地面が平らじゃなかった
- 2018年 11月 14日
- 評論・紹介・意見
- 藤澤豊
あいつら、どうみてもどこにでもいる普通のやつらだ。その普通のやつらが、オレが左よりってのか左に傾いてるってんだ。そりゃ、多少は変わってるところもあるけど、誰がどうみたって、オレはまっすぐで右も左もない。それこそ若竹のようにまっすぐお天道様に向かってるだけだ。
そう言ってやったら、なんて言ったと思う。まさかと思うだろうけど、そう思うって言いやがった。人のことつかまえて、散々左に傾いているって言ってたやつらが、そう思うって、おかしいじゃねぇか。
まっすぐ伸びてるって思ってるのに、なんで左に傾いてるなんて言えるんだって言ったら、だってそう見えるからって。幼稚園でもあるまいし、もう相手なんかしちゃられねぇって思いながら、まっすぐ上ってのが、なんで左に傾いてるって話になるのか、お前目は確かか、頭は大丈夫かって言いたくなったね。言ってることのつじつまが合わねぇじゃねぇか。
左に傾いてるって言ってるのが多いんだけど、仲間内ってのかね、そこそこ似たようなことを思ってるヤツらのなかにゃ、オレが右に傾いてるってのがいる。どこが右なんだと言い返そうとしたら、そいつらオレよりはっきりと、誰も目にも間違いなく左に傾いてんだよね。思わず噴出しそうになったぜ。自分たちがオレよりもっと左に傾いてるから、その傾いたところから見たら、俺が右に傾いてるってことなんだよな。冗談じゃない。お前がまっすぐになってから、人様が左にだとか右にだとか、どっちでもかまいやしねぇが、傾いてだのどうだのって言ってこいっての。
オレが右に傾いてるなんて言ってくるのは何人にもいやしねぇ。変にしゃっちょこばってるってのかね、人様のとるにたらない傾きってのかね、それこそ誤差みてぇなもんをとやかく言ってやがんだ。自分との違いをことさらに強調したくてってヤツらだから、気にはなるけど、ほっときゃいい。問題は、どこにでもいる普通のヤツらが、オレが左にってのが面白くねぇ。だってそうだろう、あいつらだって、オレがまっすぐ天に向かってるってを認めてんだぜ。悪いことは言わねぇ、一度眼科にいって視力を確かめて、それから精神科にいって、どうも世の中左に傾いて見えちゃうんですけどって、どうなってんでしょうって検査してきたほうがいい。
一度こてっと言ってやろうと思っていたことろに、この長雨だ。こう雨ばっかり降ってると地崩れでもおきやしねぇかと心配になって、つい二三日前だけど、地盤を見にいったんだ。そうしたら、どうだ、びっくりしたね。地盤が傾いてやんのさ。地崩れかってあわくったけど、よくみるとそうじゃないんだ。雨で表土が流されて、地盤が見えるようになったってことで、地盤はしっかりしてた。驚くほどじゃねぇんだけど、ちょっとしたなだらかな丘の斜面のようにだ。平らだと思っていた、いや水平だと思っていた地盤がだ、右に傾いてた。右に傾いた地盤からまっすぐお天道様に向かって、天に向かって伸びていったら……。そりゃ、そうだろう、そんなところで地盤に垂直に伸びていったら、それこそ右に傾いてってことにならぁな。あの普通のヤツら、自分たちが乗ってる地盤が、多少のでこぼこはあってもほとんど平らってのか水平だってことに気がつかないんだな。
そんな変化のないところにのほほんと生きてるから、地盤の傾いたころで、それこそちょっとひどい雨でも降った日にゃ、地崩れが心配になることろにしがみついている人たちの生活なんての想像できないんだろうな。人様の地盤がどう傾いていようが、あいつらの頭のなかにゃ、地盤ってのは小学校の校庭のように平らで水平としか考えられなくなっちゃってる。傾いた地盤を見ても、それはもう生理的な処理なんだろうけど、無意識のうちに水平に補正して、その上に乗っているものを見ちゃうんだな。そんな地盤からお天道様に真っ直ぐってのが、やつらの目には左に傾いてってことになっちゃうのに気がつかないんだ。
こんなわかっちまえば、あたりまえのことに気がついたときはたまげたね、もしやと思って、オレが右にってうるせぇヤツらをみたら、あいつらの地盤、オレっちの地盤よりもっと右に傾いてやんのよ。そんな地盤から上に向かってっての大変だけど、人様のありようを見るときに、普通のヤツらと同じように自分たちの地盤を基準にして見ちゃうんだろうな。それであいつらの方がオレっちよりもっと左に傾いてるもんだから、オレが右に傾いて見えるってことなんだな。
こんなことを考えていて、一つ大事なことに気がついた。右だの左だのっては、乗ってる地盤を基準にしちゃいけねぇってことなんだよ。基準をお天道様にすりゃすっきりするんだが、これができそうでできない。
いい勉強になったといっていいのか、この地盤の右への沈みこみをなんとかしなきゃ、平和なところにいる人たちからみたら、オレたちのようにまっとうな人間までもがだ、真っ直ぐ生きてるだけなのに左に傾いているって話になっちまう。そんなことに気づきもしねぇで、自分たちはまっすぐだと信じこんでるってのかね、恐ろしいこった。自分で自分が立っている地盤を見るって、毎日生活してるってだけじゃなかなかできない。なんていうんかね精神的な押し込みとでもいうんかな、かなり自覚して自分を押し込んでいかないと見えないし、たとえ見えても見えたものを理解する頭の働きが傾いた映像情報ってのかね、そいつを無意識のうちに矯正しちゃうから、なかなかみえない。その矯正しちゃう機能をキャンセルする練習をし続けて、やっとどうにかって感じだな。
悪いことにこの矯正機能のキャンセルってのは、普通のっていうと変だけど、社会の大勢にいる人は、そんな機能があるなんて考えたこともないから、考えたこともない機能のキャンセルなんて思いつきゃしない。人間に限らずといっていいと思うけど、生まれてここのかた、自分が生きてきた環境というのか社会があまりに穏やかで平らだから、傾いたところなんか、普通の人には想像もできないんだろうな。ただ宗教ってのかね、素朴な信仰とでもいうんかね。これは本来は水平だった地盤を故意に傾けるところから始まってんだよな。
そう、その宗教が成り立っている傾きってのを想像すれば、宗教以外の、言ってみれば社会の常識ともいえると思うけど、傾きがあることが想像できる。そこまでくればもう一歩なんだけど、傾きを矯正する生物としての保身機能をキャンセルしてみるってのは結構大変なことなんだな。そういうオレだって、いい年して最近気がついたところなんで、あまり大きな口はきけないけどな。
そうだろう、普通の人たちはそんなこと感じることもなく普通に毎日生きてるんだから。傾きとそれをキャンセルする、そんなこと知ったところで、社会の一員として安寧に生きてくためには邪魔にしかならない。
保守だ革新だなんてずいぶん前からいってるけど、憲法九条改正ってことじゃ、改正反対ってのは保守だし、改正しなきゃってのは革新だろう。何を基準にとるかで見えるものってのかね、景色がひっくり返っちゃう。基準ってのは絶対不可侵で変わらないもんじゃなくて、変えられるものってのか、時には変えなきゃならないものだってのには、なかなか気がつかない。たとえ気づいたところで、基準を変えるってのは、個々人までならいざ知らず、社会集団ともなるといきがかりもあって大変なことだ。
でも、変えなきゃっていう気持ちと変える勇気はもたなきゃならない。なにも特別なことじゃない。特別なことじゃないだけに難しい。
そうだろう、戦争が終わってさ、天皇制なんてのさっぱりしちまえばいいのに残っちまった。挙句のはてがだ、二十一世紀にもなって女性の天皇がどうの、年号がどうのって、平和ってことなんだろうけど、このままじゃそう遠くないうちに自衛隊が出かけていってドンパチてことになりかねない。民需で行き詰づまったからって軍需で儲けようなんて人のするこっちゃない。もういいかげんに、自分たちの確たる基準ってのか、日本人としてのありようなんての、考えてもいいときじゃないかね。
Private homepage “My commonsense” (http://mycommonsense.ninja-web.net/)にアップした拙稿に加筆、編集
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion8156 :181114〕
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