闘争が含まれますが、そういう観点もNLDにはありません。例外的事例ですが、バゴー地区の学校でスーチー氏らは人権教育の試みを行なって一定の成果をあげましたが、それを政策的に一般化することはなかったようです。農村や都市の一定の地域を選んで民主主義のためのモデル教育を行ない、成功経験を一般化して政策化し普及する仕事は大切です。市民社会のこの領域では国軍支配は手薄であり、教師や父母を味方につけて民主化勢力の陣地を固めることはそれほど困難ではありません。また農村部では僧侶の持つ精神的影響力との連携が戦略的な意義を帯びています。
さらに民族自治・自決権という政治的民主主義にかんして少数民族と共同歩調を取ることが重要であるにもかかわらず、むしろ国軍との関係を重視して少数民族組織からは不信の念を抱かれている状態です。憲法改正という戦略目標で本来一致できるはずの少数民族組織と民主化勢力ですが、小異を捨てて大同に付くという統一戦線というコンセプトが欠けているため、民主的多数派を形成して国軍勢力を包囲することに思い至りません。アウンサン将軍の政治的遺産が、娘にはきちんと継承されていないのです。
スーチー氏の政治家というか、政略家としての限界により、期待された民主化運動の発展は若芽のうちに中断してしまいました。スーチー政権恐れるに足りず――国軍こうした安心感と思い上がりがロヒンギャに対する民族浄化作戦に踏み切らせたのです。主流派仏教徒世論のムスリムフォビア(反ムスリム感情)を利用して仏教優越主義を扇動すれば、世論に押されてNLDは身動きが取れず、スーチー政府が軍事作戦にブレーキをかけることはないと踏んで、2017年8月25日以降の大掃討作戦を開始したのでしょう。いったんロヒンギャを追い出して居住区を破壊してしまえば、帰還は困難です。スーチー氏自身にたとえ帰還作業に本気で取り組む意思があっても、実務を担う政府や官僚機構には国軍派が要所に配置されているので※、サボタージュによって帰還は進まず、国際社会でスーチー氏だけが人望を失い、ますます無力化するのです。そうなれば、2020年の総選挙において再び国軍および政商を代表するUSDPが勢力を盛り返し、憲法改正の国民的悲願を葬り去ることができるのです。
※政府、議会、官僚機構には、士官学校出の退役軍人が要所を占めています。スーチー氏の融和優先政策のため、各国大使の大部分は退役軍人がそのまま居座っています。ちなみに先日、在日ミャンマー大使館は、有本香ら札付きの右翼ジャーナリストを大使館に招き、ベンガリは不法な越境者であって、いわゆるロヒンギャ問題なるものは存在しないと説明したそうですが、駐日ミャンマー大使トゥレインタンズィンは退役軍人であり、典型的な旧守派です。
以上、縷々ミャンマーの政治的困難について述べましたが、それらを宿命的で解決不能とみるのは間違っています。まだ散発的ではありますが、新しい民主主義の萌芽が様々な領域でみられます。そのいくつかを紹介して、本論の締めくくりとしましょう。
まず、イラワジ紙、ミジマ紙、ミャンマータイムズ紙などの主要新聞メディアは、ここ1年ほどミャンマー全土を席巻した仏教排外主義の嵐になんとか耐え同調しませんでした。仏教排外主義運動の拡散と拡大が主にSNSを通じて行われた一方、伝統的メディアは88年の民主化闘争の遺産をどうにか守り抜いてきました。半世紀に及んだ軍部独裁によって、大学や研究教育機関の知的営みは窒息させられ、言論活動は亡命メディアであった新聞界においてわずかに自由な活動空間を見出してきました。したがって西側社会の本格的な科学研究の成果をまだ吸収しておらず、総じて概念的な思考方法が身についていない恨みがありますが、精神的抵抗の伝統は必ずや豊かな言論となって花開くでしょう。
孤高の思想家と違い、民間メディアは相当な数の読者層に支持されなければ、経営的に成り立ちません。その意味でミャンマーの主要メディアが排外主義に同調しなかったことには、世論の支持の裏付けがそれなりにあってのことと判断していいでしょう。この点でも排外主義を宿命として受け入れる必要はまったくないことは明らかです。
88世代の抵抗ジャーナリズムは、権威主義的傾向というスーチーNLD政府の弱点を見抜いており、ミャンマーの民主化のためには、市民社会の強化育成が喫緊の課題であると考えています。
ジャーナリストの一人は、次のようにミャンマー社会を診断し、処方箋を提示しています。
――国軍は彼らの政治権力を簡単にあきらめることはまずありえない。民主主義への移行期にあって、市民社会組織や政党が弱いと言われている。しかし、それは1962年から2010年までの政治的権利の制限の結果である。それが今日の私たちの問題の背景にある理由だ。私たちの国は、経済、教育、技術などに遅れがあり、市民社会や政党が強い場合にしか追いつくことができないのだ。(3/7 イラワジ紙)
二つめは、青年の新しい動向です。
――テマウンマウンは学生組合の幹部活動家であるが、父親は軍人であるため、彼は生まれてから今日まで基地内の住居で暮らしてきた。ところが最近軍から父母に息子から活動を辞めるという誓約書をとってこいとの圧力があり、父母は息子を説得したが彼は拒否した。すると軍は彼に基地内から出て行くように言い渡したので、彼は基地を出て僧院に一時仮住まいをしている。彼は学生組合は政党でもなく、軍にも反対していないのに、出て行けというのは不当だとしている。
たった一人の話と言うなかれ。人間は集団の勢いに乗って何か反対のことをするというのはそれほど難しくはありません。難しいのは自分一人の決断でことを起こすということです。付和雷同型でない勇気ある行動をとったテマウンマウン型の人間こそ、ミャンマーの民主主義が求める新しい人間類型なのです。(イラワジ紙 3/15)
記者会見する学生組合幹部とテマウンマウン
三つ目は、ある仏教僧侶の勇気ある行動です。
――僧侶ミンツーニュア師は、過激派仏教僧侶ウィラトゥらのヘイトスピーチ止めさせるため政府や Ma Ha Na(仏教僧侶長老協会)に働きかけている。仏教の政治利用を許さず、宗教的純粋性を守るため、過激派からの妨害行動に屈することなく闘っているのである。(イラワジ紙 3/17)
上記の動向はほんの一例ですが、全国をカバーすれば、いろいろな試みや可能性を発見できるでしょう。そうしたものを集約し、政策体系へとまとめ上げるのが全国政党の役割ですが、現状ではNLD含めどの政党も機能的には未熟と言わざるを得ません。ミャンマーの既成の土壌では、組織の人的な縁故支配が主になり、非人格的な政治理論や政策は従になる傾向が強いからです。
そのことは機を改めて論じたいと思います。
2018年3月29日
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7522:180330〕
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