中村研一の戦争画
- 2018年 6月 16日
- カルチャー
- 髭郁彦
そこに戦争画が飾られていることを期待して美術館に向かった訳ではない。この画家が辿った変遷の中で、画家が描いた戦争画の位置について考えてみたいと思ったのだ。はけの森美術館は東京都小金井市の閑静な住宅街にある小さな市立美術館である。ここは別名が中村研一美術館であることからも判るように、生前の中村のアトリエを改装して1989年に個人美術館として開館した。その後2006年に市立美術館となった。駅からかなり離れているためか訪れる人の数はあまり多くはないが、それが幸いして展示作品をゆっくりと見ることができる。3月27日から5月13日まで、ここで「所蔵作品展 没後50年 中村研一の制作―日常風景とともに」という小規模な展覧会が開催されていた。その展覧会のフライヤーをたまたま目にした私は、先ほど書いた理由から4月下旬のある日、この美術館を訪れようと決めた。
駅前にある交番で美術館までの道順を聞く。バスもあるそうだが歩いて20分ほどだというので、歩き始める。しかし、なかなか順路を示す表示板が見えてこない。道を間違えたかと思ったとき、はけの森美術館と書いてある小さな矢印が見えた。右折して、坂道を下ると矢印が消え、また方向が判らなくなった。向こう側から歩いて来た人に聞き、やっと方向が判り、美術館に到着。チケットを買い、一階の展示室の扉を開けた。
このテクストでは冒頭で述べたように中村研一の戦争画について検討するつもりであるが、そのために以下の手順で考察を進めていく。先ず彼の画家としての略歴に触れ、次に彼が戦争画家となった経緯について書き、それから彼の戦争画の特徴を分析し、最後にこれらすべての考察をまとめていく。
中村研一の略歴
中村研一はウィキペディアによると、1895 (明治28) 年5月に鉱山技師の息子として福岡県で生まれている。日清戦争が終わって約一月後のことである。二年後に弟の啄二が生まれる (啄二も洋画家である)。1904 (明治37) 年の日露戦争勃発時、研一は9歳であった。1909年、福岡の名門旧制中学である修猷館に入学。2006年にはけの森美術館で開かれた彼の回顧展の図録によると、そこで後にやはり洋画家となる児島善三郎と知り合い、児島などと共に絵画同好会である「パレットの会」を創る。このことがきっかけとなり画家の道を歩もうと考える。1915年に上京し、岡田三郎助と藤島武二が設立した本郷洋画研究所に入所し、同年4月に東京美術学校西洋画科に入学。指導教官は岡田であった。1920年に帝展に初めて入選を果たし、2年後には帝展無鑑査となる。1923年からフランスに留学。4年後にはサロン・ドトンヌの会員になっている。1928年に帰国。1931年には帝展の審査委員となる。日中戦争以後終戦まで陸海軍から作戦記録画制作を依頼され、戦争画家として多くの作品を描いた。第二次世界大戦が終わり、1950年から1967年まで日本芸術院会員。1958年日展常任理事就任。1967年に胃がんで死去する。
こうして中村の略歴を一瞥すると彼の画家としてのキャリアは年を追うごとに確実にアップしていったことが判る。また、中村は戦争画を描いた時期を除けば、絵画制作期間のほぼすべての期間で人物画を中心とした創作活動を行っていた点も強調すべき点である。中村の人物画は師である岡田三郎介や岡田の師のラファエル・コランの影響を大きく受けている。コランは黒田清輝の師でもあり、眩い光に照らされた明るい色彩のタッチを特質とする画風を好んだ画家であり、そのタッチは日本の弟子たちに受け継がれている。日本における洋画の黎明期にコランの作風は日本で重要視されたのだ。ところが当時フランスではすでに時代遅れとなっていたことは否まれない事実であった。しかしながら、岡田の「萩」や「あやめの衣」といった人物画は優れた作品であり、中村はその多くの技法を積極的に取り入れている。また、パリ留学時代の師であるモーリス・アスランのきっちりとした写実主義的手法の影響も受け、中村は生涯レアリズム的なタッチの絵を描いている。ところで、個人的な感想を述べるならば、中村の絵は平和時に描かれたレアリズム的人物画よりも戦争画の方が優れているように私には思われる。だが、この問題は後のセクションで詳しく検討する。
先ほど触れた回顧展の図録の中で福岡大学の古川智次は、「中村研一の絵画は、文学性とか情緒性とかを排除した、純粋に造形を追求した写実である」と語っている。確かにこう語ることも可能であろうが、正直な感想を述べるならば、中村の多くのレアリズム絵画は師の岡田の絵画に比べるととても泥臭く感じてしまう。その大きな要因の一つに、古川が指摘している写実性の強さと詩的情感の排除という中村の制作態度があったように思われる。記録することには優れているが、オブジェの向こう側にある存在の彩を消し去っているのだ。厳密なレアリズムと言えば聞こえがよいが、実際には田舎臭く野暮ったい表現にもなってしまう。ところが、その田舎臭く、野暮ったいレアリズムが生きる絵画ジャンルが存在する。それが戦争画であり、戦争画の中でもとくに作戦記録画に、この種のレアリズム性は非常に適していたと考えられるのである。
作戦記録画家としての中村研一
上述した図録によると、中村は1937 (昭和12) 年に日本海軍から、イギリス国王ジョージ6世の戴冠式に参列する世界各国の軍艦を描くように依頼される。そのため乗り組んだ巡洋艦足柄をモチーフとして描いた絵が、彼の戦争画家としてのキャリアのベースとなる。中村はこの軍艦をモデルとした油絵を描いただけではなく、数多くのスケッチも残している。1938 (昭和13) 年に大日本陸軍従軍画家協会が結成され、中村は従軍画家として中国戦線に赴く。この時から彼は本格的に作戦記録画を描くようになる。
最初に中村が描いた作戦記録画は1938年作の「光華門丁字路」であろう。この作品は翌年の第一回聖戦美術展に展示された。前線で戦う歩兵たちの様子が後ろから捉えられた構図になっており、前方では砲弾がさく裂している。戦地の状況が正確に伝えられているように感じる絵である。この作品以降も、中村の戦争画は戦地の光景がニュース・ドキュメンタリータッチではっきりと示されており、ある象徴的なシーンが強調されると同時に、中村は作戦記録画を的確に描くという意識は相当にあったように私には思われる。その反面、彼の戦争画には、はっとするような意外性は少ない。淡々と戦場の光景を描いている印象を受ける。
『美術手帖』2015年9月号 (特集:絵描きと戦争) の中に、「僕等は従軍画家だった」という座談会の記事が掲載されているが、そこで、中村は「(…) 戦争画を強制されて描いたという憶えはない」と語っている。また、「たしかに戦争によって、日本人全体が有機的に結ばれていたね。だから一つの主題が与えられると、日本の歴史に必要なものになるに違いないという気持を画家の誰もが持っていたね」という意見も語っている。この画家は戦争画制作に対しては問題意識を持っていなかったようである。それだけではなく、戦争が画家にとってよいものであったという意識さえあったようである。「(…) 現在われわれの画はわれわれが勝手に描いて、相手がないんだ。誰に奉仕しているのか、誰に提供されているものなのか――たとえば展覧会に出して一般に見せる場合でも、共鳴する場合もあり、関心のない場合もある。いわば民衆と画面に有機的つながりがないんです」という発言はそのことを明確に表している。戦争画肯定の大きな理由として挙げている「民衆との有機的つながり」という言葉は、もっともらしい言葉のように聞こえるが、戦争画を時代的な問題にだけに極小化してはいないだろうか。あの時代はみんなが戦争に熱狂した、だから戦争に協力した画家たちも許される。もちろん、その一人である私も許される。それどころか、こうした制作行為は称賛されるべきだと主張しているようにも感じてしまう。
こうした態度は彼の絵画作品にも反映していないだろうか。前のセクションで書いたように、平和時の中村研一の作品はどこか間が抜けた野暮ったい印象を抱いてしまうが、そこには、「現在のわれわれは勝手に描いている」と語った彼の絵画思想が影響しているように思われるのだ。何かの名目がなければ画家はその使命を果たすことができないという思い込み。それがファシズム思想へと繋がっていくとはまったく考えない思慮のなさ。そういったものを基盤として彼の絵画は作られていったのではないか。こうした疑念が湧いてくるのである。
中村研一の戦争画
中村は確認できる範囲で17点の作戦記録画を残しているが、前のセクションでも述べたように、彼は多くの作戦記録画のエスキス、戦場や軍艦のスケッチを描いている。先ほど挙げた「光華門丁字路」の他にも、17点の中には「花に匍ふ (蒙疆機械化部隊)」、「シンガポールへの道」、「コタ・バル」、「北九州上空野辺軍曹機の体当たりB29二機を撃墜す」といった作品があるが、『別冊太陽:画家と戦争』の中で迫内裕司は中村について、「«コタ・バル»のように、戦う兵士の動感溢れる画面から、軍艦・戦闘機を緻密に描いた海戦や航空戦まで、幅広く描けたことが、陸軍からも海軍からも重宝がられた (…)」と書いている。この意見は正しい。だがもう一つ重要なことを付け加えよう。戦争は中村の持つレアリズム性が最もよく表現できるテーマであったという点である。
1942 (昭和17) 年という同じ年に描かれた中村の二つの作品、戦争画の代表作「コタ・バル」と人物画の代表作「安南を憶う」とを比較してみよう。この二つの作品には前者が画面全体を暗い黒が覆っているという、後者が眩い陽光を意識した作品という明暗や色調の相違があるだけではない。作品の構図や主題といったものもまったく異なっている。その違いを詳しく検討することも重要であろうが、ここでは絵画的レアリズムにおけるドキュメンタリー性という問題にだけ焦点を当てて比較してみたい。「コタ・バル」の暗い画面の中に描かれた歩兵たちの突撃戦闘シーンの迫力と、「安南を憶う」の熱帯の強い日差しが降り注いでいるベトナムの室で椅子に寄り掛かるアサイを着た婦人の気怠さ。二つの絵はジャンルだけではなく、全体の雰囲気も対極にあるものであるが、現実の一場面の描写という点では共通している。しかし、前者の作品の緊張感とダイナミズム、後者の作品の弛緩した静態性とに共通性はまったくない。これらの絵が同じ年に同じ画家によって制作されたということに不思議な思いを感じるのは私だけであろうか。どちらの作品にもレアリズムは存在しているが、レアリズムによって切り取られた現実のシーンの差異はあまりにも大きい。その差異の根源にあるものは何であろうか。
中村と哲学者で美術史家の矢崎美盛との対談集である『絵画の見かた―画家と美学者との対話―』の中で、中村は「本当の線」や「フォルムの真偽」や「真の個性」といった言葉を何度も語っている。しかしながら絵画にとって真実とは一体何であろうか。確かにデッサンとして、構図として、配色として、好ましい線や適切なオブジェの配置や色彩的調和といったものは存在するであろう。だが、それはある画面に描かれたリンゴならばリンゴというオブジェそれのみの輪郭や位置という問題なのではなく、絵の中にある他のオブジェや絵全体とそのオブジェとの関係性に基づく問題である。それゆえそれは真や偽というレベルで語るべきものではない。それにも係わらず、中村はまるで最初から真であるものが存在しているかのように絵画の問題について語っていないだろうか。この姿勢は彼の描いた戦争画に最も如実に表れているように私には思われるのだ。
このセクションの最初で挙げた中村の戦争画はいずれも写実性に優れたものであるだけではなく、これこそが戦争のドラマツルギーのエッセンスを描写したものであると自信を持って主張している作品ではないだろうか。「光華門丁字路」と「コタ・バル」に関してはすでに述べたが、「花に匍ふ (蒙疆機械化部隊)」に描かれた野草が咲いている広大な平地を匍匐前進する兵士たちの姿は力強い。「シンガポールへの道」でもやはり匍匐前進する兵士がテーマであるが、一人の兵士だけにスポットが当てられ、苦難を乗り越え目的地へと進む兵士像の象徴化が行われている。「北九州上空野辺軍曹機の体当たりB29二機を撃墜す」は当時広く知れ渡っていた航空兵の逸話に基づき制作されたものであるが、青い大空の下で敵B29二機が撃墜されたシーンが印象的に描かれている。中村の戦争画には兵士たちの英雄的な活躍がドキュメンタリータッチで、エネルギッシュに提示されている。そこに中村の自らの絵に対する自負心を見て取ることは容易である。それだけではなく、彼がこれらの絵に対して真の、正しい絵である考えていたことが確信できる作品となっている。
フランスの言語学者であるジャン・セルヴォニは『言表作用 (L’énonciation)』の中でイギリスの哲学者ジョン・L・オースチンの理論について簡潔に要約しながら、「ものの状態を描写するのに役立たない、従って、真偽値に寄与できない多くの言表が存在している。こうしたものは例えば「私はこの船をクイーン・エリザベス号と命名する」といった言表である」と述べている。論理的規則性を重んじる言語記号の中でさえも真か偽かだけでは解決できない問題が存在しているという事実は、絵画記号という言語記号以上に論理レベルでは推し量れない記号体系から構築されるものに真偽の問題を無理に当てはめることはできないという結論を導き出すものではないだろうか。だが中村はこの結論を否定するように正しい絵という主張を行っている。そこには価値の押しつけというものがないだろうか。こうした押しつけにはファシズムの臭いが漂っている。美的なものの真偽値への還元は強制的な力の行使を伴うものだからである。その力は支配システムに本源を発するものである。それは従わなければならないシステムの存在を否定するという意味ではない。たとえば、スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールが言うように言語システムはわれわれが生きていくために従わざるを得ないシステムである。だが、戦争遂行のための強制力を行使する支配システムはわれわれの生活から乖離した体制である。そのシステムを「民衆との有機的つながり」という言葉で正当化する中村の考えには全体主義に迎合する思考が孕まれている。
視点を変えてみよう。「民衆との有機的つながり」を基に描いた中村の戦争画と「現在のわれわれは勝手に描いている」という平和な時代に描いた中村の作品とを比べてみた場合、前述したように彼の戦争画の方がはるかに力強く、作品として優れているように私には思われる。戦争画、とくに作戦記録画の名作を描いた戦時中の日本の洋画壇をリードした藤田嗣治、宮本三郎、小磯良平、向井潤吉たちの作品を眺めてみよう。彼らは戦争記録画の名作を残しただけでなく、平和時においても数々の名作を残している。だが、中村研一は彼らとは異なる。もちろん彼も平和時に沢山の人物画を描いてはいるが、画期的に優れた作品は存在していない。中村の人物画は彼の描いた戦争画に比べて、あまりにも貧弱で、平均的で、垢抜けない。端的に言うならば、エネルギッシュな絵がないのである。その理由として今挙げた彼の「民衆との有機的つながり」という言葉と「現在のわれわれは勝手に描いている」という言葉が示す対照的な制作姿勢があるように思われるのだ。それが中村の絵画思想における大きな問題をくっきりと浮かび上がらせているからである。すなわち全体主義的時代への称賛に伴う責任回避の問題である。
全体主義の強制力が働いた下で、個人主義的行為の実現は困難であると述べることは容易である。しかし、ファシズムの時代であるゆえに画家が自らの作品に対して責任を担わずに、自らの絵の創作理由を時代的、民族的な繋がりにのみ求めることは可能であろうか。つまりは、彼の戦争責任は問わずに済まされることができるものであるだろうか。フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスは作家のフランソワ・ポワリエとの対談が掲載されている『暴力と聖性』の中で彼の思想の中心にある有責性について、「(…) 存在の真の基体――«在る» からの真の出口――は責務のうちに、「他者のために、他者の身代わりとなること」のうちにあり、 それが «在る» という無‐意味性のなかに一つの意味を導入することになる。(…) 他者に臣従する自我という考えです!この倫理的な出来事のうちにすぐれて主体的であるような誰かが出現します」(内田樹訳) と語っている。抽象化された他者とではなく顔を持つ他者と向き合った私が担う有責性は、自らの存在の過剰さを乗り越えて他者の代わりに何かを担うことの中にあるものである。レヴィナスはそう主張している。他者のせいで私は何かを担うのではなく、私が他者の存在を担うのである。こうした有責性という問題と中村の絵画思想は無縁である。顔のないマスとしての他者が強要する時代の柱に寄り掛かった創造性。そこにはファシズム的絵画論が存在している。しかし、中村の場合、そうしたイデオロギーの下で描かれた絵の方が優れていると思われるのは何故であろうか。最後にこの問題を考えてこのテクストを終えようと思う。
戦中の作戦記録画を描いた画家たちは、確かに、それぞれの思いを抱き、それぞれのテーマでそれぞれのタッチで戦争画を描いた。それゆえ彼らの絵を戦争画という名の下に一括りにできない各画家のオリジナリティーというものが存在している。だが、作戦記録画制作に使命感を帯びていた場合と命令で仕方なく描いたの場合とでは大きな違いがある。この点に関しては前述した発言にあるように中村が自発的に、使命感を持って戦争画を描いたことは否まれない事実である。しかしそれだけが彼の戦争画を優れたものにした理由ではない。レアリズムの中にもドラマツルギーは存在する。そのドラマツルギーが画家の内面性の反映である場合と対象自身に内包されている場合とでは根本的な差異がある。中村は内面的ドラマツルギー性を拒否した。あるいは、内面的ドラマツルギーからは遠い画家であった。それゆえに、平和時の彼の絵は平板であるのではないだろうか。それに対して戦争はそれ自身がドラマツルギーを抱えざるを得ない出来事である以上、ただ単に描写しただけでも、いや、ただ単に描写することによってこそ、そのドラマツルギーが強調されていくものではないだろうか。この戦争画の持つ特質を最もよく作品に反映させた画家が中村研一であった。私にはそう思われるのである。中村が戦争画制作にまったく疑問も抱かずに、日本の国家が行った戦争に疑問を抱くことなく、国家が求める戦時体制に迎合する絵を創り出す画家であったからこそ、彼の戦争画は優れたものとなったのだ。もちろんそこには彼のレアリズム的な描写力という技術的なものも存在している。たとえば、横山大観には中村のような写実的な戦争画を描く絵画技術はなかったであろう。
中村はレヴィナスが重要視する有責性という問題からは遠い位置にいる画家であった。その彼が「本当の線」や「フォルムの真偽」や「真の個性」と語ることには隠蔽された意味がある。これらの言葉の裏に隠されたものは絵画的真理の探究というものではない。そこに隠されたものはオブジェの本質の名の下に、自らのファシズム性を正当化しようとする態度である。しかしながら、そうした態度の下でも優れた絵画を作成することが可能であることを中村の戦争画は証明している。問題は戦争画自身にあるのではない。戦争画を描くことで担わなければならない時代精神への迎合あるいは反発を画家個人がしっかりと自覚しているかどうかということである。この視点から中村の作品を見るとき、自らの戦争画制作の責任を「時代精神」というプラスティックワードによって正当化している画家の姿が鮮明に映し出されてくる。
戦争への高揚が人を引きつける絵を描いてしまう。それは不幸なことであろう。だが、そうした事実があったことをわれわれはしっかりと認識する必要がある。その典型的な例として中村研一の絵を見るとき、われわれは有責性の問題と真剣に向き合わなければならないことを明確に理解する。レヴィナスの「有責者は誰かに訴えかけられたら、他の誰かに対する自分の役目を忘れて、そしらぬ顔で行き過ぎることができません。倫理的に言えば、有責性は忌避不能です。有責である私は他の誰によっても立場を入れ替えることができない、代替不能のものであり、かけがえのなきものに叙任されているのです」という言葉。この言葉は中村が決して考えなかった他者を引き受けることによって始まる存在の物語の始まりを示している。その物語は目の前のレアリズムを超えて存在の根源へと向かう。自らの行為、それはしばしば自らの存在根拠ともなり得るが、それを他者の責任に帰着させるのではなく、どのような理由があっても他者の存在すらも引き受けるものとすること。それが有責性を持った者の存在行為である。こうした存在姿勢が中村には完全に欠けていたのだ。戦争記録画の歴史的意味は記録というものだけにあるのではなく、日本軍の行った暴力、略奪、殺戮をも引き受け、それを何らかの形で示すことである。中村の戦争画はその作品が優れていれば優れているほど、有責性という重大な部分が抜け落ちた、戦争体制に迎合し、その体制を擁護するだけの作品になっているのだ。それでも中村の戦争画には大きな存在理由がある。有責性へのアンチテーゼとしての。それゆえ私は中村の戦争画、とくに「コタ・バル」は名作だと思う。存在というものは常に肯定的な意味だけで輝く訳ではないこと、それをこの作品は雄弁に語っているのだ。
「コタ・バル」の闇の中に広がった世界が現実として再現されないことを祈って、私は明るい日差しに包まれた世界へと一歩進み出た。そこには様々なモノを照らし出す光があった。
初出:宇波彰現代哲学研究所のブログから許可を得て転載
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