2018.ドイツ逗留日記(11)
- 2018年 8月 23日
- カルチャー
日本の冷蔵庫は、例えば長期不在の時に湿気る恐れのある、コーヒーやお茶などを入れておけば、乾燥した状態で保存できる。その代わり、野菜類を長いこと庫内に入れたままにしておけば、水分が抜けてパサパサになるから、気をつけなければならない。
今までこれは常識だとばかり思っていた。
ところが、ドイツの冷蔵庫は乾燥せずに逆に保湿される仕組みになっているようなのだ。
日本から巻寿司用に持ってきた海苔をポリ容器に入れて、ちゃんと蓋を占めて冷蔵庫保存していた。ところがそれが湿気ているのである。逆に外にそのまま出していた海苔の方がパリッと乾燥している。確かに、ドイツ人は野菜を全くくるまずにそのまま冷蔵庫に入れている。野菜が乾燥しないからであろう。それだけドイツの外気は乾燥していることになる。室内に干した洗濯物が、一晩で完全に乾くのもうなづける。
(日本でもドイツと同じ性能の冷蔵庫が作られていることを後で知った)。
このところドイツでもやっと涼しくなった。朝の散歩時などは、寒さで震えるぐらいである。但し、日中の日差しは依然として強烈で、日陰を通るようにしないと暑さに参ってしまう。この時期、長期のUrlaubをとって海や山に出掛ける人が多いのは当然だと思う。
われわれの友人のJさんも2週間の休みをとった。おそらくスイスからイタリア辺の山を縦走するのではないだろうか。
Lüneburgを散策する
ちきゅう座の常連寄稿者であるグローガー理恵さんのお宅に今年もお邪魔することになった。ここ5年ほど、彼女と夫君のヨアヒムさんのご厚意に甘えて泊まりがけでお訪ねしている。
今年も去年と同じ、リューネブルク(Lüneburg)駅で待ち合わせることにした。
リューネブルクまでは、ゲッティンゲンから各駅停車でおよそ3時間15分程度(途中駅のユルツェンUelzenで乗り換えがあり、30分位待たされる)かかる。この時期はUrlaubの人たちで車内は割に混んでいる。しかし、ICE(ドイツの新幹線)だともっと混んでいる可能性がある。
ICEを使えば確かに所要時間は、半分位になるだろう(しかし、頻繁に遅延している)が、料金は、二人で100ユーロは超えるだろう(各駅停車だと、「ニーダーザクセンチケット」という一日乗車券で27ユーロ)し、結構混むのである。DBもJRと同じで、なるべく新幹線を使わせて金儲けしたいという意図がありありで、遠距離の鈍行はだんだん少なくなり、乗り換えなどで煩わしくなっている。「民営化のツケは利用者に」という訳だ。
リューネブルクの駅もこの日は何故かごった返していた。ICとICEが遅れたことが直接の原因のようだ。また、観光客が大勢来ていることも混雑の要因であろう。
以前にも書いたことがあるが、リューネブルクはエリカ(Erika)の花が一面に咲くリューネブルク原野(Lüneburger Heide)で有名である。
しかし、ここはかつてのハンザ同盟(Hanse)の一員で、当時極めて貴重であった塩(岩塩)の採掘・搬出地として栄えた町である。
ヨアヒムの話だと、塩は小型船に積まれ、イルメナウ(Ilmenau)川からエルベ川(主流)に出て、リューベック(Lübeck)まで行くというルートだったそうだ。
また第二次大戦中、市は空爆されたが、そのダメージがあまりひどくなかったため、古い佇まいがほぼそのままの形で残されているという。
大型店ではなく、小さな商店が軒を連ねている。
昔ながらのドイツの町の風情がそっくり残っている味わい深い町である。それぞれの建物が実にすばらしく、それらがハンザ当時の商会議所を軸に広い通りの両側に並んでいたりする。
大通りから離れた小路や路地にもそれぞれ特徴があり、独自の様相を見せている。古い由緒ある建物が町のあちこちに点在しているのも魅力である。およそ600年以上も前に作られたという図書館(大人用と児童図書館)もあり、児童図書館は建物の中央部が陥没したままで、残っていた。
そして一歩街の外に出れば、ドイツの町の特徴であるこんもりと茂った森が町全体を取り囲んでいる。木々の中をどこまでも続く散歩道が美しい。
しかし、とりわけ気にいったのは、イルメナウ 川沿いの一角で、そこから塩を積み出したであろう場所である。「魚通りFischstraße」と名付けられたあたりで、古いクレーン小屋も残っている。
(運河はStecknitzkanalと呼ばれる運河で、1392年から1398年にわたりつくられ、(Elbe川沿いにあるLübeckとLauenburg間を結ぶ運河です。この運河ができたため、塩をLüneburgから水路を通って運搬できるようになったようです。それ(1398年)以前は陸路(Salzstraße)を通って塩が運搬されたようですが、日数がかかるばかりでなく、途中で強盗に遭ったりしたりで大変だったようです。塩は大変な貴重品でWeißes Gold (白い金)と呼ばれたぐらいだそうです。-理恵さんの補注)
ホテルに付属する喫茶店から見る対岸の眺めは、家並こそ違うものの、京都の鴨川や高瀬川沿いに並んでいる料亭とよく似た粋な雰囲気を醸している。イルメナウ 川との対照がよい。
町全体の印象は、歴史にどっぷりと身を沈めた、そぞろ歩きのよく似合う町というものだった。
イルメナウ 川沿いの景色 古いクレーン小屋
約600年前の図書館(現児童図書館)
ドイツ第二の都市Hamburgの魅力
この日はレストランでご馳走になり、大好物のドイツビールに酔っぱらいながら、理恵さん達の素敵な家の広い部屋に泊めてもらった。
翌朝、再びヨアヒムの運転で、自慢の電気自動車に乗ってハンブルクまで行った。車は振動が少なく快適である。
実は私自身は、ハンブルクはあまり好きではなく、どちらかといえばベルリン党なのだ。ベルリンにも勿論いろんな場所があって、一概に全てよしなどとは思っていない。しかし、ベルリンの方が緑豊かな分だけまだ落ち着きを感じる。
ハンブルクの街は、いつ来てもガサツない感じで、まるで東京の新宿や渋谷、池袋を歩いているように思える。町全体がいつも工事現場のようで、どこもかしこもパイプと衝立で囲まれている。歩いていても落ち着かない。人も車も気ぜわしく動き回っているのも東京に似ている。
今回も街中では、駐車場を探すのにヨアヒムが随分苦労していた。どこの小路も路地も車がびっしり駐車されていた。
やっと空いている場所を捜し出して駐車し、最初に有名なハンブルクの市庁舎(Rathaus)の見学に出掛けた。入場券を買えば、ドイツ人のガイド付きでこの豪華な市庁舎の中が見学できる。外観も素晴らしい(まるで王宮と見紛うばかりに立派である)が、内部の市議会会議場などもすごいものだ。天井は高く、周囲の壁には装飾が施され、あるいは壁画が描かれている。
ハンブルクは今次大戦で、爆撃を受け、町の大半は焼失したはずであるが、おそらくこの市庁舎は全焼を免れたのであろう。100年以上も前の建築物だとガイド嬢が言っていた。
また、小会議室の中に、溶けた金属の破片が黒く固まったオブジェがあったのは、少なくとも空爆の被害にあっていることを物語っている。
(このオブジェは市庁舎にあった銀の装飾品のひとつで、1842年5月5日に発生したハンブルク大火で燃え残ったものです。-理恵さんの補注)
但し、私の語学力では途切れ途切れに聞き取れる単語があるという程度で、一緒に説明を受けながら歩いたドイツ人たちが笑いざわめくのをよそに、なんとなく白けていた。
Bürger(市民)とかHanse(ハンザ同盟)という言葉が、何度か出て来ていたのは、興味深い。何せここは、かつてのハンザ同盟の一大中心都市である。ハンブルク出身の友人の話では、同盟の盟主こそリューベックがそのまま継承したが、町の規模からいっても、圧倒的にハンブルクの方が大きく、実質的な中心はこちらへ移っていたと見るべきであるようだ。
それにしても、権力者がその権力を誇示したがるのは、いつの時代になっても変わらないものだろうか。封建制が崩壊し、王侯貴族に代わってブルジョアジーが政権を獲った時代にあっても、こんな時代がかった荘厳華麗な舞台装置を用意するなんて、…。
こんな華麗な装飾が施された宮殿か、美術館の中でないと議論が出来ないのだろうか、むしろ逆効果で、まあまあの馴れ合い議会を演出するためにわざとこんな装置を考案ではないのか、そう疑いたくもなる。
最後に案内された大広間の大壁画が、今回の見学で一番興味を惹いた。左側から右側にかけて、この町の発展の歴史が描かれていた。最初は貧しい農漁村、村人たちが手仕事をして暮らしている。だんだん、兵士や僧侶の支配する社会へと変貌し、またハンザの貿易港へと、そして市民層の活動の舞台へと変遷した後、今日のハンブルクの巨大な港となって終わっていた。
昼食をご馳走になったのは、ハンブルクでも有数に古いという食堂だった。印象では、海員食堂。造作もそうだが、ウエイトレスの態度もすごくさばさばしている。海の男たちを仕切るのに慣れている感じだ。
ニシンの酢漬け(der marinierte Hering)を頂いた。大きなニシンが二匹、それにたっぷりのポメス(ジャガイモのから揚げ)。めったにこんなことはないのだが、この日、昼間から飲むビールがめっぽう美味しかった。柔らかく漬けこんだニシンを頭からしっぽまできれいに平らげたら、ヨアヒムに日本的だね、とからかわれた。
実は彼はベルリン生まれのハンブルク育ちなのだ。それでも、ハンブルクの雑踏ぶりには少々疲れたという。
次に向かったのは、ハンブルクの港(Hafen)。どこの港でも一種独特の雰囲気があるが、ハンブルクの港のそれは特別だ。横浜も世界的に有名な港町で、元町や山下公園など、人々を惹きつける場所が多いが、それとは比較にならぬくらいのムードが漂っている。
船の接岸地にはまるでフェストか何かのように大勢の人たちが歩いている。特にイタリアから来た帆船(ヨアヒムの説明では、海軍艦船のデザインを基に練習船としてつくられた)の前にはすごい行列ができ、次々に船の中へと消えていく。
白い制服の若い海員(海軍の軍人)が数人、直立して人波を整理していた。
ハンブルク港は、エルベ川に面していて、そこから海洋へと向かうそうである。上からエルベ川を見ようという、ヨアヒムの粋な計らいで、車を海岸縁からその上の高級住宅街の方へ走らせた。
海岸縁に何軒もの居酒屋が並んでいる。おそらく海の男たちが利用するのであろう。なんだか映画のワンシーンのような雰囲気に言いようもなく魅せられてしまった。こんなところに住んだら、海に溺れる前に、ここで溺れ死ぬのではないだろうか。
山の手の高級住宅街は、聞きしに勝る壮大なもので、行けども行けども、広い庭を持った大きなお屋敷が続いている。現在の貴族の館である。しかし彼らは、昔から自分たちの住居の環境だけは、しっかり整えて、他からの侵入は許さないというはっきりした縄張り意識を持っているものと思われる。
結局、山の手からエルベを望むことはできなかったのだが、十分周囲を堪能した。
この後、ヨアヒムには大変申し訳なかったのだが、一日中運転してくたびれ果てたところを、更にハノーファーまで2時間半かけて車で送ってもらった。
ただ有り難いの一言だ。心から感謝している。
理恵さんから聞いたドイツの社会状況が、あまりにも日本の今の状況と似ているのに驚かされた。どこの国の状況も(少なくとも先進国と呼ばれている国々では)近似的になってきているのだろうか。国際間の条件、それ故、国内の諸環境が益々近似・限定されてきているということなのか。
(以下の写真は、すべてハンブルクの港。巨大なエルフ・フィルハーモニーホール=音楽会場は1000億円近くかけて作ったもので、巨大な無駄使いと批判されている。)
ハンブルクの港 イタリアの帆船
巨大な音楽会場を望む ハンブルクの港
(2018.8.21記)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔culture0679:180823〕
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