明治維新の近代・5 国家論の不在ー大熊信行『国家悪』を読む
- 2018年 9月 15日
- スタディルーム
- 子安宣邦
「日本人は国家観をかえなければならない。単に国体観などというものを放棄するだけでは十分ではない。これまで摂取しておった西洋近代のあらゆる国家思想を、すべて疑問の対象として再検討するだけでなく、だれもまだ踏み入ったことのない思想領域へ、そして同時に精神領域へ、歩み入らなければならない。」
大熊信行『国家悪』
1 「国家悪」ということ
「われわれは実に戦争をとおして、国家なるものを体験した」[1]と大熊信行はいっている。大熊がここでいう戦争とは太平洋戦争である。彼は続けて、「これはしたたかな体験だった。おそらく戦争と国家とは別々のものではあるまい。戦争とは国家のわざであり、国家とはまさに戦争をわざとするものだ。われわれは、国家がその力という力をかたむけつくすのは戦争においてであることを知った」というのである。大熊の著書『国家悪』の第二章「戦争体験における国家」に載るこの文章は、終戦の翌1946年に書かれたものである。この時期、日本の総力戦的戦争を非難し、弾劾し、その責任を問う多くの文章が書かれたが、大熊の戦争責任論を特色づけるのは、その追及の矛先が「国家」そのものにまで及んでいることにある。「戦争こそは国家の本来の業であること、したがって、戦争のなかにこそ国家の本質が残りなく露出してくるものであることを、知った。われわれは実に戦争をとおして、国家なるものを体験した」というように、大熊がこの戦争を通して体験したというのは、昭和国家でもなく、日本国家でもなく、「国家というもの」の本質である。
だから大熊の『国家悪』とは、戦争という殺戮的暴力を国家そのものの本質に由来する悪として原理主義的に追及しようとする国家論であるのだ。私はこれを気がかりな書として早くから書棚に置きながら、ついぞ手に取って見ることをしなかった。だがこの夏、「国体」論の再構成を計りながら「国家論」を読んでみたいと思った。ところが私の書棚にわずかに見出しうるのはヘーゲルの国家論以外には大熊の『国家悪』と佐伯啓思の『国家についての考察』(飛鳥新社、2001)だけであった。『国家論』の貧しさは私の書棚にかぎられるわけではない。ネットを見ても、書店にいっても大して変わりはない。私は『国家悪』を読み始めた。これを読むことで初めて大熊の原理主義的な国家論の意味を理解した。
2 「戦争責任」と「国家悪」
「戦争をとうして国家を体験した」という大熊は、自らの戦争(国家)体験を内側に突き詰めることによって「国家悪」に正面することをいう。長いが『国家悪』の核心的な言葉を引いておこう。
「「戦争責任」の問題も、突きつめていけば国家対個人の問題になる。どこまでも自己の責任を問いつめていって、最後に行きあたるのが愛国心の本質である。その本質のなかに、個人における国家問題が横たわっている。国家悪を自己の外へ追いやるのではない。それを自己の内部に掘りおこすのだ。この責任問題は、国家が個人を超えて実在するのではなくて、逆に個人が超えた実在である、という問題なのである。責任感に徹するということは、国家の責任を自分が引っかぶるなどというような、そんな古めかしいことではない。実は人間としての自己に徹するというだけのことなのだ。それがそのようなものとしてかえりみられず、ただの政治問題として押し流されていったところに、戦後の思想界の失調がはじまる。」[2]
大熊は自己の内部に「愛国心」とか「祖国愛」として存在した「国家」を追いつめる形で己れにおける「戦争責任」を問うべきことをいっている。戦争する国家と一体化し、あるいはその国家を内部化した自己の解体的な追及によってはじめて戦争する国家の悪の本質は明らかにされるだろう。それがあるべき戦争責任の追及のあり方だと大熊はいうのである。戦争する国家を内部化した自己を解体的に追及する自己を彼は「人間としての自己」というのである。それは天皇の御民としての自己でもなく、祖国の一員としての自己でもない。この大熊による「戦争責任」論の原理主義的な徹底によってはじめて、戦後の戦争責任論が「ただの政治問題」にしかすぎなかったことがいわれるのである。大熊が『国家悪』でしている戦後日本の論壇を賑わした多様な「国家批判」「戦争責任」論についての文章は、その批判の徹底さにおいて七〇年後の今でも読むに価する。この徹底をもたらしたのは大熊がその論究の前提をなす二つの命法である。
「われわれは自分のなかに人間悪を断たなければならない。それを断つことによって国家悪を断たなければならない。それが可能であるかどうかはよくわからない。しかし、それを断たなければならないという命法のあることを、われわれは知りそめつつある。
われわれは国家に対する恐怖を断たなければならない。それを断つことによって国家の存在を超えなければならない。それが可能であるかどうかはよくわからない。しかし国家を超えなければならないという命法のあることを、われわれは知りそめつつある。」
私が原理主義的な国家論というのは、このような命法を前提にした国家論をいうのである。『国家悪』とは日本人の初めてで、そして最後の「国家論」であるかもしれない。1945年の敗戦とは日本人にこのような命法による国家を想定させたのである。
3 「高村光太郎論ノート」
大熊は戦争をそれぞれに体験し、経過してきた知識人たちによる「戦争責任」をめぐる多くの戦後の論説を精読し、その「失調」を鋭く指摘してきた。
「失調」とは大熊の使う言葉だが、恐らく彼はこの語によって戦後の戦争責任論が陥っている過失をいったのであろう。それは前に引いた、「「戦争責任」の問題も、突きつめていけば国家対個人の問題になる。どこまでも自己の責任を問いつめていって、最後に行きあたるのが愛国心の本質である」という大熊の言のように、戦争責任を何よりも先ず自己の根底に問う言説の調子、方向性を失っているからである。ぞれが失ったものは「愛国心の本質」である。なぜこの「国家」は愛するものとしてあるのか、生命をも犠牲にしうるものとしてなぜあるのか、という問いへの方向性である。戦後の「戦争責任」論はその意味で「失調」したのである。
戦後の戦争責任論の失調からくる大熊の絶望を救ったのは戦後世代の吉本隆明による「高村光太郎論」[3]であった。大熊はそこに戦後世代による「戦争責任論の再燃」を見たのである。大熊はいっている。「戦争責任論の再燃は、正直のところ、わたしにとって予期しない出来事であった。わたしはすでに、日本人に絶望していたというべきだが、にもかかわらず戦争責任の問題を、著作としてまとめようという意志は、放棄しなかった。問題の再燃が、わたしに人生への新しい希望をあたえたのは事実である。人間は結局、虚偽には堪えられないということ、歴史の偽造は永く続かないということが、証明されたように思ったのだ。」[4]
しかし吉本の「高村光太郎論」に大熊が「戦争責任論の再燃」とその問題の深化への希望を見出したことの誤りであったことが、この文章に続いていわれているのである。「しかし、戦争責任論の再燃が、全体として大きくわたしに印象づけたものは、残念ながらただ一つであった。それは依然として問題意識そのものが、だれにも掴まれていないということである。」この言葉を補うものとして大熊は、上の論に先立ってこういっているのである。「この問題意識の底が浅い。諸氏にとっては天皇制が最大の問題であって、国家の問題であったことは一度もなく、十年後の今日においても、事態は変化していない」と。大熊は荒正人ら『近代文学』派の諸氏にとって問題は常に「天皇制」であって、「国家」にまで問題が深められていない、そのあり方は十年後の「戦争責任論の再燃」する今日においても変わりはないといっているのである。これは私のこれからの議論の方向にかかわる重要な問題である。この問題意識をもちながら吉本の「高村光太郎論」を見ていこう。私はここで吉本の高村論の要約を試みたが、すでに大熊が「高村光太郎ノート」によってしている要約にとても及ばないことをしった。以下は大熊による要約である。
「高村光太郎の詩集『道程』は、自我確立の歓喜と誇りを表現しているが、
実生活のうえでそれを実行したのは、智恵子夫人との遭遇であった。しかし夫人は狂気から死にいたり、中日戦争期において、高村の主体的自我は崩壊する。かれの自我の崩壊を論ずることは、すなわち日本的自我の運命を論じることになる。高村が、世界の動乱期において、日本国家の動向に抵抗せず、これに屈していった経過は、中日戦争直前の「堅氷いたる」では、ドイツ・ファシズムの文化破壊に対して、痛烈な批判が見られたのに、「秋風辞」[5]では、はやくもかれの主体性は、南に急ぐわが同胞の隊伍を謳い、庶民の熱狂のなかに、崩れ去る。二つの詩篇の発表の時間的距離は、九ヶ月にすぎず、この短い期間に、戦争肯定のモラルとロジックが用意されたことになる。「堅氷いたる」[6]の後半に、すでに超越的な倫理感がその兆しをみせている。
堅氷いたる。堅氷いたる。
むしろ氷河時代よこの世を襲へ
どういふほんとの人間の種が
どうしてそこに生き残るか大地は見よう。
「堅氷」は、高村の好きな言葉の一つで、その愛読書『維摩経』の思想を要約するために、使ったこともあるもの、氷河時代がもう一度きて、いかものを絶滅してしまえ、といった超越的な倫理感を現実把握の機能が低下したときに、かれをおとずれる思想的「故郷」であった。それはかれの擬アジア的な思考をかたちづくるもので、その底にあるのは、支配権力にならあれた庶民意識である。高村の自我が、日本の庶民意識に屈したということは、日本における近代的自我の最もすぐれた典型がくずれたということであり、おなじ内部のメカニズムによって、日本における人道主義も、共産主義も、崩壊していく。
では、なぜ日本では、人間がその内部世界を維持することに、異常な困難があるのか。それについては、高村の崩壊過程に、一つの暗示がある。それは近代日本における自我は、内部に両面性をもたざるをえないということである。両面性とはなにか。日本的自我は、一面では、近代意識(人間としての主体性と自律性、ならびに頽廃と爛熟性)をもつか、しかしそれと同時に、他面では、日本特有の生活意識をもつ。この生活意識というのは、自己省察と内的検討のおよばない空白の部分であって、これを残しておかなければ、日本の社会では、社会生活をいとなむことができないのだ。」
吉本は高村光太郎における戦争詩の成立を、高村の内部世界の崩壊、近代的主体の倒壊として分析し、記述する。吉本は近代知識人の内部世界の解体を分析的に記述することをもって、日本の天皇制的国家社会の内部的構成を明らかにしていくのである。吉本の高村光太郎論が、世の戦争責任論とは異なる思想的意味をもち、吉本自身においても後の天皇制論を導く序論としての意味をもったのもそれゆえだろう。吉本が戦乱期における近代的な自我の辿る宿命としてえがくところを見てみよう。
「戦争期に、近代的自我も、人道主義も、共産主義も、もろにくずれていったのは、なぜであろうか。高村の崩壊の過程には、ひとつの暗示があるとおもう。それは、近代日本における自我は、内部にかならず両面性をもたざるをえない、ということである。それは一面では近代意識の積極面である主体性、自律性をうけつぐとともに、近代のタイハイ面、ランジュク性をよぎなくうけつがざるをえない。他面、かならず、自己省察の内部検討のおよばない空白の部分を、生活意識としてのこしておかなければ、日本の社会では、社会生活をいとなむことができないのだ。おそらくこの両面性は日本近代社会の矛盾した両面性にアナロジカルである。これから動乱期の現実のはげしい力は、この内部の両面性にくさびをうちこむとともに、社会が要請してくる倫理性は、近代のタイハイ面を否定するようにはたらき、同時に、生活意識としてのこされた内部の空白の部分を、日本的な庶民の生活倫理から侵されざるをえなくなる。いわば、内部が、思想的な側面と、生活意識の側面から挟撃されるというのが、動乱期の日本的自我につきまとう宿命に外ならなかった。戦争期に、日本的な近代意識のタイハイ面の批判者としてあらわれたのは、日本的ファシズム、民族主義であり、実生活意識から批判者としてあらわれたのは、日本の庶民そのものである。」[7]
昭和14年から太平洋戦争の敗色が濃くなる時期にわたって高村は「谷中の家」「母のこと」「子供の頃」などの回想録を発表していった。この一連の回想群はあきらかに高村の生活意識上の転換を象徴している。吉本は高村のこの回想をめぐって、「この回想群はいわば父の家、父の権威、そこに象徴される半封建的な庶民意識へ、“祖先がえり”的に屈服し、親和していった高村の、戦争期の内部世界のうごきを、直接的に象徴するものである」[8]といっている。
4 戦後世代の盲点
高村ら日本の近代知識人の国家への屈服を、吉本は近代的自我内面の空白部を占めながら国家危機にあたって増殖する生活意識・庶民意識への親和的な屈服と理解した。吉本はこれを「祖先がえり」ともいった。昭和の戦争期における知識人たちによる国家への転向あるいは迎合を吉本は、近代的自我意識における「祖先がえり」といった伝統への屈服劇として明らかにしていったのである。それが吉本ら戦後世代[9]の鋭利な分析力をもってした再度の「戦争責任論」である。だが大熊信行は吉本の鋭利なこの分析にむしろ戦後世代の盲点を見るのである。
「高村の精神構造を研究するために必要な一つの視角は、明治人の背骨をなした国家観である。それは封建的道徳によって一部を支えられていたとしても、同時にまた近代国家における国家主権そのものの、個人における内面化であり、簡単にいえば、それは国民的忠誠の理念と感情によって包まれたものであった。ところが戦後世代の吉本氏には、国家的忠誠という視角が欠如しており、「国家の危急」に際会した高村の豹変は、まったく理解を超絶した一事となる。戦後世代そのものの精神構造の、骨の髄からの新しさでもあると同時に、根柢からの虚しさでもある。くり返していうが、このような世代の精神構造の盲点が、わたしにとって最大の興味である。」[10]
あるいは大熊はこうもいう。
「吉本氏が「生活意識」という用語を、「近代意識」と対置し、それを「空白の部分」とも呼んでいることは、さきに見た。その空白の部分を「生活意識」として残しておかなければ、日本では社会生活をいとなむことができない、という見方だった、しかし、その「空白」と見たものの底には、実は何かたいへんなものが横たわっていたものであり、そこに横たわっていたものこそが、大日本帝国ではなかったのか。この視点が、吉本氏に必要であると思う。」
吉本の戦争責任論には「国家」はない。その追及の極みに「大日本帝国」を見出さない。吉本は高村の「祖先がえり」をいい、「庶民意識・生活意識」への屈服をいうが、しかし高村における「国家」を問うことはない。大熊はこれを「戦後世代の意識の盲点」というのである。さらに彼らの論説の「根柢からの虚しさ」をもいうのである。これをわれわれはどのように考えたらよいのか。
吉本は高村の近代的自我の「庶民意識・生活意識」への屈服をいい、この屈服を吉本は「祖先がえり」だといった。それが高村における天皇制国家への回帰であった。「庶民意識・生活意識」とは日本社会の連続性をその基盤において保証する共同体的意識である。これに「祖先がえり」的に同一化することは、この「生活意識・庶民意識」を連続的な地盤とする「天皇制国家・日本」に回帰することである。こう考えれば吉本の「戦争責任論」はその追及の極みに「国家」を見失ったわけではない、「天皇制的国家・日本」は常に問われるものとしてあり続けているといえるかもしれない。だがそこで問われる国家とは端的に世界大戦を遂行した「20世紀国家・日本」ではない。むしろ「20世紀国家・日本」として自己実現させていった「天皇制的国家・日本」である。いや「天皇制的国家・日本」というよりは、高村をはじめ日本人たちが「祖先がえり」したのは「天皇制的共同体・日本」であったであろう。大熊はこれを戦争責任論における「国家」の欠落としていうのである。吉本らの戦争責任論は「国家」を、すなわち戦争(=国家的暴力)という人類的悪の出処としての「国家」を問うているのではないのである。
5 構造論から制作論へ
私は「明治国家の創出」という問題を考えながら「国家論」関係書を探し求めた。同じような探索の試みを過去に何度かしたことがある。だがいずれの場合も失敗している。「天皇制国家論」はあっても「国家論」は基本的にない。今回も同じであった。わずかにみつけたのは佐伯啓思の『国家についての考察』(飛鳥新社、2001)と吉本の編になる『国家の思想』(戦後日本思想大系5・筑摩書房、1969)だけであった。前者は国家意識の希薄化を憂える著者による国家意識の再生を求める評論であって、近代国民国家の存立そのものにかかわる国家論ではない。後者の吉本編『国家の思想』は今さら探し求めるものではない。よくよく探せば私の書棚の片隅に見つけることのできる本である。八月の猛暑の日に国家論書を探し求めて神保町を歩きながら、目的物を見出すことなく手ぶらで帰るのも癪だから、仕方なく買って帰った代物である。この書が意味あることを知ったのは、この文章を書き始めてからである。
吉本編『国家の思想』の初めから終わりまで天皇制国家論である。それはⅠ法的国家論、Ⅱ政治的国家論、Ⅲ思想的国家論、Ⅳ文化的国家論の四章をもつが、それらはすべて天皇制国家の法制論であり、政治論であり、思想論であり、文化論である。なぜこれが「現代日本思想大系」の第5巻『国家の思想』の内容をなすのか。そこには戦前・戦後的国家論もなければ、資本主義的国家論も、社会主義的国家論もない。国民国家の帰趨も説かれなければ、世界国家の理念もない。もちろん平和国家論も、文化国家論もない。ただあるのは天皇制国家論だけである。天皇制国家の国民の精神・美意識にも及ぶ全体主義的支配が批判者の言説体系にそのまま投影されているかのようだ。
吉本はこの『国家の思想』の「解説」で彼らが戦争期に「天皇制から、神話から、伝統の美学なるものからあざむかれ、敗戦によって一挙にほうりだされた体験をもった」ことをいい、このあざむかれかたの根拠をなすものがないわけではないとしてこういっている。
「その根拠のひとつは、〈天皇(制)〉が共同祭儀の世襲、共同祭儀の司祭としての権威をつうじて間接的に政治的国家を統制することを本質的な方法とし、けっして直接的に政治的国家の統制にのりださなかったことの意味を巧くとらえることのできなかったことである。」
「またべつの根拠は、〈天皇(制)〉の発生以前の政治的な統治形態が歴史的に実在した時期があったことをみぬけなかったことである。わが列島の歴史時代は数千年をさかのぼることができるのに、〈天皇(制)〉の歴史は千数百年をさかのぼることはできない。この数千年の空白の時代を掘りおこすことのなかに〈天皇(制)〉の宗教的支配の歴史を相対化すべきカギはかくされているといっていい。」
吉本の分かりにくいこの言葉は、彼の晩年に編集された論集『〈信〉の構造Part3ー吉本隆明全天皇制・宗教論集成』[11]にそのまま収録されている。それからすればこの天皇制国家観は吉本の終生のものであったといってよい。彼は上の言葉をうけてこういうのである。「もしも、わたしたちが、わが列島における〈国家〉の発生と、〈天皇(制)〉支配の歴史のあいだにある数千年の空白を、理論的に埋める方法をもっていたとすれば、戦争期に〈お国のために〉を直かに〈天皇(制)のために〉に収斂するようなことはなかったかもしれない。」これは吉本における〈天皇制〉とは何かを教える言葉である。「〈天皇(制)〉支配の歴史のあいだにある数千年の空白を、理論的に埋める」といった途方もない仮定をもってしか、千数百年のわが天皇制支配を相対化することはできないといっているのである。それは天皇家が絶滅しないかぎりその支配は持続するというのと同じことである。天皇制はわが祭政一致的政治体系に、宮廷的文化体系に、貴族的美意識に構造的に内面化されている。この天皇制的支配はあの途方もない仮定をもってしか相対化されないというのである。ここまでくれば、すなわちあの途方もない仮定をもってしか相対化されない天皇制そのものもまた吉本の仮想の構成物だということになる。われわれの精神の内面にまで及ぶ天皇制的全体主義的支配は青年期の吉本が体験した昭和10年代の日本以外のどこにあったというのだろう。吉本の天皇制の構造主義的[12]な理解は明治の天皇制的国体論が明治の制作になるでことを理解しないし、昭和の天皇制的全体主義国家が昭和の制作であることをも理解しない。制作論的国家の視点をもたないものは、1945年が新国家の制作の時であるとはしない。大熊の吉本の戦争責任論への落胆の理由はそこにある。
[1] 大熊信行『国家悪ー人類に未来はあるか』潮出版社、1969。初版『国家悪ー戦争責任はだれのものか』は1957年に中央公論社から刊行された。
[3]吉本隆明「高村光太郎論ノート」『現代詩』1955年5月号。
[5]「秋風辞」は昭和12年9月作である。原文が引くのは「」内である。
秋風辞
秋風起兮白雲飛 草木黄落兮雁南帰 ー漢武帝ー
秋風起って白雲は飛ぶが、
今年南に急ぐのはわが同胞の隊伍である。
南に待つのは戦火である。
街上百般の生活は凡て一つにあざなはれ、
涙はむしろ胸を洗ひ
「昨日思索の亡羊を歎いた者、
日日欠食の悩みに蒼ざめた者、
巷に浮浪の夢を余儀なくした者、
今はただ澎湃たる熱気の列と化した。」
草木黄ばみ落ちる時
世の隅隅に吹きこむ夜風に変りはないが、
今年この国を訪れる秋は
祖先も嘗て見たことのない厖大な秋だ。
遠くかなた雁門関の古生層がはじけ飛ぶ。
むかし雁門関は西に向つて閉じた。
けふ雁門関は東に向つて砕ける。
太原を超えて汾河渉るべし黄河望むべし。
乾の方百四十度を越えて凛烈の寒波は来る。
書は焚くべし、儒生の口は箝すべし。
つんぼのやうな万民の頭の上に
左まんじの旗は瞬刻にひるがへる。
世界を二つに引裂くもの、
アラゴンの平野カタロニヤの丘に満ち、
いま朔風は山西の辺疆にまき起る。
自然の数学は厳として進みやまない。
[7]吉本隆明『高村光太郎』(講談社文芸文庫)。同文庫の「戦争期」の章は「高村光太郎ノート」によるものとみなされる。引用文中の傍点は子安。
[8]この言葉は文庫版『高村光太郎』では、「この回想群はいわば父の家、父の権威、そこに象徴される江戸職人的な庶民意識へ、「先祖がえり」的に屈服し、親和していった高村の戦争期の内部世界のうごきを直接的に象徴するものであった」となっている。
[9]ここで吉本を「戦後世代」とするのは、大熊のとらえ方による。1924年生まれの吉本は、1893(明治26)年生まれの大熊からすれば戦後世代に区分されるのだろうが、われわれ1930年代生まれのものからすれば吉本は、鶴見俊輔(1922−2015)や橋川文三(1922−1983)らとともに戦中派という時代的特色をもった世代人である。
[11]『〈信〉の構造Part3ー吉本隆明全天皇制・宗教論集成』春秋社、1989.
[12]山口昌男や上野千鶴子ら文化人類学的構造主義者の天皇制理解を批判する吉本の天皇制理解の構造主義をいうと人は怪訝に思うかも知れない。しかし吉本の山口らに対する批判にもならない言いがかりから見れば、彼の天皇制理解はもう一つ
の構造主義であることがわかる。それは柳田国男・折口信夫による一国民俗学的な構造主義である。
初出:子安宣邦の「思想史の仕事場からのメッセージ」2018.9.12より許可を得て転載
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〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔study992:180915〕
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