憲法の砦としての司法に対する信頼を損ねているのは、いったい誰なのだ
- 2018年 10月 20日
- 評論・紹介・意見
- 司法制度弁護士澤藤統一郎
一昨日(10月17日)、最高裁大法廷(裁判長・大谷直人最高裁長官)は東京高裁岡口基一裁判官に対する分限裁判で、同裁判官を戒告した。そのツイッター投稿が裁判所法49条にいう「(裁判官の)品位を辱める行状」に当たるとしたのだ。この決定全文は、下記のURLで読むことができる。
http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/055/088055_hanrei.pdf
これは看過し難い。何が問題なのか。司法行政が個々の裁判官を過剰に統制していることである。あるべき司法の独立とは、司法府が、立法府や行政府の圧力から独立しているだけでは足りない。司法の独立の神髄は裁判官の独立にある。個々の裁判官は司法府の上層部から、とりわけ司法行政から独立していなければならない。
司法行政は、裁判官の人事権を掌握している。個々の裁判官が、昇進・昇格・昇給・任地・再任等々への影響を懸念することなく、裁判官としての職業的良心にしたがった判断をなし得るよう保障されていなければならない。岡口懲戒は、この要請に反して、個々の裁判官の独立に水を差すものとなった。むしろ、最高裁は裁判官の萎縮という効果を意図してこの決定をしたものと考えざるをえない。
憲法76条3項は、「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される」と規定する。司法行政からの独立が保障されているのだ。独立とは、統制からの自由ということだ。
しかし、司法行政当局は個々の裁判官を統制したいのだ。個々の裁判官の自由よりは司法府全体の秩序を望ましいとする。裁判官の統制を通じて、判決内容も、自ずから統制されることにならざるを得ない。その統制の方向は、国民の自由よりは国家や社会の秩序重視に傾いた判決である。
問題とされた岡口裁判官の判決批判は、市民的自由の範囲の言論に過ぎない。けっして、非礼でも、奇矯でもない。もちろん、没論理でも非理性的なものでもない。司法行政からの独立を保障されている裁判官として、矩を越えたものとは考えられない。また、そのように考えてはならないものというべきであろう。
司法行政当局は、敢えて岡口裁判官の市民的自由の行使を懲戒することで、裁判官統制の手段に利用した。岡口裁判官ではなく、裁判官全体に、「余計な発言をするな」と恫喝し、その萎縮効果を狙ったのだ。
個々の裁判官の独立のメルクマールは、裁判官の市民的自由保障の有無・程度にある。司法行政当局は裁判の市民的自由行使を嫌うが、裁判所とは、秩序維持の名のもとに自由や人権を侵害された国民がその救済を求める場である。その裁判所で、裁判官の自由や人権の保障が十分でなければ、それこそ裁判所は、国民の信頼を失うことになる。
さすがに最高裁と言えども、裁判官の市民的自由を否定することはできない。戒告の決定の論理構造も、「憲法上の表現の自由の保障は裁判官にも及び,裁判官も一市民としてその自由を有することは当然である」ことを原則とはしいる。しかしながら、「被申立人(岡口)の行為は,表現の自由として裁判官に許容される限度を逸脱したものといわざるを得ない」としている。
では、「一般市民とは異なる裁判官に許容される限度」たる一線はどこにあるのか、それを意識的に示して裁判官の発言の自由を保障しようというものになっていないところが歯がゆい。そして、誰もが関心を示していた、司法行政が個々の裁判官の独立の気概を損ねることになってしまいはせぬかという危惧に対する配慮は見えてこない。
大法廷決定はこう言う。
裁判所法49条…にいう「品位を辱める行状」とは,職務上の行為であると,純然たる私的行為であるとを問わず,およそ裁判官に対する国民の信頼を損ね,又は裁判の公正を疑わせるような言動をいうものと解するのが相当である。
キーワードは、「裁判官に対する国民の信頼」と「裁判の公正」であるごとくである。しかし、「裁判官に対する国民の信頼」も「裁判の公正」も、裁判批判を封じた権威主義から生まれるものではあり得ない。「他の裁判官の結論にはものを言うな」とは、さすがに大法廷も言えない。だからこう言っている。「その内容を十分に検討した形跡を示さず,表面的な情報のみを掲げて,…一方的な評価を不特定多数の閲覧者に公然と伝えた」から非難に値するというのだ。
大法廷決定が、裁判所法49条を解釈するに際して、憲法76条3項を斟酌した形跡はない。最高裁大法廷は、裁判官が統制に服し秩序を保って社会的発言を控え、確定判決の批判もしないことが、「裁判官に対する国民の信頼」と「裁判の公正」に資するものと考えた。しかし、常にものには二面がある。「裁判官に対する国民の信頼」も「裁判の公正」も、実は裁判官の独立あってのものではないか。果たして市民は、最高裁の顔色を窺うヒラメ裁判官ばかりの裁判所を、憲法の砦、人権擁護の府として信頼するであろうか。
残念だったのは、大法廷決定が、裁判官14人全員一致の意見だったこと。本来、これはあり得ない。寺西分限裁判では5人の反対意見が救いだったが、今回はその救いがない。最高裁大法廷は、全員一致で、国民の司法府に対する信頼を損なう決定をしたとも言えるのだ。
(2018年10月19日)
初出:「澤藤統一郎の憲法日記」2018.10.19より許可を得て転載
http://article9.jp/wordpress/?p=11308
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〔opinion8095:181020〕
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