内田 弘専修大学名誉教授への御答え(続)
- 2018年 11月 14日
- 評論・紹介・意見
- 熊王信之
藤田嗣治の所謂「玉砕画」が、当時の天皇制絶対主義国家の戦争遂行目的以外の趣旨を見る者に訴えることが可能であった、と仮定したならば、当時の国家体制と「聖戦」遂行中の情勢に鑑みて一般臣民に対して公開が許されたであろうか、とは彼が戦争遂行目的を訴えることを趣旨としなかった、と「解釈」される方々は考えることが無いのでしょうか。
即ち、戦前の絶対主義的天皇制国家において、そのような画家が存在を許されたのでしょうか。 今では無く、当時の国家体制と情勢を省みずに、戦後の今になって絵画の解釈の変遷を企てようとも歴史の時間軸は変わらないのであり、今では無く、当時の時間軸に照らして当該絵画が置かれた意義を考える必要がある、と私は思うものです。
当時のこの国は、大日本帝国憲法治下にあり、今の「国民」は存在せず、主権者「天皇」の「臣民」として、現憲法で付与されている各種人権は、全て条件附きであり、表現の自由も「第29条日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」と制限付きであったのでした。 しかもその法律には、悪名高い「治安維持法」があり、更に戦争進展とともに、戦時体制における臨時の刑罰の規定追加や厳罰化と刑事裁判の迅速化を目指す「戦時刑事特別法」が制定され臣民は蟻の這い出る隙間も無い程の天皇制国家の奴隷になり果てたのでした。
戦時刑事特別法 Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E6%99%82%E5%88%91%E4%BA%8B%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%B3%95
加えて「国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スル」と謳う国家総動員法が中国侵略戦の深化とともに制定もされ、帝国は、総力戦に血道をあげることになったのでした。
国家総動員法(昭和13年法律第55号) 中野文庫
http://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hs13-55.htm
戦況が悪化するとともに、元より制限付きの移動の自由であった処から臣民は、防空法により、都市内からの避難も禁じられ、米空軍の絨毯爆撃の犠牲にもなったのです。
当時、特高警察と憲兵は、街の公衆便所の落書にまで監視の目を注ぎ、臣民の親書等の片隅の一行に至るまで検閲したのです。 その一片は、特高月報に依り窺い知ることが可能ですが、如何に臣民を十重二十重に看視していたのかが分かります。
東京新聞の記事にその一片が掲載されています。
戦時下民の声 にじむ平和への渇望 東京新聞 2015年1月5日
http://www.tokyo-np.co.jp/hold/2015/Postwar70th/sengonotisou/CK2015010502000219.html
このような非常時天皇制絶対主義神聖帝国にあり、帝国の意思に逆らう絵画を描ける訳も無く、例えそのような意思強固な人物が居たとしても、作家小林多喜二と同様の運命になったことは相違無いこと、と思われます。
しかしながら、藤田嗣治は、世情に迎合するのが巧みであったのでしょう。 軍部の意向を今の流行語に依れば「忖度」して巧みに時の帝国国策推進に臣民を駆り立てるべく絵画を描いたのでした。
その事由は、何よりも、時の帝国において公衆に彼の絵画が公開されていた、と言う事実があります。 帝国の意思に逆らえば直ちに捕縛され特高か憲兵に厳しく取り調べられ、反抗すれば、その場で絶命するような拷問を受けたことでしょう。
もっとも、帝国の意思に迎合し、敗戦まで長らえた画家、小説家、等々が多数存在します。 藤田嗣治のみが帝国の意思を忖度し迎合した訳ではありません。
残念ながら、侵略戦争に協力した画家や小説家、その他の者全てがその責を追及された訳でも無く、米ソ対立を背景にこの国の戦争責任追及の鉾先は削がれました。
しかしながら、少数とは言え、帝国の意思に反逆した方々がおられました。 そうした勇気ある方々に報いるためにも、絵画の一片と言え見る眼を曇らさず批判することが重要と自身に言い聞かせております。
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔opinion81567 :181114〕
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