政府への信頼の喪失は新しい市民社会を生むか──周回遅れの読書報告(その67)
- 2018年 8月 5日
- 評論・紹介・意見
- 脇野町善造
ずっと昔、もう前世紀のことになるが、アキ・カウリスマキの『浮雲』という映画を観た。そのときのことを思い出した。失業するとはどういうことか、そしてそれを克服するにはどうしたらいいか、そんなことをこの映画を観ながら考えた。
失業についていえば、Strangeの “States and Markets”で読んだ ‘There’s only one thing worse than being exploited, and that’s not being exploited.’という文句がすぐに頭に浮かぶ。これは、Joan Robinsonのコトバだという。もう失業など「福祉国家」にあっては遠い過去のものだと思っていたが、もう一度このことを真剣に考えなければならない時代がきたのかもしれない。
失業が何故搾取されるよりも悪いことなのか。Joan Robinsonにあっては、失業していたのでは「暮らしていけない」という理由からかもしれないが、カウリスマキの映画を観ているとそれだけとは思えない。失業は、「自分は社会にとって不要な人間だ」というみじめさを失業者に与えることになる。人間は誰かに必要とされるが故に、類的存在として生きていく意味があるとしたら、失業はそうした基本的側面において人間を打ち砕くことになる。 類的存在としての人間性の喪失こそが失業の問題だということになる。このことについては、この映画を観る契機となった船橋洋一のコラムの興味深い指摘がある。船橋は、こういう。「何が、[失業の]解決方法なのか。/仲間との連帯だ。いや連帯する自力更正だ。それがヨーロッパの道だ、とカウリスマキは言っているようだ」。
そうなのかもしれないと思ったら、すぐに、講談社のPR雑誌『本』の中で、アフリカの住民達が国家なしで(「国家抜きで」というべきか)「自前の執行システムを地域ごとに形成していた」という紹介があったことを思い出した(『本』1997年8月号、松田素二「アフリカ社会のオモテとウラ」p.19)。失業を打開するのは「福祉国家」の政策によるしかないとばかり思っていたが、こうした「自前の執行システムの地域ごとの形成」という民衆レベルでの連帯によっても打開できるのかもしれない。Robert Coxは ”Approaches to the World Order”の中で次のようなことを言っている。
人びとは世界市場および国民経済のフォーマルな構造の中から脱落して行き、インフォーマルなセクターに自らの生存を探し求める。その結果、収入は減少し、安全や健康条件は悪化する。しかし、それは人々の相互協力と自律の新しい形態を生み出す契機になる。国家に対する信頼の喪失は、ある程度、市民社会の成長によって補填される。(拙訳)
ここでいう、インフォーマルなセクターとはまさに松田のいう「ウラの世界」である。これはまた民衆レベルでの連帯の世界でもあろう。置かれた状況は随分違うのであろうが、国家(政府)に対する信頼の喪失という点では、今の日本も同じであろう。それが、一向に「自前の執行システムの地域ごとの形成」、あるいは「新しい市民社会の成長」に結びついていない。国家に対する信頼が、私が考える以上に、まだ残っているのであろうか。私たちは、騙(だま)されても騙されても、なお政府を信頼し続ける人びと、いや信頼する以外にない市民の中で暮らしているということをまず自覚する必要がある。
松田素二が代表編集人の一人となった『アフリカ史』は、civil societyの新しい在り方に大きなヒントを与えるかもしれない。
宮田正興・松田素二編『新書アフリカ史』(講談社新書、1997)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔pinion7886:180805〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。