足尾鉱毒事件と構造は同じ
- 2011年 4月 9日
- 評論・紹介・意見
- とら猫イーチ福島原発人災事故足尾鉱毒事件
唐突なようですが、私が、福島原発人災事故を観て思うことは、その昔に、田中正造翁が足尾銅山で観られたことと本質が同じであると言うことです。 企業名を古河鉱業から東京電力に替えるだけで、その他は同じ。 国家権力と癒着した企業による国民の命と財産への加害には、時代背景こそ違え何の変わりも無いのです。 (もっとも、そのスケールは比較出来ないほど大きくなりましたが。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E6%AD%A3%E9%80%A0
Wikipedia 田中正造
近年、国家のエネルギー政策を、化石燃料から原子力に切り替え原発を全国に建設するために巨費を投じたプロジェクトが進行しましたし、御用学者とマスゴミを動員した「クリーン・エネルギー」を売り込む国民の洗脳も進みました。 その点は、今日的に戦前の公害反対闘争に対する権力的弾圧とは相違した(洗練された)世論誘導策が選ばれたのです。
公害(環境問題と言い変えても良いのですが、地球温暖化等の「人為的」環境問題と区別するためには、公害の語を使うのが良いと思います。)を始めは法律問題として、その後は、今で言う環境経済学の観点から勉強をしていた私は、ある官庁での下水道建設事業や廃棄物行政に関連し、企業と行政と学会の癒着を目の当たりにすることになりました。
例えば、下水道建設では、その構造的矛盾を白日に晒された科学者は、殆ど中西準子先生お一人でした。 市町村単独で下水道を建設せずに、府県レベルでの巨大な流域下水道を建設することは、実質的には、ゼネコン奉仕でしたし、大規模な下水処理場では、工場排水を雨水や家庭排水による「希釈」効果だけが期待出来るだけで「下水処理」等は不可能なのは自明のことでした。
実は、別に中西先生のご指摘を待つまでも無く、当時から、その実態を私は承知しておりました。 何故なら、私が業務で最初に訪れた下水処理場で、技術者にある質問をした折に、彼が答えた言葉を聞いて、「それでは何の為に、こんな巨大な施設を建設したのだろう」と思ったことがあるのですが、その質問とは、「重金属や酸類はどう処理するのですか」でした。 技術者は、「処理は出来ません」と答えたのです。 処理場へ集めて汚泥になった「処理出来ない」が「処理したことにした」ものは、海岸にある埋め立て場に埋めるだけです。 下水道事業に従事している者は、有害物質が海に流れる事態が来るかどうかは知ったことではないのです。
進歩的とされている政党や労働組合も、下水道事業の在り方に批判的な意見を表明されることはありませんでした。 それらの政党や組合の構成員が下水道事業に従事しているのですから当たり前と言えば当たり前でしょう。 私は、若気の至りで批判したことがありますが、その結果、言論の自由等とは所詮自身に与えられたものでは無い、という冷厳な日本社会の現実を観てしまいました。 後悔はしていませんが、若かったのです。 因みに、批判してはならないものを批判した中西先生も、長い間助手に留め置かれました。
廃棄物事業でも同じ構図が存在します。 小は、市町村の微細な事業から、大は、地球温暖化対策の国家事業に至るまで、利権の構図とそれに群がる輩の群れまでが同じ顔をしています。 でも、今では少し違う様相も観察出来るようになりました。 原発事故に関しては、日本のマスゴミには期待は出来ませんが、例えば、米国から最新の情報を届けて下さる肥田美佐子氏や、孤軍奮闘される上杉隆氏のような少数の勇気のあるジャーナリストが存在しますし、何より外電が沈黙していません。 BBCもCNNも24時間視聴可能ですし、勇気と誠意のある科学者も発言されています。
肥田美佐子 ニューヨーク在住フリージャーナリスト
週刊 上杉隆 の一部
http://diamond.jp/articles/-/11786
日本が「海洋汚染テロ国家」になる日――放射能汚染水の海洋投棄に向けられる世界の厳しい視線
何より、姑息な隠蔽工作や責任逃れは、もう通用しない世の中になっているのです。 「日本人は、ストイック」等と煽てても効き目はありませんぞ。 政府と東電には、何が何でも落とし前をつけてもらいますぞ。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://www.chikyuza.net/
〔opinion0410:110409〕
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