ドイツ通信第133号 ブラジルの選挙と極右ファシスト――スポーツの祭典の後に(2)
- 2018年 10月 24日
- 評論・紹介・意見
- T・K生
1992年のリオ滞在時には、時間があればリオの中心部にあるゲーテ協会に顔を出し、そこで働いているエミアに会いに行っていました。イパネマからバスで45~60分ほどかかりますが、小銭だけをポケットに入れて、バス内外での犯罪に備えて「その時」を覚悟した、ちょっとした一人旅になりました。ある日、「今日は、大きなデモがあるから、外には絶対に出ないように」と注意してくれました。デモならなおさらのこと見てみたかったですが、きつい口ぶりに彼女の忠告を受け入れるしかありませんでした。
翌日の新聞を見れば、デモ隊と警察官の衝突で市内の混乱した様子が報じられていました。時は、33年間に及んだ独裁政権が1985年に倒され、その後、経済の自由化が進むなかでの労働者の闘争であったと、私は理解しています。 1992年前後はそれを受けて、インフレが100%、200%に跳ね上がっていた時期です。スーパーの値段表が毎日変わり、ドルからブラジル通貨への両替に行っても、銀行に手持ちの紙幣がありませんから、銀行の輸送車が紙幣をかき集めてくるまで1時間、2時間と待たなければなりません。その間、ブラジル・コーヒーを差し出されて、それが特別おいしいものですから、それで気持ちを慰めていました。そして、結局それ以外に何もできないで一日が過ぎていくという状態です。 その後、2003年労働者党政権の成立と、世界の経済大国6位まで上りつめたブラジル経済の急速な成長を遠巻きに眺めていました。 転換点は、2012年の石油価格低落を契機にした経済危機ではなかったかと思われます。この前後の政治的な変遷と今回の選挙結果への過程が、「Le Mond diplamatique Dezember 2017」(注1)に詳しく整理されていますから、それを参考に以下に整理してみます。 (注1) Le Mond diplomatique Dezenber 2017に掲載されている Waffen für anstündige Bürger von Anne Vignaの小論文から まず目についたのが、2013年6月の大きなデモでした。1985年独裁制倒壊以来の大きなデモだといわれていました。デモ隊からは投石、放火、バリケードで対抗し、警備側からは放水、催涙弾が撃ち込まれ、市内が騒然としたデモの中軸を担ったのは学生、青年層です。交通、健康医療、そして教育分野への公共投資を要求したデモですから、一方で経済成長を果たしながら、他方で無視されている社会インフラの整備と充実を要求することは、その意味では当然の要求のように思われます。ましてや、サッカーのワールドカップとオリンピックを控え、ブラジルの国家プロジェクトが進んでいましたから、市民生活が置き去りにされることへの覚醒をデモによって訴えることは当然の権利です。 こうした政治対立はどの政党が政権についても同じことですから、労働者党政権の下でも民主主義と抵抗(運動)が機能していることに強い印象を受け、ブラジルで何が社会問題になっているのかが明らかにされたように、私は考えていました。 しかしデモは、6月20日にはそれだけに終始しません。政府機関、労働者党(PT)の関連施設にも向けられていきます。労働者党政府の打倒に闘争は向けられ政治化していきます。その契機を与えたのが、〈汚職〉でした。 政府は既に長らく〈汚職〉にまみれていました。この間の世界の反政府闘争を見れば、「アラブの春」、ユーロ危機等にしてもすべては汚職絡みでないものはありません。 この時見落とされていたのが、実は、ファシスト派が、その運動によって一大合流と結集をなし遂げていることです。ネオ・リベラル派、極右派―人種主義者とアイデンティ派、ナショナリストが、保守派も含めて、こうして反労働者党(PT)、反政府派の極右ファシズム戦線ができ上りました。個人的にはまったく見落としていた点です。それによって、ブラジルの全体像が見られなくなっていました。 いってみればこうした青年運動のファシスト性格を象徴的に証明する一例として、主導者(Kim Kataguiri)の2015年4月12日の発言を以下に引用しておきます。 PT(労働者党)に流血させるだけでは十分ではなく、銃弾を頭に打ち込まなけらばならない、と公然と言い放っています。そして、この同一趣旨の発言は、今回の選挙で勝利した極右ファシスト候補者(Jair Bolsanora)からも聞かれます。彼は、ラテン・アメリカのトランプといわれ、彼を真似て、ヒットラーを模範にする真正のファシストです。 独裁制の唯一の誤りは、確かに拷問はおこなったが、十分には虐殺しなかったことだ(注2)。 と、普通の市民感覚では考えられないような内容を語り、しかもそれに、市民に受け入れられているというところに、問題を見極める必要があるでしょう。 (注2)「FR」紙2018年6/7付 さて、このファシスト青年運動ですが、ネオ・リベラリズムの流れをくむ「自由フォーラム」に属する青年組織です。 「自由フォーラム」のコンセプトは、 ・フレクシブルな労働市場 ・年金制度の改正 ・労働法の緩和 ・奴隷労働禁止法の緩和 で、年金制度改正では、大部分の市民が年金を受けられなくなるといわれ、奴隷労働では、歴史的な経験から禁止された法律を緩和させることによって、富裕・高所得層の家庭で家事労働、子供の世話をすヘルパーさんたちの労働条件と権利を剥奪することを目的としています。 「自由フォーラム」はそれ故に「トロピカルなTee Party」と呼ばれていました。そこに学生・青年層を結集させることに成功しました。 経済リベラリズムを掲げる世界に組織された自由学生同盟のブラジル組織で2010年からブラジルの大学に足場を持ってきました。その3年後に、彼らは、「自由の運動」(MBL)を設立し、反労働者党政権、反PTの戦線を組んでいきます。 彼らの政治目的は、〈反共産主義〉の一点に尽きます。社会問題を掲げながら、終局的には反共産主義で結集していることです。それは彼らのスローガンに見てとれます。
1917年に始まった共産主義は死んだ 表現の特異性から私の訳が間違っていないことを願うのみです。 2016年4月17日こうして当時の大統領ディラム・ロースセフ(Dilma Rousseff)が退陣に追い込まれ、その後任者のミシェル・テンマ―(Michel Temer)は、「自由フォーラム」のコンセプトを引き継ぎました。こうして13年間続いた労働者党政権に終止符が打たれ、それはまた、ブラジル民主主義の終焉を準備することになります。 街頭闘争に参加した学生・青年層は白人系、都市部出身、特権階級層からだといわれ、その大多数、90%が、反PT、反労働者党政権を政治目的にしていたといわれます。 「自由フォーラム」の目的が、反共産主義であることが、どこまで意識化されて、彼らとの対抗軸が立てられてきたのか、という疑問がここから出てきます。 ネオ・リベラル派は長い時間をかけてそれを準備してきました。そのとき、共産主義はわれわれに関係ない、われわれはそれとは別な運動であると思い込んだ時の危険性が、ここには指摘されているでしょう。 「何を地方の小グループがほざいているのか」と嘲笑したくもなるでしょう。しかし、極右派ナショナリストには、市民の社会、民主主義、抵抗運動はすべて「共産主義(者)」なのです。それが事実か、単なるキャンペーンかは、ここでは問題にされません。 〈憎悪〉をつくり上げることが必要なだけです、そのためには、デマもでっち上げもなんでも利用されます。その憎悪が、こうして「共産主義(者)」に向けられました。冷戦時代に逆戻りしたかのような政治対立です。 大統領ディラム・ロースセフを退陣させなければ、ブラジルは今では、共産主義になっていた。 これはブラジル経営者研究所機関主任(Rodrigo Tellecher Silva)の言葉です。 次回は、ネオ・リベラリズムが極右ファシスト勢力とともに政治権力を掌握していく過程を書いてみます。 (つづく)
|
初出:「原発通信1538号」2018.10.10より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔opinion8107:181024〕
「ちきゅう座」に掲載された記事を転載される場合は、「ちきゅう座」からの転載であること、および著者名を必ず明記して下さい。