明治はその始まりに英知を失った-横井小楠と「天地公共の道理」
- 2018年 6月 17日
- スタディルーム
- 子安宣邦
「有道無道を分たず一切拒絶するは、天地公共の実理に暗くして、遂に信義を万国に失ふに至るもの必然の理也。」
私は「明治維新100年」がいわれた時期に横井小楠をめぐる論文を書いている。されは雑誌『理想』の特集号「変革期の思想」(1967年10月)に載った「横井小楠における世界認識と変革の思想」である。日本の真の開国は、一国的割拠見を破る世界認識をもってした変革によってのみ可能だという横井小楠の思想を「明治維新100年」の日本に私は伝えようとした。私はこれを書きながら小楠における危機的現実との対応を通じて錬磨されたすぐれた儒家的英知を発見した。小楠の儒家的英知なくしてこの変革の思想もない。この発見の感動とともにこの論文は書かれたのである。ところで「明治維新150年」がいわれる現在の日本で「横井小楠における世界認識と変革の思想」は意味を失ったか。だが現代日本の「無政事」的迷妄を見ていると、日本近代の夜明けに、小楠がその英知とともに尊攘派刺殺者の手で殺され、喪われてしまったことの大きな痛手は今に及んでいるように思われるのである。私が再度ここに「横井小楠における世界認識と変革の思想」を公けにしようと考えたのはそのゆえである。
1 『夷虜応接大意』
1853年(嘉永6)8月、ゴンチャロフの表現によれば、「例の通り晴朗だが、惜しいかな暑すぎる」日、プチャーチン提督に率いられたロシヤ艦隊が長崎湾頭に接近した。ゴンチャロフはその時の感慨を『日本渡航記』にしるして、「これぞ巧みに文明の差出口を避け、自己の知力と自己の法規によって敢えて生きんとして来た人類の大集団であり、外国人の友誼と宗教と通商とを頑強に排撃し、この国を教化せんとする我々の企図を嘲笑し、自己の蟻塚の得手勝手な国内法を、自然法にも、民法にも、その他あらゆるヨーロッパ流の正と不正に対立せしめている国である」[2]といっている。鎖国日本を前にしてのヨーロッパ文明の派遣者の意識をつぶさに知らせる文章である。しかもその派遣者たちは、「『いつまでもそうして居られようか?』と我々は六十斤砲を撫して云うのであった」と書いているように、自然法、国際法に基づく開港通商の要求は軍事的強圧をもって幕府に突きつけられたのである。
すでに同じ嘉永6年6月にペリー艦隊は浦賀に来航し、強硬に開港を主張している。対外的緊張がもたらす開国か攘夷かをめぐる国論の沸騰についてはあらためて書くまでもない。だが対外折衝を通じて益々明らかにされる幕府の「因循姑息」は、国論を決定する力を、後期水戸学の担い手を先駆として群生するいわゆる志士たちの手にゆだねてしまうことを一層明らかにした。
横井小楠が「天地公共の実理」をもってヨーロッパ文明の派遣者に応接すべきことを説いたのも、長崎に来航したプチャーチンとの交渉に幕府により派遣された開明的な幕臣川路聖謨に対してであった。小楠が川路に書き送ったという『夷虜応接大意』の主旨は、「有道無道を分たず一切拒絶するは、天地公共の実理に暗くして、遂に信義を万国に失ふに至るもの必然の理也」という言葉に尽きている。信義をもって通信通商を要求することは公共の道理であってそれを拒む理由はない。「理非を分かたず一切に外国を拒絶して必戦せんとする」過激攘夷派の主張は、鎖国の旧習に泥み、公共の道理を知りえぬ必敗の徒の主張であると小楠はいう。わが国是が、万国を貫きうる「天地仁義を宗とする国是の大道である」ことを決然と示すことによって、武威によって開港を要求する米国の無道への膺懲に天下の士気を振起せしめることができるし、他方ロシヤに信義を要求することができるというのである。小楠の論旨は、米国への膺懲をいいながらすでにそれは本質的に攘夷論ではない。彼は開港を強要する外国をも包摂する普遍の道理に立つことを主張しているのである。小楠における世界情勢の認識の深化が、彼を積極的な開国論へと転回せしめる要素を、すでに彼の主張は有している。
小楠が積極的に開国論を主張し始めるのは、安政2年(1855)、当時第一級の世界地理書として翻訳された『海国図志』に接したことを重要な契機としているといわれている。同年9月の柳河藩家老立花壱岐宛の書簡で、「近比夷人之情実種々吟味に及び候処中々以前一通り考候とは雲泥の相違にて実に恐敷事に御座候。勿論兵端さし迫り候筋とも存じ申さず候。遠大深謀之所存にて尤辺地抔を乱暴侵奪抔仕る者共にては決して御座無く候」[3]とのべている。欧米諸国の国情の認識が小楠に与えた問題の重さをよく物語っている。しかしここで注目すべきことは、彼が「実に恐敷事」と見た欧米の実情が、ただ軍事力に表現されるかぎりでの国力ではないことである。「兵端さし迫り候筋とも存じ申さず」という彼の言葉がそれを示している。彼が何を「恐敷事」と見たかは、これから問うべきことであるが、この世界情勢の認識が彼の実学的思索の前進に拍車をかける。開国論と「三代の道」という政治理念とが結合され、殖産交易論を基礎に富国強兵策が具体的に展開されていく。そしてペリーによって「無政事」[4]と評されるような「徳川御一家の便利私営」を出ない次元に政治を低迷させているのは、鎖国の旧套に泥む閉鎖的精神であることを、世界情勢の認識が一層彼に確認させるのである、
2 「三代の道」と「格物の実学」
「近比夷人之情実」の認識の深化が小楠に「実に恐敷事」という実感をもたらしたものは何か。そしてそのような認識を通じて日本的変革の真の基準(クライテリオン)を小楠に構成せしめるような思惟の特質とは何か。
小楠はある書簡で徳川慶喜の英明に触れながら、「大樹公此くの如きの御英知有為の御方なれば皇国中之因循は自然と取れ、西洋流之富国強兵に起り候は必定なり、唯々残念は真之治道之目的これ無く、終に第二等之事に落入申す可く候」[5]と述べている。現実の政治過程は、公武合体論者である小楠が予測したような慶喜による富国強兵の実現としては展開しなかった。だが彼はそれを期待しながらも、「西洋流の富国強兵」をもって真の治道の目的を欠いた「第二等之事」と評しているのである。もとより小楠もまた富国強兵論を展開し、海軍建設に多大の関心と熱意を傾けている。しかし富国強兵が、ただ単に軍事力にのみ表現される国力の強大化を目指すならば、それは「当今一般西洋之兵制に一変致し駸々然と憤興之勢甚賀す可き事に候得共、必竟自国同胞相喰之私心に発し、皇国の防禦とは申され難し」[6]というように、一藩一国の割拠的私見に基づく強大化であり、生霊の惨憺を招くことへのいかなる歯止めもないことを見るのである。
では小楠が欧米諸国の国情に「実に恐敷事」と見たのは何か。それは欧米諸国の富国強兵の現実の背後に、彼が「第一等」の真の治道としてとらえる「三代の道」と符合せる社会体制、社会理念を認めることによってである。ここにやや長いが、小楠の卓越せる認識を示す箇所を『国是三論』から引用してみよう。
「墨利堅(めりけん)に於ては華盛頓(わしんとん)以来一大規模を立て、一は天地間の惨毒、殺戮に超たるはなき故、天意に則(のっとっ)て宇内の戦争を息(やむ)るを以て務(つとめ)とし、一は智識を世界万国に取て、治教を裨益するを以て務とし、一は全国の大統領の権柄、賢に譲て子に伝へず、君臣の義を廃して一向公共和平を以て務とし、政法治術其他百般の技芸・器械等に至るまで、凡地球上善美とする者は悉く取りて吾有となし、大に好生の仁風を揚げ、英吉利に有つては政体一に民情に本づき、官に行ふ処は大小となく民に議り、其の便とする処に随て其好まざる処を強ひず」という社会体制・社会理念が「政教悉く倫理によって生民の為にするに急ならざるはなし、殆三代の治教に符合するに至る」ことを小楠は羨望の念をもって認めるのである。
欧米諸国の国力に、社会体制、社会理念に基づく内発的な充実を認めえたことは、小楠の時流を超えた卓抜な見識を示すものといえよう。彼が真に「恐敷事」としたのは、欧米諸国におけるそのような国力の充実であったのである。
小楠にこの認識をもたらしたものは、彼が夙に抱いていた「三代之道」という理念であり、これに基づく儒家的思惟の特質であった。そしてこの認識がまた小楠に「三代の道」の理念への確信と、その実現への志向を一層強めさせるのである。「三代の道」の理念は、彼に欧米諸国の社会体制についての卓越した認識をもたらすとともに、そのような認識を可能にする主体性をも構成する。西洋の軍事力にのみ瞠目する認識者は、「西洋流之富国強兵」しか実現しないだろう。「三代の道」の理念に裏打ちされた富国強兵策こそ、生民の犠牲の上に築かれるものではない、内的な充実としての国力をもった国家の独立を全うさせるものだというのである。
小楠のいう「三代之道」とは、民本主義的な仁政の理念であり、孟子流の王道的な政治理念として考えればよい。それはあくまで儒教的骨格をもった理念であり、利用厚生の具体的施策も治者の徳性との連関を根柢に置いてとらえられる政治と道徳との連続的思惟をはなれるものではない。しかし今問わるべきは、小楠の「三代之道」の理念が、彼の経綸、彼の現実的思想展開においてもつ意味であり、その理念が何であるかはそこで明かにされよう。
小楠は「天地之間第一等之外二等三等之道これ無し」といい、真の治道はその志をただ「三代の道」に向けて立てる以外にないという[7]。「三代之道」は小楠の実践的思惟において行為の指標として理念化される。この理念化は、「治国安民の道、利用厚生の本を敦くして知術功名の外に馳せず、眼を第一等に注け聖人以下には一歩も降らず、日用常行孝弟忠信より力行して、直ちに三代の治道をおこなふべし、是乃堯舜の道、孔子の学、その正大公明真の実学」[8]といわれるように、聖人がその現実に対したと同様に、「聖人以下には一歩も降らず」に「三代之道」の理念を指標として己れの現実に対することをいう。そのとき現実は彼の経綸を要求する全く新たな現実として彼の眼前にあるのである。それとともに学問も徹底的に実践的な学として革新されねばならない。「実学」「格物之実学」といわれるのがそれである。
「方今天下知名之諸君子、平生此道之正大を唱へ、其の趣向大いに流俗に異るが如くに候へ共、或は事変に処し、或は登路に当り候へば、(第一)等之道はとても行れ候事にてこれ無く、聊か今日を小補するに志し不知不覚に俗見に落入り、平生之言総て地を払うに至り候。是れ其の志三代之道にこれ無く候故、所謂古今天地人情事変之物理を究めず、格物之実学を失ひ、其の胸中経綸全くこれ無く、扨て現実の大事に当り候ては茫乎として其の処置を得ず」[9]というのである。この論旨がもつ緊迫を失うことを恐れずにわれわれの言葉に言い直せば、「三代の道への志なくしては、古今の天地・人間世界の変化の道理を究めようとせず、まさしく格物の実学の喪失を招くことになる。この実学なくしては胸中にいささかの経綸もなく、茫乎として現実への処置を失うにいたる」というのである。
「格物」とは小楠によって「其の格物と申すは天下の理を究めることにて即ち思ひの用にて候」[10](「沼山対話」)といわれる。思うとは己れに思いえて合点することであり、学問とは思うことに尽きるともいう。「学問を致すに知ると合点との異なる処ござ候。天下の理万事万変なるものに候に徒に知るものは如何に多く知りたりとも皆形に滞りて却て応物の活用をなすことあたはざるものに候」というように、孔孟程朱の聖賢の学問に向かうものは聖賢の志向とその実現の方法とを己れに思いえて合点することこそ必要であり、そのことによって己れの前にある新たな事態に対して学問は有効性をもつというのである。しかし小楠の「実学」は、具体的施策を方法的に提示し、その成果を検証する実証の学をいうのではない。経綸を可能にする心情における根拠や姿勢との連関(=心術)が常に問われる実践的思惟の方法ともいうべき学である。道徳的内面性が経綸の前提としていわれる儒教的思惟が小楠の思想の展開においていかなる機能を果たし、従っていかなる意味をもっているかは後に問題にする。ともかく小楠における「三代之道」という理念の高揚は、その理念を指標として新たな現実に直面することであり、そのことが具体的現実への経綸を可能にする実学(実践の学)を要求することを、今ここでは見ておこう。
3 「三代の道」と「至誠惻怛の心」
小楠の思想において、「三代之道」の理念の高揚がもたらす意味を更に追ってみよう。「三代之道」とは民本主義的な仁政の理想であることはすでにいった。「政事といへるも別事ならず民を養ふが本体」(「国是三論」)という利用厚生による民生の発展を目指したのが、理想とさるべき堯舜の治道であった。そして、欧米諸国の政治理念が「生民の為にする」という倫理性に貫かれているかぎり、これに基づく通商の要求は、それは「天下公共の道」によるものであり、それを拒絶する理由はない。民本主義的仁政の理想は、普遍的な公共の道である。そしてこの道が、「天地之間第一等之外二等三等之道これ無し」と目指されることによって、現実はこの道を指標とする実践主体を介して具体的な歴史的現実として、この理念との牽連的関係に置かれることになるのである。
「三代之道」の理念の高揚は、幕府諸藩の体制維持に収斂する政治的志向と行為とを「私事」「私営」と断じることになる。「幕府を初め各国に於て名臣良吏を称する人傑も皆鎖国の套局を免れず、身を其君に致し力を其国に竭すを以て、忠愛の情多くは好生の徳を損し、却て民心の払戾を招く国の治りがたき所以なり」と幕藩の固定的な体制に規定されているロイヤリティー自体が転換されねばならないのだ。そして幕府によって企図される国防策は、「各国の疲弊民庶に被る事を顧る」ことなく、「徳川御一家の便利私営」にすぎず、もはやそこには「天下を安んじ庶民を子とするの政教」の不在を見るのみだと激しく指弾するのである。
「三代之道」という普遍的な倫理的価値理念の小楠における高揚は、彼の思惟の歴史的、空間的視圏の拡大に対応している。「第一等」の治道の実現への志向は、幕藩体制を相対化し、その体制維持に収斂する政治的行為を「私事」として退けることによって幕藩体制自体を克服していく。さらに「三代之道」の理念は空間的にも普遍的な公共の道ととらえられ、グローバルな視圏の拡大がもたらされるのである。そのような視圏の拡大によってはじめて一国の経綸も可能であると小楠は説いているのである。
「万国を該談するの器量ありて始めて日本国を治むべく、日本国を統摂する器量有りて始めて一国を治むべく、一国を管轄する器量ありて一職を治むべきは道理の当然なり。公共の道に有て天下国家を分つべきにあらねど、先づ仮に一国上に就て説き起すべけれ共拡充せば天下に及ぶべきを知るべし。」(同上)
「三代之道」の理念の高揚は、鎖国的精神に対立する天下を該博しうる器量に対応するのである。歴史的空間的な視圏の拡大とそれにともなう精神の器量こそ、橋本左内等とともに幕末変動期において拠るべきクライテリオンを示しえた精神の器量であろう。この精神にしてはじめて、「自国豊熟にして他国は凶歉ならん事を祈る気習なる故、明君有ても纔かに民を虐げざるをを以て仁政とする迄にて、其の真の仁術を施すに至らず」(同上)と、為政者の気習としてまで染着した鎖国体制からの脱却を徹底的に主張することを可能にするのである。さらに「一国第一等之人才用られ候へば必ず第一等之治を為すべきことに候」[11]という人材登用論を、「大いに言路を開き、天下と与に公共の政を為せ」(「国是七条」)というテーゼにまで徹底させるのである。
しかし小楠のいう「三代之道」の理念は、儒教的仁政の理想であり、治者の徳性に裏付けられるべき政治理念である。それゆえ「扨又国是三論出来、一は富国一は強兵一は士道、此三論を以て一国を経綸する土台に立、其の根本は堯舜精一之心術を磨き聊の私心もこれ無き修養第一にて」[12]と道徳的内面性の陶冶を小楠は政治的経綸の基本に置くのである。また同じ書簡中で彼は、「其の根本は初にも申通り此学の一字三代以上の心取第一之事にて是又申すに及ばざるに候」ともいう。小楠の心術の重視は、第一等としての「三代之道」を行為の標準とするかぎりでの心術の問題であり、個人次元の修身は本質的に問われていない。「三代之道」を構成する価値概念「天地公共」「民生」が消滅さるべき「私心」に対立するのである。それゆえ小楠は、「人君愛民の道は是又専ら民を気に付けて、民の便利をはかり世話致す事に候」といい、その利用厚生の施策こそ「是皆己を捨て人を利するのことなり。故に利の字己に私するときは不義の名たり、是を以て人を利するときは仁の用たり」(「沼山対話」)というのである。
前にわれわれは小楠が「格物」を「思の用」ととらえたことを見た。「思」とは聖賢の志向とその実現の方法とを己れに思うことであり、現実に対しては「三代之道」の実現の志向に貫かれて虚心に衝迫する実践的思惟である。そのとき自己の内に見出すのは、「戦争の惨憺万民の疲弊、之を思ひ又思ひ、更に見聞に求れば自然に良心を発すべし」[13]という「良心」であり、あるいは「至誠惻怛」(沼山対話)の心である。小楠が一切の利己心を排除して天地公共の道に立つことを求める「三代以上之心取」としての内面的徳性とは、そのような「良心」であり「至誠惻怛」の心にほかならない。それこそ小楠が真の国力の充実を可能にする内発性を促す、政治的経綸の根柢にあるべき道徳性として強調するものである。欧米諸国の民主的政治理念のうちに小楠が認めたのはそれであり、同時に西欧帝国主義の植民地支配の「割拠見」に対する「三代之道」の道徳的優位性を認める小楠の世界認識の主体的なケルンをなすものでもある。
「三代之道」の理念の高揚が小楠の思想展開においてもつ意味を以上のように見てくるならば、彼の「格物之実学」のとらえる「理」はすでに意味を転換していることを知るだろう。今小楠が積極的な交易による富国強兵論を展開する根拠を何に置いているかを見てみよう。
「天地の気運と万国の形勢は人為を以て私する事を得ざれば、日本一国の私を以て鎖閉する事は勿論、たとひ交易を開きても鎖国の見を以て開く故、開閉共に形のごとき弊害ありて長久の安全を得がたし。されば天地の気運に乗じ万国の事情に随ひ、公共の道を以て天下を経綸せば万方無碍にして今日の憂る所は惣て憂るに足らざるに至るべきなり。」(「国是三論」)
小楠は経綸の根拠を天地の気運、万国の形勢の認識と「天下公共の道」の理念に置いている。「三代之道」の理念の高揚は、実践的主体に新たな具体的現実を提示することはすでに述べた。しかしその現実は変動して止まない現実である。この現実に実践的に衝迫する思惟の方法が「格物之実学」であった。その「格物」のとらえる「理」は「天地の気運」であり、時勢とともに変化し、もはや一定不変の理ではない。「古今勢異に候。勢に随ひ理も亦同じからず候。理と勢とはいつも相因て離れざる者に候」(「沼山対話」)と小楠もいう。
では変動する事態からいかにして「格物之実学」は「理」をとらえようとするのか。すでに見たように、「思」とは「三代之道」の理念を指標として、虚心に現実に向かう開かれた精神の営為であった。「学」とはそうした精神の営為以外のものではない。小楠は「且又学者は粘滞の疾を去べく候」という。「粘滞の疾」とは彼が、いわゆる「和魂」の主張者に見る「徒に形迹に拘泥し旧套に因循し故習する」ところの閉鎖的精神の習気である。「習気を去らざれば良心亡ぶ」(「中興立志七条」)と小楠はいう。利己的私見を去り、習気を払拭するとき、「良心」「至誠惻怛」の心に時勢の「理」は響くのだというのである。
小楠の「実学」「格物之実学」の主張は、学問をして活物応用の学たらしめようという強い傾向をもっている。だが同時にその「実学」の根底を道徳的内面性との連関に求める儒教的思惟にそれは規定されている。彼の「実学」は目的合理的判断に立つ科学的思惟の方法ではない。それは道徳的心術に裏打ちされた実践的思惟の方法である。しかし私はここで小楠の思想的限界をいうつもりはない。むしろ儒学によってその骨格を規定されている小楠の実践的思惟が、明治維新という変革期にあって、いかに変革の思想として精磨され、いかに主体的な思想として世界の形勢に対処し、いかに変動する時代を導くクライテリオンたりえたかを見ることである。
小楠の「三代之道」の理念は、民の生活の発展を実質とし、至公至平天に法りうる公共普遍の倫理的理念であった。この理念に基づいて彼は道義に裏付けられた富国強兵策を展開するとともに、「正俗共に一遍に落入互に相争」う閉鎖的精神である「二千歳之気習」からの脱却を熱烈に主張したのである。この「二千歳之気習」からの精神の転回を可能にするのは、「三代之道」という開かれた普遍的理念の存在である。彼の攻撃する「割拠見」は「小にしては一官一職の割拠見、大にしては国々の割拠見」として存在する。もしこの割拠見が払拭されることなく富国強兵が遂行されるならば、それは鎖国と本質的に異なることがない私営である。「所詮宇内に乗り出すには公共の天理を以て彼等が紛乱をも解くと申す丈の規模これ無く候ひては相成間敷」と小楠はいうのである。
一八六九年(明治二年)京都寺町の路上で、小楠が耶蘇教を弘めようとしているという理由で刺客の凶刃に倒れてからやがて百年になる。最後に、小楠が愛する二人の滞米中の甥に送った書簡から、己れの思想にかけた高い信念と使命感とを表明している部分を引いて、この小論を終えたい。
「ワシントンの外は徳義ある人物は一切これ無く、此以来もワシントン段の人物も決して生ずる道理これ無く、戦争之惨怛は弥以甚敷相成り申す可く候。我輩此道を信じ候は日本唐土之儒者之学とは雲泥の相違なれば今日日本にて我丈を尽し事業の行れざるは是天命也。唯此道を明にするは我大任なれば終生之力を此に尽すの外念願これ無く候。」[14]
[補記]
文久3年(1864)6月、米仏軍艦が下関を砲撃する。7月、薩英戦争が起きる。開国攘夷をめぐる厳しい情勢下に幕府の施策が本質的に問われていたその時期に、幕府中枢への助言が求められていた小楠にいわゆる「士道忘却事件」が出来する。小楠は熊本に呼び戻され、知行召し上げ、士籍剥奪の判決が下される。これ以後小楠は明治元年(1868)まで、熊本郊外の沼山津に蟄居することになる。小楠は明治維新にいたる激動の5年間を時局から外され、激動を傍観せざるをえない立場に置かれるのである。
明治元年(1868)4月に病身の小楠は召されて、新政府の参与となった。新政府の施策の思想的基準(クライテリオン)が小楠に求められたのであろう。彼は病身を押して出仕した。翌明治2年の新春1月5日、小楠は正装して太政官に出仕した。午後3時すぎに退朝した小楠の乗る駕籠が丸太町の角にさしかかったとき、刺客に襲われた。小楠は駕籠を背にして応戦したが、遂に凶刃に倒れた。刺客は小楠の首をもって逃げたが、追われるとその首を投げ捨てて逃げ去った。
凶徒は上田立夫、土屋延雄ら6名で、十津川の郷士や神官、志士くずれのものたちである。ただ彼らは実行者であって、これをコントロールするものは、その背後に、今構成されつつある新権力の周辺にいたのであろう。斬奸状には、「今般夷賊に同心し、天主教を海内に蔓延せしめんとす。邪教蔓延いたし候せつは、皇国は外夷の有と相成り候こと顕然なり」と記るされていたという。「耶蘇」とは日本にとっての思想的、宗教的な本質的異端派に貼られる名である。小楠の「三代之道」「天地公共の道理」の思想は「耶蘇」として糾弾されたのである。また裁判過程で小楠の書とされる『天道覚明論』という偽書がでっちあげられ、小楠を万世一系・天壌無窮を否定する不敬罪をもって告発することが、弾正台を中心になされた。この偽書は肥後の小楠の反対派である勤王党の手になるものだとされている。これは明治の夜明けに小楠を葬ったものはだれかを明らかにしている。明治3年10月10日、廟議は一決し、断固犯人の刑を執行した。小楠の遭難後一年十ヶ月を要してやっとこの事件は決着したのである。
明治はその夜明けに開国日本を導くはずの英知を、反動的神国主義者の手で葬ってしまったのである。それ以後、一国的割拠見による富国強兵の道を止める公正の論を日本は失ったのである。
[1]横井小楠『夷虜応接大意』『渡辺崋山・高野長英・佐久間象山・横井小楠・橋本左内』所収、日本思想大系55、岩波書店、1971。
[3]横井小楠「書簡」、山崎正董編『横井小楠遺稿』所収、日新書院、1942.
[4]「幕府を初各国に於て名臣良吏と称する人傑も、皆鎖国の套局を免れず、身を其君に致し力を其国に竭すを以て、忠愛の情多くは好生の徳を損し、却て民心の払戾を招く。国の治りがたき所以なり。日本全国の形勢斯くの如く区々分裂して統一の制あることなければ、癸丑の墨使彼理が日本紀行に無政事の国と看破せしは実に活眼洞視と云べし。」(小楠『国是三論』『横井小楠遺稿』所収)
[5]書簡、慶応三年六月、甥左平太、大平宛、『横井小楠遺稿』。
[8]元田永孚『還暦之記』、山崎正董著『横井小楠伝』(明治書院)より。
初出:「子安宣邦のブログ・思想史の仕事場からのメッセージ」2018.06.14より許可を得て転載
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〔study981:180617〕
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