負の歴史をつくらないために
- 2018年 5月 18日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
何か問題があれば、解決できないまでも多少なりとも改善できないかと思う。そして何が原因なのかと考える。それは考えるのであって、問題として顕在化している現象をみるのとは違う。問題としている現象をみて、その現象を軽減するあるいは解消する対策をでは、対症療法までで終わる。それでは、たとえ問題を解消できたとしても、問題を引き起こした原因や、起こすことを可能にした環境が手付かずに残る。環境も原因も残っていれば、また同じ問題が起きる。
ここまでは、問題の解決といわず何かをしよう、しなければと考えるときの定石だろう。この定石を守っていけば、たとえ問題を解決できなかったとしても原因を明確にできるし、将来的には解決できる可能性があると思っていた。ところが事によっては、原因や理由などどうでもいい、原因や理由など詮索しても、釈明や説明など聞いたところで、しょうがないというのがある。できることは、理由や原因がなんであれ、似たようなことが二度と起きないようにするだけしかない。それは合理的に考えてどうのということでもない。何をどうするか?できることは、人として良心や良識に従うしかない。
南北アメリカの先住民に対して、イギリスやスペインがしてきたことについて何をどう言おうが、自分たちの都合のいい釈明以外の言葉がでてくるとは思えない。当時のヨーロッパの食糧事情や政治状況を云々しても、あるいはキリスト教の布教や文明化を目的としたものだったと言ったところで、アメリカ大陸への入植は先住民にしてみれば侵略でしかない。ヨーロッパ人がしたことは破壊と略奪以外のなにものでもない。それを正当化する合理的な(?)理由など、いくら聞いてもしょうがない。
同じことはオーストラリアにも、日本の台湾や朝鮮への侵略も中国への侵略にも、ベトナム戦争にもいえることで、どんな理屈をならべたところで、正当化などしようもない。
普通に考えれば、人としてしようなどと考えることすら、しちゃいけないはずなのに、しようとし続ける人あるいは社会集団がある。し続ける人たちはいったいどのような人たちなのかと考えると、どうも大きく二種類の人たちに分けられるような気がする。
第一の人たち(社会集団)は、自分たちがしたことを正当化し続けなければ、今の自分たちの存在を否定することになってしまうという、これは一種の妄信と呼んでいいかと思うが、考えから抜らけれない人たちで、一言で言えば、自分たちの都合でしか物事を見ようとしない身勝手な、ある意味単純すぎる人たちになる。原爆投下を正しい判断だと信じている、信じていたい、信じさせておきたいアメリカ人や組織がそのいい例だろう。
第二の人たちは、かつて自分たちがした犯罪でしかない侵略や略奪によって富を得て、今もこれからもかつてと同じように富をと目論んでいる人たちで、他人の不幸を食い物にして生きてきている社会集団だろう。
おそらく歴史上の全ての国や政府と官僚組織や軍事組織はこの第二の社会集団で、どのような歴史的事実であったにしても自分たちの都合のいいように言い換えるごまかしを続けている。国家権力とはいつの時代にも、自らの過ちを認めることない自己正当化集団でしかない。この自己正当化集団の内や取り巻きに武力を振り回す集団もいればテロなど汚れ仕事をする集団もいる。さらに官報もどきの御用マスメディアもあれば、そんなところでしか能力を発揮しえない人材を育成する教育団体まである。
南北アメリカやオーストラリアで自分たちが、広い意味での先祖にあたる入植者、あるいは侵略者や略奪者の末裔ではないかと自分たちの歴史を否定することは、誰にとっても不可能に近いことだろう。それが個人としてならまだしも社会集団となると、そんなことを考えることさえ難しい。
そこには社会集団の怖さがある。個人では歴史に真摯に向き合ってと思っても、社会集団の一員、ましてやその一員でいることによって生活がなりたっているとなると、心の奥深くで思っていても、自分たちの国や社会の美化に走りかねない。私生活の安寧を思えば、歴史に真摯に向き合うより、美化に走ったほうが精神的にははるかに楽だろう。
自分たちの誇るべき、歴史上の輝かしいと考えられてきたことが、実は自分たち以外の人たちの悲劇的な負担から生まれていることに思いをめぐらす人は少ない。ましてや誇るべき歴史は恥ずべく歴史の上澄みにすぎないないと気がつく人は稀だろう。気がつかなければ、その上澄みがどこからどのようにしてもたらされたのかも考えることもなく、新しい上澄み――新しい負の遺産を作りかねない。歴史上のありあまる負の遺産に気がつかずに、また新しい負の遺産を次の世代に残す。
イスラエルでは差別され、迫害されてきた人たちが、差別し迫害する側にまわって恥ずべき上澄みの輝かしい歴史を作り続けている。
しちゃいけないことの最たるもの、このしちゃいけないことによって、自分たちの誇るべき歴史がつくられてきたし、これからもその最たるものからしかつくられないのかと考えだすと、自分たちの存在そのものが負の歴史なしにはありえない、負の歴史の一部でしかないのかと思いだす。人の犠牲とまでいわなくても、負担なしには自分たちの生はありえないのか。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7650:180518〕
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