73年の意味番外篇 敗戦直後のクスリ屋事情(5)
- 2018年 8月 27日
- カルチャー
- 内野光子
ポマードとコールドクリームの時代から
それでも、世の中は、少しずつ変わりつつあったのか、庶民の暮らしにもいささかのゆとりができたのか、男性は身だしなみ、女性はおしゃれにも気が回るようになった。くすり屋では、女性化粧品や男性の整髪料などが売れ筋になったのである。
例のテカテカに塗り付けて、独特の匂いを放っていたポマード、その商品名が、今でも口をついて出てくるから不思議である。メヌマ(井田京栄堂)、ケンシ(ケンシ精香)、柳屋(柳屋本店)、エーワン(エーワン本舗)などなど・・・、製造元は、さすがにネットで調べたのだが、店のカウンターのガラスケースに並べていたような気がする。それにチックもポマードのメーカーが作っていたと思うが、思い出すのは「丹頂チック」(金鶴香水⇒1959 年丹頂KK⇒1971年マンダム)、細長い筒状だから、ケースの中でよく倒れてしまっていた。ポマードもチックも戦前から製造されていたものだが、ワセリンを主原料とした鉱物性と植物性があるなどといった説明を聞くともなく聞いていた。男性整髪料は、やがてヘアリキッドの時代に移行していくのである。そういえば、敗戦直後、歌手の岡晴夫が、当時売れっ子ながら、今でいうサイドビジネスでポマード工場を持っていたことも聞いていたが、その商品名が分からない。薬剤師になりたての長兄が、彼の「東京の花売り娘」(佐々詩生作詞 上原げんと作曲1946年)、「憧れのハワイ航路」(石田美由起作詞 江口夜詩作曲1948年)、「啼くな小鳩よ」(高橋掬太郎作詞 飯田三郎作曲1947年)など、裸電球の下で、拳をマイクに見立てて唄っていた姿を思い出す。当時の私と言えば、銭湯「平和湯」横に来る紙芝居と夕方のラジオ放送劇「鐘の鳴る丘」(1947年7月5日~1950年12月29日、当初は土日だけだったが、のち月~金放送)に釘付けになった時代である。巌金四郎の語りとパイプオルガンの音楽は重々しかったが、「とんがり帽子」(菊田一夫作詞 古関裕而作曲)は、いまでも一番は歌える。
話はややそれるが、数十年ほど前、池袋の生家を解体、建て直すとき、物置からこんなものも拾っていた。もうぼろぼろの崩壊寸前なので、スキャンするのも気が気ではなかったが、当時の雰囲気が伝えられればと思う。
崩壊寸前の「全音歌謡傑作集」(全音楽譜出版社 1948年11月 61頁 45円)「懐かしのメロデイ」として「別れのブルース」「影を慕いて」などもふくめて48曲収録。どういうわけか。「ブンガワンソロ」と「東京ブギウギ」の間に「とんがり帽子」が紛れた込んでいた。上段の表紙絵、岩田専太郎の挿絵をもっと俗っぽくしたような、こんな絵が、人気があったのだろうか
『全音流行歌集』(全音楽譜出版社 1950年5月 64頁 40円)表紙は高峰秀子。見開きで一曲、必ず上記のように挿絵が付く。30曲収録。挿絵の作者名はどこにもないが、上の「傑作集」の表紙絵とも共通する雰囲気がただよう
そして女性の化粧品はといえば、脈絡なく、浮かんでくる商品名、化粧水では、ヘチマコロン(近源商店⇒ヘチマコロン社)明色アストリンゼン(桃谷順天館)、クリームでは、明色クリンシンクリーム、クラブ(美身)クリーム(中山太陽堂⇒1971年クラブコスメチック)、ウテナバニシングクリーム(ウテナ)、マダムジュジュ(寿化学⇒1961年ジュジュ化粧品⇒2013年小林製薬)、キスミー(伊勢半⇒1965年キスミーコスメチックス⇒2005年伊勢半)の口紅などで、寿化学を除いては、いずれも歴史の古い化粧品メーカ―で、いわば大衆的な化粧品だったかもしれない。口紅は、「変色」といって、塗る前はオレンジ色なのに塗ると紅色に変色し、色落ちしにくいという実用性もあって、売れ筋だった。なお、子ども心の印象では、資生堂やパピリオは、どこかこだわりのある、やや高級品めいた雰囲気があった。コールドクリームと呼ばれるものがあったが、「栄養」が強調されたイメージで、やがて、脂分の少ないバニシングクリームが好まれたようだった。50年代になると、女性化粧品はますます多様化し、細分化していった。
父たちの店も改築を機会に、資生堂の特約店となって、少し様子が変わった。私が高校生のころだったか、贅沢なホネケーキという洗顔石鹸や四角い壜の真っ赤な化粧水オイデルミンなどが珍しかった。しかし特約店というかチェーン店になると、注文にはノルマが課せられ、高額な商品がセットで届けられ、返品なしであった。容器のフタがゴールドとシルバーで価格が異なり、差別化していたようだ。また、お客さんを花椿会の会員に入会させ、買い上げ額によって景品も異なった。売り上げが多いと、会社から美容部員がやってきて、一日近く張り付いて、宣伝・販売・実演などをしていた。わが店の成績は良くないので、たまにやってきた美容部員が暇そうにしていたのを覚えている。兄の奥さんは、子育てに忙しいこともあって、大学生の頃、資生堂の美容研修講座に参加したことも何度かあった。新商品の使い方、基礎的化粧品の説明、果ては、化粧のフルコースを実演で見せられ、実技まで課せられる。ふだんは、化粧をしない私だが、講習を受けた日は、バリバリのファンデーションの上にさまざまな商品をフルに使った厚化粧で帰宅したものだった。それでも、化粧っけなしで、資生堂コーナーでは、受け売りの商品説明をしたのだった。
卒業後の職場では、労働組合の婦人部員として、「ちふれ」の出張販売の手伝いをさせられたこともある。私が使う化粧品といえば、店のケースから失敬する化粧水、乳液、クリームくらいなものだったのだが。
初出:「内野光子のブログ」2018.08.26より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
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