第二のふるさと訪問記
- 2018年 11月 14日
- 評論・紹介・意見
- 中国阿部治平
――八ヶ岳山麓から(269)――
中国の西北、青海省の少数民族が多い大学での日本語教育から離れて満7年、日本への留学を支援した学生たちも順次日本で博士の学位を取得し、母国に帰って大学での教職に就くようになった。これを機に私は自分のもつ本や資料を彼らの研究機関に送りたいと考え、少し前にそれを実行に移した。
すると先方からその贈呈式をやりたいといってきたので、年齢も考えず出かけることにした。かつて私の生活の場だった大学の変化も見たかったが、慣れ親しんだ農村牧野へも行きたかったのである。その旅から数日前に帰国した。
大学は立派になった
大学の建物は増設され豪華になっていた。以前畑だった広大なキャンパスに、「なんとか楼」「かんとか研究センター」などのビルが建っている。広すぎてバイクか自転車で走り回らないと間に合わない。
教室が明るくなった。これがかつてのボロ校舎か、暗かったあの教室かと目を見張る思いだった。教師の研究室も豪勢になり、大学内のある文系研究所では、日本の小学校の教室の2倍くらいのところに教師が3人入っていた。難をいえば個室ではないことだ。教師の月給も倍増し、講師レベルで7000元(12万円):くらいになった。研究項目によっては支給される研究費もかなりあるようで、その分も収入と見れば彼らの研究にはゆとりが生れる。
今年大学に就職したものの中に車を持っているのが二人いた。「アウディ」である。「いまはトヨタとドイツ車の競争です」といった。どうやって買ったのかと疑うと、「大学が「安家費(就職支度金)」を出してくれたから」という。その金額たるや今年就職組は数十万元、私の年金の2倍近い。去年組はその半分。彼らは「今年就職すればよかった」と笑った。それであるものはマンションを確保し、あるものは乗用車を買ったのである。
国家には外国留学者の頭脳流出を防ぐという目的もあるだろうが、この大学では有能な人材確保のためである。中国は大衆教育の時代に入りつつある。学部が新設され大学が拡大し、教師不足になっているかもしれない。
「賃金が上がって建物が立派になっても内容が伴わないと」というと、チベット文化専攻の若い研究者から「私たちはネパールやブータンへ調査に行ってきました」という答が返ってきて驚いた。大学当局が彼らをヒマラヤを越えてネパールやブータンのチベット仏教圏に送ったのだ。宗派や寺院の分布など基礎的事項を調べたらしい。恐るべき変化である。
いままでチベット人がヒマラヤを越えるといえば、非合法の亡命しか考えられなかった。これは習近平国家主席の提唱する「一帯一路」政策と関連しているかもしれないが、ヒマラヤといわず仏教圏の文化人類学・民俗学研究は、まもなく予算の乏しい日本の研究水準を越えるだろう。
この大学はいわゆる「国家重点大学」ではない。だがどれもこれも国家と省政府から回る予算がけた外れに多くなったことを思わせる。確かに中国は確実に豊かになったのである。
田舎の寺院
このたびは、農牧地帯の寺院を5カ所ほど訪れた。そこには例外なく絢爛豪華というほかない伽藍が増築されていた。金色の屋根、きんきらきんのチョルテン(仏塔=ソトーバ)が寺域にみちている。屋根の上に20メートル近い金色の大きな仏像が載っているものもあった。こんなものが村人の力だけでできるものではない。
「誰が寄付したのかね」
「チベット人の金持、つまり冬虫夏草の取引で儲けたやつ。それに東部の漢族の成金が寄贈したんですよ」
「チベット人はともかく、漢人に信仰があるのかね」
「漢人の参拝者は増えています。信仰心があるかないかはわからないが、とにかく来世は極楽へという気持でしょう」
初期の大乗仏教運動は、既存の各派が権力者に接近し、富豪から政治的経済的支援を受けて広大な荘園を所有することを非難した。巨大な建造物を寄進するよりは、むしろ経典を筆写するのが純粋の信仰で、それを尊いとしたはずだ。
すでに観光地として売出した寺院では、地方当局の補助を受けて寺域を拡張したり新築したりしている。こうした寺を見ると、観光開発を名目に寺と地元権力者が結んでいると想像したくなる。
わたしは寺院を増築するよりは、病院や教育施設を作ったほうがよほど住民のためになるはずだといった。そうした声はあるが無力だということだった。それどころか、あちらの村の寺が豪勢になったと知れば、こちらも負けじともっと大きくてきれいな建物をつくろうとする。「寺院や郷村単位の面子競争です」という話だった。いまや僧侶の数が不足しているという。
寺院にたくさんの仏像とパンチェン・ラマ十世の肖像写真があるのは、10年前と同じだった。チベット仏教界では、パンチェン・ラマはダライ・ラマに次ぐ地位にある。パンチェン・ラマ十世はもともと中国共産党よりの人物だったが、中共の民族宗教政策に異をとなえ、61年嘆願書「七万言書」を提出して、毛沢東によって14年間監禁された人物である。文化大革命後名誉回復したが、1989年急逝した。
現在は中国政府が彼の後継者として認証した十一世が北京にいる。これに対しダライ・ラマ十四世が認証したパンチェン・ラマは、幼時に逮捕され行方不明である。いま寺院にはパンチェン・ラマ十世の大きな肖像があり、現十一世のものはまったくない。これはチベット人の民族感情と信仰を表している。
今回訪ねてみると、それどころではなかった。寺によっては従来人目につくところにはなかったダライ・ラマ十四世の肖像が、パンチェン・ラマ十世と並んで経堂の正面に堂々と飾られていた。1959年インドに亡命したダライ・ラマ十四世は「国家分裂主義者」として政府から敵視され、肖像写真など飾ることは禁止されているはずだ。
寺僧に「これは危ないじゃないか」というと、「いや、検査があるときはジャワ・リンポチェ(チベット人のダライ・ラマに対する尊称)のは外します」という返事が返ってきた。
そうはいっても、どんな寺院でも監視カメラが設置され、隅々までその眼が光っているのだから、ばれないはずはないのである。わたしは当局が見て見ぬふりしていると思った。厳しく取締ったらチベット人の反発を招くだけだから。
チベット人のダライ・ラマ十四世に対する崇拝の念は抜きがたいものがある。いまもむかしも、農牧民の家庭でダライ・ラマの写真がないうちはない。
中共中央の民族政策では、漢族を中心にチベットもウイグルもカザフもモンゴルもみな「中華民族の大家庭の一員」ということになっている。だが中共中央がダライ・ラマ崇拝を禁止しているうちは、チベット人は決して自分から中華民族の仲間入りはしないだろう。
交通事情
いま省都西寧には車がひしめきあっている。出退勤時間は渋滞が当り前だ。大学構内も横町も車でいっぱいだった。地方の比較的小さな町でもこの状態は同じで、寺院ですら参詣人と坊さんの車で駐車場は身動きできない感じだった。
10年前、大学の近くには自動車商と修理業の店がずらりと並んでいた。車の売行きはすこぶる好調だった。自動車屋は1台売るたびに爆竹を鳴らしたから、うるさくて授業に差支えるほどだった。これが今に続いて深刻な状態に到ったのである。
あのころ、すでに西寧から主だった地方都市に行く幹線道路は高速化されつつあった。いまそれが完成し、かつ延長されていた。以前工事用の大型トラックが走った道路は、いまは乗用車が大半である。しかも日本ではふつうにみられる軽乗用車や軽トラックがほとんどない。
かつて牧野の小さな町まで行くのに、路線バスで早朝から晩まで丸1日かかった。それが今回は3時間とかからなかった。集落の道路は家の前まで舗装されていた。2008年のリーマンショックが中国に波及するのを回避するために、中国政府は4兆元のインフラ投資を行ったが、それがここ西北の片田舎にもこのような恩恵をもたらしたのであろう。
見方によっては、少数民族地域だからこの投資が行われたともいえる。不穏な情勢が生じればすぐ軍や警察を送ることができる。いやそれ以上に道路を通した市場経済の急速な浸透がチベット人など少数民族の漢化を促す効果が期待できる。いま、チベット人地域ではそれにかなり成功しつつあるといえるのではないか。
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