相撲の「神事」と「宮中祭祀」
- 2018年 4月 15日
- 時代をみる
- 内野光子
まさに、日本の民主主義が根底から崩れ、国難に瀕している際に、テレビの報道番組では、相撲協会の力士暴行問題、レスリング協会のパワハラ、たけしの事務所独立に続き、土俵女人禁制問題が浮上、いずれも、いわばスキャンダルとして報道し、多くの時間を割いている。少し前までは、平昌でのオリンピック選手、藤井壮太棋士の動向を、アナウンサーは、声を弾ませて報道し、関係者の声や街の声まで拾って時間を引っ張る。最近は、大谷翔平選手の活躍がトップニュースになり、日本のサッカーチームの監督が交代したことを詳しく報じることもある。
一方、厚生労働省、財務省、国土交通省、防衛省による、公文書の改ざん・隠蔽の実態が雪崩れ打つように明らかになりつつも、国会の与野党の質疑や証人喚問での質疑はテープレコーダーのように繰り返されるやり取りで、問題の核心に届かない。朝鮮半島の南北融和、米朝韓からは取り残される日本、米の関税引き上げや二国間交渉からも無視される日本である。辺野古での新基地工事が着々と進められ、横田基地への米軍オスプレイの配備を強行されたという、いわばアメリカへの100%従属を公言してやまない無能な外交を展開し続けている。NHK幹部によるニュース番組への圧力を報道する民放のテレビや新聞さえも、大方は、専門家やコメンテイターのコメントのバランスをとることに汲々とし、政府への配慮に満ちた、萎縮や自粛にまみれることになる。
こうした状況の中で、静かに、深く、有無をいわせず、潜行している不気味な動きがある。政府が進める天皇代替わりへの準備であり、メディアがこぞって走り出した平成回顧という名の平成天皇夫妻を高く評価してやまない記事であり、番組である。これが、やがて加速度を増し、フィーバーとなりお祭り騒ぎになるのだろう。天皇(夫妻)の「短歌で綴る平成の歴史」などの「切り口」で捉える企画は、歌人や一般読者には情緒的に受け入れられやすい側面を持つ。しかし、そこには、歴史を「事実」で捉えることを回避する陥穽があることを忘れてはならない。
そして、さらに問題なのは、天皇がおこなってきた宮中祭祀の宗教的な性格であり、これから行われる退位・即位に関わる儀式やその後に続く祭祀は「神道」に基づくものが多い。となると、天皇制・国家の在り方は、日本国憲法の「宗教の自由」に大きく抵触することになり、今後は、ますます顕在化し、深刻化することになるにちがいない。となると天皇自身が強調するこれまでの「象徴としての務め」が、「国民の象徴」ではあり得なかったことに直面する。しかし、そのあたりのことは、護憲派の政党も、メディアも、論者も、天皇(夫妻)の人柄や心情を評価し、敬意を表し、称揚してやまない。そして、それは、そのことだけで終わらずに、本来、見据えなければならない喫緊の課題への眼を曇らせ、結果的に行政の到らない部分を補完し、体制支援・順応への道を開くことに加担することにならないか、というのが、私の素朴な疑問なのである。
相撲が「神事」に基づく「伝統」に則って執り行われていることに対しては、メデイアも論者も、時代への即応やジェンダーの視点などからの発言は盛り上がるが、宮中の儀式や祭祀への言及になると、タブーであるかのように口を閉ざす。この国の行方を誤らせてきた歴史を思わないではいられない。
初出:「内野光子のブログ」2018.04.14より許可を得て転載
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