1968年は何処へいった(4) ―闘争当事者の発言を読む―
- 2018年 7月 30日
- 評論・紹介・意見
- 1968半澤健市
前回までの1968年論は研究者の冷静な分析であった。同時代の当事者の発言を知りたい。それで『ピープルズ・プラン』誌の80号(2018年春号)の特集「再考 1968」から対談「『1968年』・『全共闘』反乱とは何か」を紹介する。
《『ピープルズ・プラン』誌の武藤・天野対談》
対談者は武藤一羊(むとう・いちよう、1931~)と天野恵一(あまの・やすかず、1948~)、若手研究者の松井隆志(まつい・たかし)が進行役である。
『ピープルズ・プラン』は、同名の研究所が発行する季刊誌である、大筋では、新左翼運動の流れを継いだ組織である。長時間の対談であり、話題は拡散するが、私なりに論点を次の三点にまとめてみた。
一つは、二人の運動体験と総括である。
二つは、新左翼運動によって提起された新しい論点である。
三つは、残された問題と将来展望である。
《ほぼ「全共闘体験」であるが》
第一 二人の新左翼運動体験。
武藤一羊は東大中退後、原水禁事務局などを経て参加した60年代の「ベ平連」では代表的運動家の一人だった。英字誌『AMPO』も創刊した。70年代以降も、「アジア太平洋資料センター(PARC)」、「ピープルズ・プラン研究所」に拠り発信を続け、2000年までの12年はニューヨーク州立大学ビンガムトン校社会学部教授を務めた。
武藤には、50年代の党活動体験と「六全協」問題が、葛藤と挫折の原因となった。だから1968年は解放だった。こう発言している。(■から■、「/」)は中略、以下同じ)
■吉川勇一なんかもそうだったと思うけど、共産党的な運動から解放された。平和運動でこうやりたいとか、やるべきだと思うことがあっても、やれない。そして変な説に賛成を強要されたり、運動破壊的な官僚主導に引っ張られる。そういうことから解放されて、やるべしと思うことを好きにやれる。/だから六八年というのは僕にとって個人的敗北の経験ではないんだよね。むしろ解放。■
天野にとって、1968年は初の学生闘争だった。天野の経歴に関する「ウィキペディア」系の情報は少ない反面、ネット上では彼を罵る批判が多い。全共闘の敗北以後の80年代、天野は「反天皇制運動連絡会」の運動に傾斜していく。その経緯は私にわかりにくい。しかし私は、本対談テキストの有用性を評価するので考察を続ける。
《共産党より「左」なんてものがあった》
天野によれば、学費問題や学内施設の管理権問題、特に私大で管理支配権が問題になる。それらをみて大学の主体は学生であることを痛感する。
■一部の急進的な、ほんの数人の占拠とかが、全学的に支持されて、大学を守れで保守化した代々木(共産党)が糾弾しても、孤立しない変な現象が起こるわけ。/一般ノンポリ学生がそっちの急進運動に加担するような気分があった。それがある種の時代的与件ですよ。大学の中の。共産党より「左」なんてものが存在していることなど、まったくしらなかった僕のような「ノンポリ」もその流れにまきこまれていく。■
武藤・天野の体験談では、新左翼運動に現れたそれまでの左翼運動にない要素が、興味深く語られる。多様な文化カテゴリー、小田実の個人原理主義、M・ウェーバーに拠った折原浩、宗教者として発言する田川健三、滝沢克己、高橋和巳、真継伸彦。他分野の平岡正明、松田政男、アングラ演劇の固有名詞か挙がっている。
《「お前ら終わりだよ」と言われて終わった》
天野の敗北論がある。話題は少しづつ方向転換する。天野はいう。
■僕らは徹底的に負けたという認識がある。権力でなく学生が大勢来て、「俺たちの生活のためにこのバリケードを解け」と強制されて解いた。自分たちが依拠した学生から浮いて「お前ら終わりだよ」と言われて終わった。東大全共闘だったヤツが、大学が正常化された後に、授業の最前列に並んでいる風景が「前共闘」と新聞記事になった。嘲笑されている。ベ平連は違う。時間のくぐり方がちがうと思った。
運動史の方法は「生の体験を語ることを特権化するのもバカだし、客観主義的に外部から俯瞰する図式も、体験当事者にしかわからないことも実際あるわけだから、不十分。それらをつなぐことが重要。/個人的な体験は全部切れないし/後の時間で外の視線を持つことでその生の体験を再考するということが、〈考える〉ことだと思ったわけです。その体験の記述の中で運動史が語られていくという連鎖が一番いいんではないかなと方法的に思っているところがある」。■
《権力の働く場を下におろしてくる》
武藤は天野の運動史論を否定はしない。しかし武藤の関心はもう少し広角な視点で見ようというものである。
■だけれど、68年が僕にとっては全共闘的な挫折経験だったわけじゃない。僕にとってもっとも重苦しかったのは「党」という問題だったと思う。/「党」一般というものについて考えを進めてみたいという気持ちはずっとある。できれば政治、宗教、権力の三者が交錯する領域の問題としてね。それとは別に「六八年」が僕の革命論にとって大きい転機だったことは紛れもないことで、とくに権力の働く場を下におろしてくる、日常の関係に下ろしてくるということについては発見と考えの転換があった。それは当然自分に跳ね返ってきた。■
《「科学技術・マルクス主義・抵抗の暴力」の批判》
第二 提起された新しい論点。
ザックリと三点ほどに絞りたい。
一つは、科学技術批判としての1968年。
二つは、近代主義としてのマルクス主義の破綻。
三つは、闘争における暴力の評価。
科学技術批判は、東日本大震災後の今日ではある種、常識となった。
しかし1973年の第一次オイルショックで東京タワーの電飾までが消えたあとに、原子力発電だけが経済成長の危機を救うという主張に反対するのは困難だった。それだからこそ、全共闘運動の「自然科学は体制の侍女」という認識と、それを理由に大学教育と科学行政へ異議を申し立てたのは立派である。それは科学技術の「パラダイムの転換」要求にまで進んでいった。さらには、進歩と発展を前提とする「近代」への懐疑に至る、対談者はこの認識において概ね一致している。反開発の根源に松下竜一や石牟礼道子らの「開発は破壊」だとする立場に「左翼は遅れをとった」という意見も共有する。
《自然科学・進歩と発展・近代は地続き》
ここからマルクス主義の破綻論には地続きである。マルクスの言語にエコロジーの意義を見る識者は当時も今も存在する。それは贔屓の引き倒しというものであろう。ここまでの文脈で天野は、山本義隆の言論界へ復帰に必然性を認めている。
さらに天野が執拗に発言するのは、政治的・攻撃的暴力の肯定―天野の表現では「ロマン化」―に対する強い自制の言葉である。天野は、「僕らは暴力主義者では決してなかったけれど、抵抗の暴力は不可避だろうと思ってたことはある/暴力についての認識が甘すぎた。全く甘すぎて全然だめだったということの反省が全体の軸になって、八〇年代(前述の反天皇運動など)があったと僕は思っているわけです」といっている。
自然科学論・マルクス主義理解・抵抗の暴力の可否。これらは1968年が初めて発見したものではない。しかし地球温暖化が現実である今、「進歩と発展」の理念が人間生存を破壊しつつある今、「積極的平和主義」をうたう憲法改悪論者が三たびこの国に君臨せんとする今、提起された「1968年」問題は再検討されるべきだと思う。静かに、継続して、強い精神をもってである。この国の存亡にかかるテーマである。
《口舌の徒による感想》
私の感想を三つ書く。
一つ 対談を含め特集号の文章には、セクト論議・人物評価・ノスタルジーの披露が多すぎる。すべて不要とは言わない。しかし仲間内の会話が多すぎるのである。
活動家諸氏の回顧談が続く記事、すなわち加藤康晴へのインタビュー、池田祥子・白川真澄対談、福富節男回顧座談のいずれもそうである。権力内部の分析と将来展望が、ほとんどない。「ほとんど」としたのは、武藤による「安倍政治をつぶす、その先に何を展望し、実現するか」という硬質な論文が唯一の救いになっているからである。
二つ 安倍政権の民主主義破壊に「ハラワタが煮えくりかえっている」仲間が沢山いる。そういう人々にどのように門戸を開放するのか。いや、自ら接近して共闘するのか。PP研の現有勢力では活動の限界があるのはわかる。しかし、この際に徹底した発想の転換が求められているように思う。
三つ 「お前の書き物も口舌の徒の一文」という批判があるだろう。それは甘受するが、言いたいのは、「口舌の徒」または「居酒屋談義屋」であっても、何とかせねばならぬという人々が、世の中に満ち溢れていることだ。
次の選挙では「自民・公明・維新には一票も入れぬ」投票をやろうではないか。吉永小百合に最高得票を与えようではないか。私は老兵だが消え去るわけにはゆかない。口舌の徒として後衛を務めるつもりである。(2018/07/26)
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