異論なマルクス 価値形態論~論理の飛躍が示唆するもの
- 2018年 5月 13日
- スタディルーム
- ブルマン!だよね
中野@貴州さんから拙論への反論をいただいて、
“「交換が量的に無差別、均一である」というのが特殊であり、むしろ不均一なのが一般的ではないのかというわけです”
と主張されているのですが、これは突き詰めれば一般的等価の候補になる商品が最初からあるからそれが一般的等価になるという「あからさまな」「循環論証」を主張されているのではないか。ここではこれ以上価値形態論の些末な議論に拘泥すべきではないし、明敏な閲覧者であれば私の指摘を直ちに理解されるはずだろう。
むしろ価値形態論がどんなに頑張っても論理的なルール違反を犯さない限り一般的価値形態を導出できないこと、単純な価値表現から貨幣形態の生成を跡付けることの不可能であることから何をくみ取ったらよいのかをもう少し考察してみることは、多少なりとも生産的ではないだろうか。
行ってみれば、価値形態論の困難さを突き詰めていくと、「貨幣が最初からあるから貨幣が存在するのだ」という結論に至るのであって、要は商品の価値関係から貨幣の導出をするなどという無駄な努力をやめて、最初から商品と貨幣の関係を考察する、そうしてこの関係はわれわれの眼前に誰にも見ることのできる形で与えられているのだから、形而上学的な果てしのない議論の泥沼に陥ることも回避されるのではないか。こうしてみれば貨幣は何も商品である必要はなく(商品であってももちろんよいが)何らかの貨幣としての機能-価値尺度、交換手段、価値の保存手段-を備えていればよいということから、単なるコンピュータネットワーク上の記号でも構わないという、いかにも現代的なアプローチも可能になってくる。
価値形態論のほころびを何とか弥縫して生かそうという試みは、それに携わって結論の出ない議論を延々と続けることができるからご当人にとっては、もしかすると幸せな時間の過ごしからかもしれないが、それ以上の「効用」は見出し難いのではないだろうか。
以上
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study974:180513〕
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