テント日誌11月6日…文科省前の抗議行動は広がり
- 2018年 11月 9日
- 交流の広場
経産省前テントひろば1807日後
文科省前の抗議行動は広がりを見せ始めている 11月2日(金)
第二テントで活躍され、大間原発反対関東の会で中心として 活動のされていたTさんがお亡くなりになっていたことが本日分かった。Oさんが2時ごろ、私たちが座り込んでいる場所にやって来て、報告してくれた。それによると、先月28日(日)に亡くなられ、本日告別式があったそうだ。今後偲ぶ会をやるという事までは教えていただいた。
Tさんは闘病生活をしつつ反原発の闘いを進めてきた。私達の先頭に立って闘い続け、いつも笑顔が絶えない女性だった。私が行っていた郡山連帯行動に誘ったことがあったが、春になったら行きたいけれど、今はね、と言っていたのが思い出される。
3時前にはYuさんがキノコご飯を作って持ってきてくださった。毎週味わう秋の味覚であるが、みんなで美味しくいただいた。
4時になったので、文科省前の「朝鮮学校にも無償化適用せよ」の抗議行動に参加した。今日の行動では、韓国から40名にもなる参加者を始め、ロシア、カナダ他数か国の外国からの参加者があった。韓国では民族教育を弾圧する日本政府に対して同じ民族として朝鮮学校を支援する動きが広がっているそうだ。南北の違いを超えた運動の広がりである。韓国からは農民組合の方々、教職員組合の方々が参加とのこと、毎年2回で今回で11回目になるそうだ。今回も、文科省や経産省の役人を呼んでのヒヤリングを先だって済ませての参加だそうだ。
9月30日の控訴審判決で不当な判決をくだされたが,勝つまで闘うと意気高かった。諦めずに頑張る。(S・S)
行政不服審査法を勝手に悪用するな! 11月2日(金)
本館前に到着して座込んだとたんに悲報。テントのリーフレット編集を担当した女性Tさんが亡くなった。長らく闘病生活されていて皆が心配していた。
Tさんを偲んで、久しぶりで「抗議の座り込み継続中!」と赤文字で強調されたテントのカラーリーフレットを、脱原発を訴えて座込んでいますと話しながら配ると、いつもより受取りが良い。
4時過ぎから文科省前で朝鮮学校差別反対の抗議行動。沢山の若者たちに加えて、韓国、ロシア、モンゴル、アメリカ、ドイツからの人たちも混じりにぎやかな抗議。5時からはHさんの司会で経産省抗議行動。東海第二の運転延長許すなの声とともに次が話題になった。
安倍政権下、「国民」とは言えない沖縄防衛局が行政不服審査法を悪用して国交省に訴え2週間で沖縄県の処分の効力停止を決定した。一方、私たち本当の「国民」が原子力規制委員会の適合性審査結果に対して同法に基づき異議申立をして執行停止を訴えたら、同じ規制委内の身内の審査なのに1年半もかかり、その間に原発が再稼動されてしまった。安倍政権も官僚も、憲法と法を好きなように解釈して、「国民」の「社会通念」に反する愚かな施策を強行している。
(K.M)
経産省の上の連中って何を考えているのだろう 11月3日(祝)
祝日なのに歩道で測量作業をしている人が二人いた。座り込みが仕事の邪魔にならないか気になったが歩道の端なら大丈夫らしい。むしろ彼らの方が気を遣っていた。現場で働く人って周囲に気を遣うからね。それなのに測量中に経産省の入り口に片足が僅か靴一足分入っただけで経産省の警備の職員がすっ飛んできた。上からの指示なのだろうね。その上とやらは今日は何をしているやら。
国会前の総がかりに参加する人が何人か立ち寄ってくれた。土曜日なのに座り込みは賑やかになった。カンパやお菓子の差し入れも頂いた。ゴジラのテーマ曲を流しながら希望の牧場の吉沢さんもやってきた。ゴジラの咆哮は牛の鳴き声だった。モ~!
15時になったので総掛かり参加組と片付け組にわかれて経産省を後にした。また来週。(O・O)
寺崎さんのことが想い出されて…11月4日(日)
曇天の日曜日、今日は藤原節男さんが休みなので早めに事務所に行く。ハシユキが同時に来たので座り込みセットを経産省前に運ぶ。既に自転車隊のEさん、Sさんが来ていていつも通りセッティングを手伝ってもらった。横浜のOさん、群馬のTさんも加わって座り込み開始だ。三上さんが差し入れを持って早めに来てくれた。雨が降り出して寒い。冬も近いことを感じる。今日から3時までなので、私は日比谷集会デモのため、3時に失礼した。
大間原発反対で中心的役割だった寺崎さんが10月末に亡くなられたことを聞いた。彼女からは大間原発の裁判資料やドイツの裁判官制度など多くの資料を戴いた。思えばもう3年ほど前になるのでしょうか、伊方原発ゲート前抗議の帰りの機内で隣に座ったのが彼女だった。手帳を見てスケジュールを調整していた姿が印象的だった。以後、テント広場や事務所で出会う度によく言葉を交わしていた。彼女が4期の癌であり、なるべく抗がん剤は使わないで治療していくということだった。程なく入院したことを知らされ姿を見せなくなったので気にはなっていたが、その後の病状は聞けずじまいだった。屈託のない笑顔が思い出される。あの世から原発反対の声を挙げ続けているだろう。合掌
(S・K)
共謀罪反対の桃太郎旗を持った人が手伝ってくれた 11月5日(月)
今日は朝方まで雨が降っていた。午前中から曇っていたが、時折、日が射していた。その分暖かく感じられ座り込みには楽な一日であった。先日、緊急入院して手術を受けたYさんはその後まもなく退院し私にその旨電話で伝えてきた。元気な声だったので復帰も遠くはないと思われます。
我々が経産省前に着くと共謀罪反対の桃太郎旗を持った人が座り込み準備を手伝ってくれました。常連のOさんもまもなく来てくれたので準備は何時ものように短時間で終わりました。ところが最後になって幟の一本の先端部分が無くなっているのに気付いた。回りを探したが見付からないので事務所に取りに行った。帰ってきて植木のところを探したら引っ掛かっているのを発見して事なきを得た。
帰ってきたとき、高級自転車を趣味にしている彼が来ていたので挨拶した。久しぶりに会ったが元気そうであった。昼食を取ったあと私は所用があったので後を託してテントひろばを離れた。4時半頃帰ってきたが4時までの人は定時に帰られ、レジェンド・Sさんと早番のSさんが座り込みをされていた。お付きのKさんはレジェンド・Sさんをテントひろばまで送ってきてすぐ帰られたそうだ。その証拠に私宛のお菓子が置かれていたので有り難く頂いた。
5時になったので片付けを始めたが雨がポツリポツリと降ってきたので3人で手分けして急いで片付けた。雨は上着が濡れるほどであったが幟旗・バナーを最初に片付けたので濡らさずに済んで良かった。今日は第一月曜日なので恒例の防衛省抗議闘争があるのでレジェンド・Sさんと共にそちらに向かった。
抜け落ちたこと。私がテントひろばを離れていた間に何か日誌に書くことがなかったか早番のSさんに聞いたが特に何もなく経産省前は静かに過ぎていきました。何時も第一月曜日に早番のSに会いに来る学者先生は何時ものように来られたが、他に用事があったらしく早めに帰られたそうです。何時もなら最後まで話し込んでいるのに。(保)
このところ雨が多い日が続く、夜はEさんの激励会 11月6日(火)
福島第一原発の1号炉から3号炉の事故時運転操作手順書という膨大な量のマニュアルが、2011年事故前から「一般 取扱注意 社内関係者限り」として作成されていたと知り、午前中、それらを原子力規制庁のホームページで検索して読む。田辺文也著「メルトダウン 放射能放出はこうして起こった」(岩波書店2012.12)によれば、彼ら「社内関係者」ですら事故が起こってから読み始めたのだという。彼らは、それを正確に理解することができなかったため、メルトダウンが防げなかったのだという。
昼前、小雨のなかを経産省に向かう。「夕方、にわか雨」という気象庁の予報が見事に外れ、あと少しの所で雨足は強くなり、しばし地下鉄入口で待機。3人揃ったところでパラソル3本、横断幕など設置して座り込みを始めるが、2~30分ごとに強くなり、また弱くなる。傘を持たない通行人が多く行き来し、彼らはときたま声を掛けてくれる。持ってきた書類はカバンから出すこともできないまま、原発とは何か、経産省とは何か、原発事故とは何かなど、種々のことを考えながら雨の中でじっと座っていると、あっという間に時間が過ぎて、後半のスタッフがやってくる。暫くして、所用で経産省前から歩き始めたところで、連日参加のS女史が雨傘をさして横断歩道の向こうからやってくる。
この日、夜は川内原発現地に向かうEさんの送別会。8時近くまで10数名が参加して、盛り上がる。(O・E)
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11月9日(金)経産省前抗議行動 17時~18時
官邸前抗議行動は18時30分 官邸前も国会正門前も
11月10日 子どもを被ばくから守ろう 第11回新宿デモ
アルタ前13時:アピール 14時 デモ開始
11月11日 原発ゼロ国会前集会 14時~16時
首都圏反原連 国会正門前のみの集会です。
11月19日 東銀座電源開発本社前スタンディングデモ
16時30分~17時30分 大間原発NO!
地下鉄日比谷線東銀座A4出口徒歩3分
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