オウム死刑から考える
- 2018年 9月 2日
- 交流の広場
- 村山起久子〈亀岡市〉
オウム真理教元教団幹部6人の死刑を執行したとのニュースを聞いて、いいようのない気持ちの悪さを感じました。前回の死刑と合わせ、わずか1か月もたたない間に13人もの命が国によって奪われました。
今の日本で、最終的に死刑を承認するのは法務大臣。前回の死刑の前日、法務大臣や安倍総理は宴席で満面の笑顔を見せていました。人の命を奪うという謙虚さはみじんもないこの政権に、言い知れぬ冷酷さ、おぞましさを感じます。
また、不謹慎と言われるかもしれませんが、2年前の相模原障碍者施設殺傷事件を思い出します。死刑は「価値の無い人は殺してもよい」という植松容疑者の「命の選別」思想につながる気がするのです。
命の大切さと言う時、その価値に違いはあるのか。
殺されてもいい人とは、どんな人で、それを決めるのは誰か?
今回のように多数を同時に死刑にした理由として、検察のストーリーに合わせて証言し、オウム信者をより重罪へと導いていた井上嘉浩被告が、「死刑を免れるためでなく、事実が違うことを明らかにしたい」と、態度を変えようとしていたため口封じ?・・と、ネットニュースLITERAにありました。
いずれにしても、複数の被告は再審請求中で、オウム事件の真相は明らかになっていません。なのに抹殺してしまうのは、事件の真相を知りたくないから?
凶悪事件が起きる度、「死刑を望む」という世論が多数を占めるけれど、私が被害者だったら、犯人には事件と向き合い続け、悔いて、悔いて、苦しみながら反省してほしい。そして、二度と同じような事件が起きないよう、徹底的に動機やその背景を解明し、社会の在り方も変えるきっかけにしてほしい。
(今回死刑になったオウムの元信者の遺した手紙や手記には、罪を悔い、何故こんなことになってしまったかとの反省や問いかけが多く、こうした手記を書き続けることこそ、事件を考える上で重要で)被告が生きて、果たすべき使命の一つだと思います。
と、ここまで書いてきて思いました。死刑は、被告だけの責任にして、社会は変わろうとしないのではないか。もちろん、罪を犯した人は許されない。でも、社会は何も悪くないと、皆が無関心を決めたら、社会は何も良くならない。社会が変わり得る可能性も奪い、国家の力を見せつけるのが死刑というものではないか、と。
いとも簡単に死刑を執行する政権は、逆らう者の命も、簡単に握りつぶすようになるのではないか。
モノを言えない社会が近づいている。いや、モノを言う人だけでなく、役に立たないと思える人も切り捨てられ・・。我がこととして考えないと、「いつか来た道」は、すぐそこかもしれません。
『くらしを見つめる会つーしん』199号より
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