「葡萄畑に帰ろう」を見る
- 2018年 10月 5日
- カルチャー
- 宇波彰
去る2018年9月27日に、私は試写で、エルダル・シェンゲラヤ監督のジョージア映画「葡萄畑に帰ろう」を見た。シェンゲラヤは、私と同じ1933年生まれのジョージア映画界の長老であるが、むしろ「若さ」を実感させる作品である。いたるところに奇想天外な発想があり、CGを使って現実を超えて行くが、内容はジョージアの現実から離れることがなく、政治的なものもたっぷり含まれている。ひとことでいえば徹底的にジョージア的な映画である。あるいはむしろこの映画がジョージア的なものを創り出している。
この映画の舞台は現代のジョージアの首都トビリシで、「難民追い出し省」の大臣が主人公である。彼は亡妻の姉、幼い息子、使用人夫婦と豪邸で暮らしている。娘もいるが、ほかのところにいる。彼は「難民追い出し大臣」であるから、首相の命令で難民を追い出そうするが、「追い出し」の現場で難民女性のひとりに惚れ込んでしまい、彼女と結婚する。一方、娘もアフリカ系の男性と結婚する。つまり、この映画では、「非」ジョージア的なものが入り込んでいる。
映画のなかとはいえ、「難民追い出し省」が存在するのは、ジョージアでも移民・難民の問題が「対岸の火事」ではなくなりつつあるということであろう。しかし、ジョージアがもともと単一民族、単一宗教の国家でないことは、いままで日本で公開されたジョージア映画のいくつかを想起すると、多少はわかる。たとえば、「祈り」では、キリスト教徒とムスリムの対立関係が明白に示されていた。「とうもろこしの島」では、敵対する兵士たちが登場するが、少なくとも三つの民族の兵士であるらしい。「みかんの丘」では、みかん園を経営する男たちは、ふたりともジョージア人ではなく、エストニア人である。なぜエストニア人がジョージアにいたのかは、別の問題であるが、要するにジョージアはさまざまな民族・宗教が混在し、対立したり、共存してきた国である。したがって、「葡萄畑に帰ろう」はそのようなジョージアの歴史的・伝統的なものを十分に踏まえ、それを現代の問題として捉え直して作られた映画である。
この映画を見た直後に、私は若い友人の好意によって、毎号目を通しているイギリスの週刊科学雑誌「Nature」の9月8日号に掲載された「ネアンデルタール人の母と、デニソワ人の父のあいだで生まれた子のゲノム」(The genome of the offspring of a Neanderthal mother and a Denisovan father) を読んだ。10年ほど前にシベリアのデニソワ洞窟から出土した2センチほどの指の骨片のゲノムを調べたその論文(「Letter」として分類されているから、いわゆる「投稿論文」である)によると、「この骨片はネアンデルタ-ル人の母親と、デニソワ人の父親を持つ個体のもの」であり、またそれは「今から9万~5万年前に死亡した13歳以上の女性の骨片」である。さらにこのデニソワ人の父の祖先にはネアンデルタール人がいた。つまりネアンデルタール人とデニソワ人という「異種」の人間が、早くからmixしていたのである。(私が読む「ネイチャー」は、日本で印刷されたものであり、巻頭に日本語の要約があって有り難いが、そこでは「mix」は「交配」と訳されている。「混血」、「交雑」と訳すひともいる。)つまり、映画「葡萄畑に帰ろう」と、週刊科学雑誌「Nature」の記事がつながっているというのが、私のいいたいことである。
ついでに書いておくと、ロザリンド・クラウスの『視覚的無意識』(Rosalind Krauss,The optical unconscious,The MIT Press,1993)によると、マックス・エルンストは、「Nature」の挿絵を引用して作品を作っている。たとえば、エルンストの1923年の作品「At the First Clear World」は、1881年の「Nature」の挿絵を引用したものである。
(2018年10月2日)
初出:「宇波彰現代哲学研究所」2018.10.2より許可を得て転載
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〔culture0708:181005〕
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