わが集落の70周年記念集会で話したこと
- 2018年 12月 10日
- 評論・紹介・意見
- 八ヶ岳阿部治平
――八ヶ岳山麓から(271)――
私の住む集落は、先日入植70周年の記念式典と宴会を開いた。
私がいるのは長野県の八ヶ岳西麓の山間集落であるが、歴史は短い。敗戦直後の1948(昭和23)年、古くからの集落すなわち親部落の次三男や満蒙開拓団の引揚組18軒ほどが、海抜1200mの共同入会地オオバタケに入植したのが始まりである。
当時のオオバタケはバラの仲間とススキに覆われた石だらけの土地で、高木といえばズミくらいしかなく、ところどころに松の幼木が入り込む荒地であった。ここは親部落にとってはまぐさ場であり、炭焼場であり、カヤ場でもあった。
敗戦後国は植林を進めたから私たち子供も動員され、中学2年生のときにはオオバタケにカラマツを植えに行った。65年後の今日、カラマツは20メートル余りに延び、24号台風ではばたばた倒れて電線を切断し、80数時間の停電を引き起こした。
当時は農業といえば稲作を意味したが、開拓農家には水田がなかったから、食料米は親部落の親兄弟に頼らざるを得なかった。現金収入の道は種ジャガイモやキャベツなどの栽培と酪農であったが、たいして金にならなかった。農閑期にはたいてい出稼ぎをしていた。その後は高原野菜のセロリー・ブロッコリー、それに花卉に特化した農業を行うようになっている。
時代を戻すと、1960年代末には別荘地建設が始まった。三井だのなんだのという開発会社が親集落の土地を買ったり借りたりして開発に励んだ。別荘を建てた人々のかなりの人が退職するとここに居着いてここをついの棲家とした。私も80年代に親部落から分家してオオバタケの住人になった。
バブル経済に入るころにはペンション団地なるものができた。「脱サラ」の人々がこれにとびついたが、バブルの崩壊と運命を共にした。いまも営業しているペンションはあるけれども、これを続けようとする人は少ない。
21世紀に入ると、にわかに県外からの非農家移住者が増えた。2018年のいま、住民登録をしている人は130世帯300人あまりである。だが農家は10軒余りで、集落(行政的には区)に正式加入しているのは70軒のみ。ほかは集落にかかわろうとしない人たちである。
以上が簡単なわが集落の歴史である。
さて70周年式典だが、この日は新旧世代をあわせ100人ほどが集まった。笑い声があちこちで起き、和気あいあいの雰囲気だった。まず93歳の最長老が電気を引いたときの苦労話をし、両親が移住組の中学生がオオバタケを故里とほめたたえ、最近移住した女性が野菜栽培の失敗談をした。
式典の数日前、私にも主催者から「何か面白い話をしてくれ」という依頼があった。私はひそかに喜んだ。というのは、いつか話したいと考えていたことがあったからである。
もともと親部落のものは、共同入会地オオバタケで自由にキノコや薬草を取っていた。お盆が近づくと子供たちは「盆花」を取りにでかけた。この習慣のため、いまでもキノコを採りながら別荘地へ入り込んだり、クロスズメバチを追って他人の玄関先を走り抜けたりするのである。
ところが新築の家が建つたびに、レンゲツツジ、キキョウ、ユリなどはなくなった。サクラソウやザゼンソウの群生地もほとんど消えた。かわってカラマツ林のなかのしゃれた家の周りに「私有地につき立入禁止」「野草やキノコの採取禁止」の看板が立つようになった。なかには川で魚を釣るこどもを「勝手に庭先に入った」と怒る人もいる。
私はこうしたことが不満だったので、これを話そうと思った。だが直接話しては座がしらける。そこで開墾以前のオオバタケの「先住民」センジュウの話をした。
蛇取りセンジュウさは、村に家がなく嫁もおらず、村人からは少し頭が弱いと思われていた。ススキで屋根を葺いた縄文式住居のような小屋に住んでいて、誰かにもらった着物を着てふんごみ(もんぺ)をはき、風呂に入らないから顔は黒くて、着物のえりはあかでぴかぴかしていた。腕にはマムシに噛まれたとき、毒を吸い出した切傷がいくつかあった。
彼はおもにマムシやシマヘビを取ったり、キキョウ・リンドウなどの薬草の根を掘ったりして村人に売り、それで生計を立てていた。子供からは敬称で呼ばれ、「センジュウさの足音を聞くとヘビが逃げる」と信じられていた。センジュウさは頼まれると繭袋に蛇を入れて村に下りてきて注文に応じた。といっても現金とは限らず、シマヘビ1匹米1升といった物々交換が主であった。だが、村人がしょっちゅう蛇を食うわけではなかったから、子供心にもセンジュウさが蛇取りだけでどうやって食っているのか不思議だった。
私たちはマムシは生きたまま焼酎に漬けて、風邪などひいたときの飲薬とし、切傷や打身には塗薬にした。彼はシマヘビの頭を口にくわえ、上手に皮をむいた。村人は、シマヘビは田植や収穫などの疲れたとき薬として食った。皮をむきS字状にして串にさし、これを焼くか、自在鉤の上に刺して燻製にした。八ヶ岳山麓には昆虫食の伝統があったから、私たちはヘビを食うことに抵抗はなかった。私も食べたことがあるが、硬くてそううまいものではない。
子供にとってオオバタケは家から遠いために、親部落から行くのはちょっとした冒険だったから、たいていは集団で出かけた。敗戦直後とはいえ、軍国少年のガキ大将は、年少のものに「ルーズベルトのベルトが切れて、チャーチルチルチール空回り空回り」と歌わせたり、「腹減った兵隊さんがペコペコ跳んでくー」と進軍ラッパを怒鳴らせたりした。
私たちが行くとセンジュウさは喜んで、貴重なクロスズメバチの巣や、アナグマの巣穴の場所を教えてくれた。お盆の花取りに行くとキキョウやオミナエシ、ユリなどのあるところを教えてくれた。私はサルナシやアケビ、マタタビなどのありかもセンジュウさから教わった。
私たちと話すとき、彼は東京のことばを使ったので子供心にも不思議に思った。彼は冬になるとオオバタケからいなくなった。当時はマイナス20℃になる日も普通にあったから掘立小屋ではしのぎ切れず、避寒のために甲州や東京など暖かい地方に行ったのかもしれない。そうだとすれば、そのとき東京言葉をおぼえたに違いない。
中学生のころ、彼の姿がなくなった。だれも彼がいつ死んだか知らない。戸籍がわが村にあったのかも知らない。
私は、「先住民」センジュウの話をここで終りにした。
本当はもう一言いいたかった
蛇取りセンジュウのいた当時はみんな貧しく、やたらに働き、けちけち暮らしていた。どろぼうもいた。しかし、村人は誰が盗んだかわかっても、あからさまには咎めなかった。だからセンジュウのような人でもオオバタケで生きてゆけたのだ。
だから新来の方々も「私有地につき立入禁止」といった看板など立てないでほしい、誰かが自分の家の庭先でキノコを採っていても、おっかない顔で見ないでいただきたいといいたかった。
しかし「先住民」センジュウの話では、私の言いたいことが分かった人はいなかっただろう。これがこの70年間の世の中の移り変わりというものかもしれない。だが、私には悲しい変化である。
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〔opinion8212:181210〕
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