「戦争責任言われつらい」(昭和天皇)→「すごい言葉だ」(半藤一利)→ちっともすごくない、当たり前すぎる
- 2018年 8月 28日
- 評論・紹介・意見
- 醍醐聡
2018年8月27日
「戦争責任言われてつらい」?
8月23日の『毎日新聞』朝刊の1面に「戦争責任言われてつらい」侍従記録 晩年の昭和天皇吐露」という見出しの記事が掲載され、28面には「昭和天皇の苦悩 克明に」という見出しで故小林忍侍従日記の要旨(1975年4月28日~1990年11月22日)が摘記された。
この中の1987年4月7日の日記には、次のような昭和天皇の言葉が記されている。昭和天皇が死去する1年9カ月前のことである。
「仕事を楽にして細く長く生きても仕方がない。辛いことをみたりきいたりすることが多くなる。近親者の不幸にあい、戦争責任のことをいわれる。」
また、これより7年近く前の1980年5月27日の日記にはこんなことが記されている。
「華国鋒首相の引見にあたり、陛下は日中戦争は遺憾で遭った旨おっしゃりたいが、長官、式部官長は反対の意向とか。右翼が反対しているから、やめた方がよいというのでは余りになさけない。かまわず御発言なさったらいい。大変よいことではないか。」
この28面の記事には、「すごい言葉だ」という見出しで作家の半藤一利さんのコメントが載っている。最初の6行を引用しておく。
「昭和天皇の『細く長く生きても仕方がない。〈中略〉戦争責任のことをいわれる』というのは、すごい言葉だ。昭和天皇の心の中には、最後まで戦争責任があったのだとうかがわせる。」
「戦争責任のことをいわれてつらい」という発言は昭和天皇の虚飾のない心境とは思うが、それがどうして「すごい言葉」なのか? 当たり前すぎる言葉である。
心境の詮索ではなく史実の検証を
昭和天皇の戦争責任、さらには戦後責任に関する事実と自覚のほどを問題にするなら、次のような過去のオフィンシャルな言動をなぜ取り上げないのか?
近衛文麿の戦争終結の進言を拒み、戦禍を拡大させた責任
1945年2月14日、首相近衛文麿は内大臣木戸幸一とともに天皇と面会し、戦争の続行/集結について上奏した。その中で近衛は「敗戦は遺憾ながら最早必至なり」と始め、この「前提の下に論ずれば、勝利の見込みなき戦争を之以上継続するは、全く共産党の手に乗るものと存候。随つて国体護持の立場寄りすれば、一日も速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信候」と進言した。
しかし、天皇は、もう一度、戦果を挙げてからでないと近衛の進言通りには進まないと思うと返し、戦争終結に応じなかった。(この時の天皇と近衛のやり取りについては、黒田勝弘・畑 好秀編『昭和天皇語録』、2004年、講談社学術文庫、170~171ページに記載されている。)
その結果、わが国にとっては「戦果」どころかおびただしい民間人に犠牲を強いる「戦禍」が一気に広がった。
天皇が近衛の戦争終結論を斥けた2日後の1945年2月16日には米空母機動部隊艦載機による本土初空襲が起こり、3月10日には一夜にして死者8万~10万人となった東京大空襲に見舞われた。その後、空襲は都内各地、名古屋、大阪、神戸、横浜、九州各地、立川、川崎などへ広がった。
「本土」だけではない。天皇が近衛の戦争終結論を斥けてから40日後に始まった沖縄戦は1945年6月23日まで続き、20万人と言われる死者を生む結果となった。
沖縄の軍事占領を米国に要望した天皇メッセージ
昭和天皇は1947年9月22日、宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国最高司令官政治顧問に宛てて、米国による今後の沖縄の軍事占領に関するメモを送った。のちに「天皇メッセージ」と呼ばれた文書である。沖縄県公文書館が所蔵するその写しを貼り付けておく。
http://www.archives.pref.okinawa.jp/uscar_document/5392
メッセージ原文(PDF画像)
http://www.archives.pref.okinawa.jp/wp-content/uploads/Emperors-message.pdf
メモの要点は、米国による琉球諸島の軍事占領の継続~25年から50年あるいはそれ以上の借款による~を望む、ということである。寺崎を介して伝えられた天皇の意向によると、米軍による沖縄の占領統治を天皇が望んだ理由は、ロジアのみならず、国内の極右ならびに極左勢力の台頭に終止符を打つためだった。いうなれば、両極、実質は反共の砦の捨て石として沖縄の自治と平和をアメリカに売り渡したということだ。
戦前・戦中の戦争遂行・終結の判断は法的には政府、軍当局の権限に基づくものであり、昭和天皇に問責する法的根拠はないという議論がある。
しかし、上で示した2つの史実は昭和天皇が戦争遂行、沖縄処分の判断に直接かつ決定的な影響を及ぼしたことを意味している。
さらに、付け加えると、昭和天皇は敗戦が濃厚となっていた1944(昭和19)年12月に招集された帝国議会の開院式において、「今ヤ戦局愈々危急真ニ億兆一心全力ヲ傾倒シテ敵ヲ撃墔スヘキノ秋ナリ」と戦争続行に向けた檄を飛ばす勅語を告示した(黒田勝弘・畑 好秀編『昭和天皇語録』、2004年、講談社学術文庫、168~169ページ)。
沖縄を捨て石にした昭和天皇の3つの責任~『琉球新報』の社説~
『琉球新報』は「昭和天皇実録 二つの責任を明記すべきだ」と題した2014年9月10日の社説で次のように述べている。
https://ryukyushimpo.jp/editorial/prentry-231371.html
「昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3回、切り捨てられている。最初は沖縄戦だ。近衛文麿元首相が『国体護持』の立場から1945年2月、早期和平を天皇に進言した。天皇は「今一度戦果を挙げなければ実現は困難」との見方を示した。その結果、沖縄戦は避けられなくなり、日本防衛の『捨て石』にされた。だが、実録から沖縄を見捨てたという認識があったのかどうか分からない。
二つ目は45年7月、天皇の特使として近衛をソ連に送ろうとした和平工作だ。作成された『和平交渉の要綱』は、日本の領土について『沖縄、小笠原島、樺太を捨て、千島は南半分を保有する程度とする』として、沖縄放棄の方針が示された。なぜ沖縄を日本から『捨てる』選択をしたのか。この点も実録は明確にしていない。
三つ目が沖縄の軍事占領を希望した『天皇メッセージ』だ。天皇は47年9月、米側にメッセージを送り『25年から50年、あるいはそれ以上』沖縄を米国に貸し出す方針を示した。実録は米側報告書を引用するが、天皇が実際に話したのかどうか明確ではない。『天皇メッセージ』から67年。天皇の意向通り沖縄に在日米軍専用施設の74%が集中して『軍事植民地』状態が続く。『象徴天皇』でありながら、なぜ沖縄の命運を左右する外交に深く関与したのか。実録にその経緯が明らかにされていない。
私たちが知りたいのは少なくとも三つの局面で発せられた昭和天皇の肉声だ。天皇の発言をぼかし、沖縄訪問を希望していたことを繰り返し記述して『贖罪(しょくざい)意識』を印象付けようとしているように映る。沖縄に関する限り、昭和天皇には『戦争責任』と『戦後責任』がある。この点をあいまいにすれば、歴史の検証に耐えられない。」
いずれも史実に裏付けられた正論である。これでも昭和天皇に戦争責任を問う根拠はないなどという議論は、それこそ「歴史の検証に耐えられない。」
さらに、天皇の名において侵略した日本軍により、民間人を含む多数の犠牲者を出したアジア諸国民に対する天皇の戦争責任の苛烈さを思えば、来日した華国鋒首相との面会にあたり、天皇が「日中戦争は遺憾で遭った」と伝えたいと心中を語っていたことを指して「アジアの国にも配慮を見せている」(『毎日新聞』2018年8月23日)と持ち上げるのは被侵略国の人々からすれば噴飯ものの「お気持ち」忖度論である。
曲学阿皇
かくも昭和天皇の心中を忖度し、天皇の戦争責任に踏み込むのを躊躇う言動が幅を利かせる背景には、日本のメディアや通称「有識者」の間に、天皇の戦争責任に踏み込むのを畏怖する「天皇不敬」意識が今なお、根強く浸透していることを意味している。
そして、天皇にこれほど一目を置く「穏健な」人物が常連のようにマスコミや論壇で発言の場を得るのは、「曲学阿皇」の体質が日本の言論界を今なお、蝕んでいることを物語っている。
初出:醍醐聡のブログから許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion7946:180828〕
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