『経済学・哲学草稿』および『ドイツ・イデオロギー』 の『資本論』形成史上の意義 ―MEGA,I/5『ドイツ・イデオロギー』の検討を中心に―
- 2019年 1月 8日
- スタディルーム
- 内田 弘
このたび、大村泉編著『唯物史観と新MEGA版《ドイツ・イデオロギー》』(社会評論社、2018年)が刊行された。現代史研究会[2019年1月12日(土)午後1時~5時、明治大学研究棟2階第9会議室]で、渡辺憲正氏が執筆した同書「第7章 マルクス社会理論の生成-『経済学・哲学草稿』と『ドイツ・イデオロギー』の接合」を中心に報告される。本稿筆者は、同章へのコメントを以下行い、『資本論』形成史研究に寄与したいと願う。
[1]『ドイツ・イデオロギー』草稿編集の廣松渉編とMEGA編の比較
[廣松編『ドイツ・イデオロギー』の衝撃] かつて現在から数えて50年以上前の1965年、廣松渉(以下敬称略)は『季刊 唯物論研究』第21号掲載論文「『ドイツ・イデオロギー』編輯の問題点」で、アドラツキー編『ドイツ・イデオロギー』の特にフォエルバッハ編の深刻な編集上の欠陥を指摘した。
アドラツキー編『ドイツ・イデオロギー』は「偽書に等しい」という廣松自身による表現が象徴するように、その批判はその当時のマルクス研究にとって、文字通りショッキングであった。ショックのためであろう、廣松のその指摘と編集代案に関して長い沈黙が続いた。さらに、廣松自身が1974年に、アドラツキー編『ドイツ・イデオロギー』(1932年)を基本資料にしつつも、それを根本的に再編成して「新編輯版」『ドイツ・イデオロギー』(河出書房)を公表した。一部の好意的な反応を除いて、日本のマルクス研究学会の大方は、廣松のその問題提起と廣松編『ドイツ・イデオロギー』に対して「長い沈黙」で対応した。
このように、アドラツキー編『ドイツ・イデオロギー』批判は、世界的にみて、廣松による批判から始まったのである。その『ドイツ・イデオロギー』の編集問題は、廣松の問題提起によることは、今日でも、銘記しなければならない。
[服部編・渋谷編『ドイツ・イデオロギー』の刊行] 主要文献に限定すれば、22年間の長い沈黙の後、1998年に渋谷正編訳『ドイツ・イデオロギー』が新日本出版社から刊行された。渋谷編はアムステルダム国際社会史研究所所蔵の『ドイツ・イデオロギー』の草稿そのもの(の写真版)という直接資料を解読したものであるという特質は、廣松編『ドイツ・イデオロギー』を画期的に乗り越えるものであった。ただし、渋谷編は原草稿著作権の制約を受け、本人自身が遺憾としているように、日本語訳であるという制約をもっている。
[MEGA版『ドイツ・イデオロギー』の刊行] 廣松編から43年後、渋谷編から19年後の2017年に、長らく待ち望まれたMEGA(Ⅰ/5)版の『ドイツ・イデオロギー』が刊行された(編集者:Urlrich Pagel, Gerald Hubmann, Christine Weckwerth)。このMEGA版は、当然のことながら、『ドイツ・イデオロギー』草稿そのものに基づき編集されている。
[廣松編・MEGA版の『ドイツ・イデオロギー』草稿配列の比較] 以下ではまず、廣松編およびMEGA編の『ドイツ・イデオロギー』フォエルバッハ編の草稿がどのように編集されているかという問題に限定し、両者を以下のように比較することから考察する。渋谷編は必要に応じて参照する。
*************[フォエルバッハ編 [廣松渉編]・[MEGA編]の比較表]*********
[廣松編] [MEGA編]
Vorrede →→→→→→→[同]→→→→→→Vorrede
Ⅰ. Feuerbach
Gegensatz von materialistischer und
idealistischer Anschauung [タイトルのみ] [MEGA編にはこのタイトル挿入は無い]
[左欄] [右欄]
{1}a [{1?}a~b] →┐ ┌→→→ I. Feuerbach [={2}a,{2}b,{2}c~d]
{1}b →┐→[{1?}c~d]→ [同] → ↑→→→ I. 1. Die Ideologie überhaupt,…[={1?}c~d]
{2}a ┐└┐ └┐ ↑
{2}b │ └→→→→→→ └→→→→→→ I. Feuerbach überhaupt [={1}?a~b, {1}b]
{2}c~d┘→→→→→→→→→→→┘
{6}a=[8] →┐ [相違点①:廣松編・MEGA編では、上記2個所の順序が入れ違っている]
{6}b=[9] └→→ [相違点②:MEGA編は[8]直前に「バーネ発見草稿」第Ⅰ頁のみを挿入]
{6}c=[10] [相違点②:渋谷編は[8]直前に同草稿Ⅰ~Ⅱ頁全体を連続して挿入]
{6}d=[11] [相違点③:廣松編が草稿番号[35]と[40]の間に挿入した{3}a,{3}b,{3}c,
{7}a=[12] [右欄] {3}d,{4}a~bを、MEGA編は本文末に置き、[35]を[40]に直結する]
{7}b=[13] {5}a 相違点①②③と下記の④の4点を除けば、廣松編およびMEGA編は、
{7}c=[14] {5}b 執筆者たちの史観を記す草稿配列[8]~[35],[40]~[73]で同じである。
{7}d=[15] {5}c 注目点:[8]頁最後の語erstから[9]頁最初の語durchへ、[72]の最後
{8}a=[16] {5}d の語Religion etc.から[73]頁の最初の語Die Individuenへのように、
{8}b=[17] 両編は[8]~[35]と[40]~[73]の2群の接続頁が同じ単語群で連結する。
{8}c=[18] よって、本文テキストでは両編は決定的な違いは無く、基本的に同じ
{8}d=[19] であろう。その意味で廣松=小林編訳の『ドイツ・イデオロギー』
{9}a=[20] (岩波文庫、2002年)は、MEGA版『ドイツ・イデオロギー』刊
{9}b=[21] 行後も一般読者にとって存在意義をもつだろう。小林昌人によれば、
{9}c=[22] 岩波文庫版『ドイツ・イデオロギー』は、廣松編を基本テキストに、
{9}d=[23] 山中隆次によるアムステルダム社会史国際研究所の『ドイツ・イデ
{10}a オロギー』の手稿オリジナル調査にもとづく私家版、渋谷正編訳、
{10}b=[24] 的場昭弘から送られた手稿フォトコピーを活用したものである。)
{10}c=[25]
{10}d=[26]
{11}a=[27]
{11}b=[28]
{11}c~d=[29]
{20}a
{20}b=[30]
{20}c=[31]
{20}d=[32]
{21}a=[33]
{21}b=[34]
{21}c
{21}d=[35]
{3}a [左記の{3}a,b,c,dと{4}a~bの史観は
{3}b 欠如した[36]~[39]頁に適合するので、
{3}c 廣松編{3}a,b,c,d,{4}a~b配置の ┌→→→ 相違点③④:③MEGA編は{3}a,{3}b,
{3}d 妥当可能性は存在する] ←→→→┘ {3}c,{3}d,{4}a~bを本文直後に
{4}a~b 3)[Fragment](S.129~134)として収
{84}a=[40] める。④廣松編が[13][14][15][16]
[以下、{84}b=[41]から の右欄に収めた{5}a,{5}b,{5}c.{5}d
{92}b=[73]まで連続し、最後に をMEGA編は5)[Fragment](S.135~
附録Ⅰと附録Ⅱ[バーネ発見草稿] 136,139)として収める。
を置く(廣松編では{92}bは空白扱い)。
*********************************************************************************
[廣松渉編およびMEGA編の異同] まず両者の『ドイツ・イデオロギー』フォイエルバッハ篇の草稿の編集が相違する個所が4点存在する(上記の表の相違点①②③④を参照)。
[相違点①] 廣松編とMEGA編では{1?}c~dおよび{2}a~dの順序が逆である。
[相違点②] 「バーネ(1962年)発見草稿」の位置づけが異なること。廣松渉編では草稿の最後に附録ⅠおよびⅡとして配列する。MEGA篇では「バーネ発見草稿」の第Ⅰ頁のみをマルクスたちの歴史観が本格的に始まる{6}A=[8]の直前に配列している。
しかし、マルクスたちの論述法は、自分たちの史観(諸形態・原蓄論)[=バーネ発見草稿第Ⅰ頁]でもって、フォエルバッハの世界観を批判する[=バーネ発見草稿第Ⅱ頁]という論述法であるので、「バーネ発見草稿」の第Ⅰ頁と第Ⅱ頁とは切り離しがたい。MEGA編が、第Ⅱ頁のフォエルバッハ批判を除外し、第Ⅰ頁のみを切り離して、{6}a=[8]の直前に配置したことは妥当性を欠く。その操作は「アドラツキー的に恣意的な草稿の切り張りを行ったものである」と判断されるかもしれない。その点で同じ草稿第Ⅰ頁および第Ⅱ頁を連続したものとして同じ個所に挿入した渋谷編は、MEGA編よりも妥当性をもつ。
[『要綱』の史論の独自性] 廣松編の「バーネ発見草稿」の取扱はどうか。1857~58年執筆の『経済学批判要綱』のいわゆる「資本家的生産に先行する諸形態」(MEGA, II/1.2,S.378-415)で、まず詳細に「再生産(S.348-378)→諸形態(S.378-404)→原蓄(S.404-415)」を論述する。その直後、その詳論を回顧して簡潔に「再生産(S.415)→諸形態(S.416)→原蓄(S.416)→(その総括として)疎外(S.417)」と記述する順序で書かれている。「詳論からその圧縮再論」という順序である。マルクスは書簡でラサール等に「僕は圧縮法を好む」と伝えた(MEW,Bd.29,S.561)。
その順序は、廣松編『ドイツ・イデオロギー』における「史論の詳論からその圧縮再論」に対応する。マルクスのこの執筆のスタイルはすでに、彼の1841年学位論文ための準備ノート「エピクロスの哲学」(ノート7冊)での極めて詳細な考察と、イエナ大学に提出した学位論文の圧縮された文体との関係にみられる。この順序を考慮すれば、廣松編がマルクスの番号付けの直後に「附録Ⅰ及びⅡ」として配置した順序は、『要綱』「諸形態」の独自な順序を先取りした順序になっているので、妥当性が高い。
付言すれば、『要綱』での諸形態の指示名称は『ドイツ・イデオロギー』を継承して名称「第1形態」「第2形態」「第3形態」である。
『要綱』諸形態論の最後の「疎外」は、『要綱』「貨幣章」冒頭の「疎外」(MEGA, II/1.1,S.98)および「資本章」最後の「疎外」断片(S.697-699)を媒介して、資本主義的生産様式の基本条件が「生産手段と労働力との《商品としての私的分離=疎外》」にあることを確認する。それらの私的交換による「結合」は物象化として現象する。マルクスが『経済学・哲学草稿』執筆にさいして2回ノートを独自な順序でとった『国富論』の「分業と交換」は、マルクスから観れば、「疎外と物象化」に対応する。マルクスはアリストテレス『デ・アニマ』評注(1840年頃)で「虚偽は事物の恣意的な結合に起因する」と指摘している。すべての商品相互の交換関係はマルクスにとって恣意的な結合である。
[相違点③] 「小さな束」の草稿{3}a,{3}b,{3}c,{3}d,{4}a~bを、廣松編は[35]と[40]の間に挿入する。MEGA編は本文の後に断片3[Fragment]として収め、[35]と[40]は直続する[MEGA,Ⅰ/5, S.66,S.69(S67,S.68には草稿写真が挿入されている)]。
つぎに、廣松編のその扱いの妥当性を検討する。
その「小さな束」の草稿{3}aの冒頭は、つぎのように始まる。
「さまざまな諸国民相互間の関連は、それぞれの国民の生産諸力・分業・内部的交通をどの程度まで発展させているかに依存する」(廣松編78頁:MEGA, I/5, S.129。MEGA編のunter einander を廣松編は一語untereinanderと印刷。MEGA編の&を廣松編はundと印刷。その他は同文)。
上の引用文のつぎの草稿{3}bには、つぎのように書かれている。
「分業のさまざまな発展段階の数と同じだけ、所有のさまざまな形態がある」(廣松編80頁。MEGA,I/5, S.129。MEGAのTheilungを廣松編はTeilungと印刷。MEGA編のeben sovielを廣松編は一語ebensovielと印刷。その他は同文)。
その直後に、所有の第1形態(部族所有)、第2形態(古代的共住体所有および国家所有(das antike Gemeinde & Staatseigenthum)、第3形態(封建的あるいは身分的所有)をあげる [Gemeinwesen 共存体、Gemeinschaft 共同体、Gemeinde 共住体:望月清司の適訳]。
この文は、後の{87}a=[52]頁のつぎのような文、
「これらのさまざまな諸形態と同じ数だけ、労働の組織の諸形態が、したがってまた所有の諸形態がある」(廣松編112頁。MEGA,I/5,S.89。MEGA編の&を廣松編はundと印刷。その他は同文)。
が呼応する。『ドイツ・イデオロギー』の史論はここで一旦締めくくられる。
したがって、廣松編で上記の小さな束の6頁[{3}a,{3}b,{3}c,{3}d,{4}a~b]を[40]頁の直前に置いたことには、それら6頁と[40]~[52]とが一貫性をもった史論を構成するので、編集上の妥当性が存在すると判断される。
[相違点④] 廣松編が[13][14][15][16]の右欄に収めた{5}a,{5}b,{5}c,{5}dをMEGA編は5)[Fragment](S.135~136,139)として収める。
[廣松編・MEGA編の本文の各々のページは同一単語群で連結する] 廣松編およびMEGA編の本文は共に、マルクスが行ったページづけ[8]~[35],[40]~[73]、合計62頁において、すべての頁の文末とそのつぎの頁の文頭とが、同一単語群で連結しているという文献上の事実を、本稿筆者は確認している。
さらに、上記の三つの引用文で確認できるように、& をund に, 2語eben einander を1語ebeneinanderに印刷するなど、ネグリジブルな違いを除けば、廣松編もMEGA編も、上で引用した本文では全く同一である。
これらの事実は、廣松編およびMEGA編の本文が同一のテキストである極めて高い蓋然性を示している。
今後、両編の本文の一語一語の対応関係をすべて確認する作業によって、両方の本文ほとんど全てが同一であることが判明する蓋然性がある。筆者がすでに確認したことであるけれども、[33]末の個所で廣松編が’drei’と解読する単語がMEGA編では数字’3’と解読するという事例のように、同一視することができる個所も存在する。
このようにみてくると、廣松編およびMEGA編の「フォエルバッハ編の編集=草稿配列」には、喧伝されているよりは、相違点が遙かに少ないと判断される。むろん、再度確認するけれども、廣松編はアドラツキー編に依拠し、それを再編成したものであるという大きな制約をもつものである。その本文に帰着する推敲過程の様々な異稿が如何に連結しているかについては、まもなく刊行されるといわれる「Online版」によるべきであろう。
けれども、フォエルバッハ編の草稿配列が上記の相違点①②③④を除けば、廣松編およびMEGA編が共に、上掲の62頁の範囲において本文の各々の頁の文末とつぎの頁の文頭が同じ単語群によって連結しているという文献上の事実は、廣松編とMEGA編の本文には、決定的な違いは存在しないことを強く示唆する。その根拠は、廣松編もMEGA編も、「フォエルバッハ編の大半の主要な部分の草稿にマルクス自身が[8]~[35]および[40]~[73]のページ番号づけをした事実」に依拠したことによるだろう。
このような否定しがたい二つの文献上の事実にもかかわらす、草稿そのものの解読に依拠したMEGA編の本文には、廣松編に依拠したマルクスたちの歴史観が根本的に転倒するような個所が存在するのであろうか。存在するのであれば、それを個別具体的に明確に指摘することが、マルクス学の進展に寄与するのではなかろうか。
[2]『ドイツ・イデオロギー』の『資本論』形成史上の位置
それでは『ドイツ・イデオロギー』は、なぜ執筆されたのであろうか。
渡辺憲正は当該第7章でその動機について、いわゆる「疎外された労働」における私的所有…ここで、ハナ・アーレントの「労働」概念と関連して、「近代的な私的所有」とは何かが厳密に規定されるべきであるけれども…その近代的に私的な労働に対する支配の記述(渡辺187)に注目し、所有形態と労働の支配の諸形態の研究に進んだという。渡辺の判断は概括的には妥当するものであろう。
[『経済学・哲学草稿』に胚胎する『資本論』] しかし、『経済学・哲学草稿』におけるマルクス自身の理論的探究はもっと緻密である。すなわち、『経済学・哲学草稿』の三つの草稿ならなる国民経済学批判は、つぎのようにすぐれて体系的である。その体系的批判がつぎに「原蓄論および所有諸形態論」を要求し、『ドイツ・イデオロギー』の特にフォエルバッハ編の史論執筆を促すのである。
『経済学・哲学草稿』「第1草稿」「前半」は、「賃金・利潤(利子)・地代」という三大階級の「収入の比較分析」=関連づけである。これは『資本論』第3部の最終編「三位一体範式」の祖型である。
続く「第1草稿」「後半」の「疎外された労働」はつぎの4つの規定からなる。
第1規定「労働生産物からの疎外(結果)」→
第2規定「労働そのものにおける疎外(過程)」→
第3規定「類生活からの疎外(人間と自然との分離=疎外)(前提)」→
第4規定「人間の人間からの分離=疎外[本源的共存体の解体=分離](前提)」。
注目すべきことに、第3規定及び第4規定は第1規定と同じ(結果=前提)である。つまり、マルクスは、カントが『純粋理性批判』でいう「下向する系列」(B388) の方法を駆使して、賃金労働者の観点から、彼らの労働の「結果」から「過程」を経て「前提」へ遡及し、その「前提」は「結果」と同じ労働者の労働生産物からの「疎外=分離」にほかならないことを確認しているのである(内田弘「『資本論』と『純粋理性批判』」専修大学社会科学研究所『社会科学年報』第50号2016年3月、75頁を参照)。
すなわち、「結果→過程→前提=結果」という、「過程」が回転対称性(rotational symmetry)の軸をなす構造を分析しているのである。この順序を反転すると「前提→過程→結果=前提」となる。このような対称性をもつ順序はまさに、同じ自己を結果にもたらす「再生産過程」にほかならない。「疎外された労働」とは、「賃金労働者の観点からする再生産過程論」である。つづいてマルクスは失われた草稿で「資本家の観点からする再生産論」を書いたと推定される。この複合観点も対称的である。
[『国富論』ノートと『経済学・哲学草稿』] さらに「第3草稿」の考察では、スミス『国富論』冒頭の分業論から引用し、最後にシェクスピアの「アテネのタイモン」の貨幣呪詛の件を引用しつつ「貨幣」を論じ『経済学・哲学草稿』を閉じる。渡辺は論及していないけれども、このような「下向する系列」(カント)は、マルクスが『経済学・哲学草稿』執筆にさいしてノートを取った『国富論』第1編の「第1章 分業→第4章 貨幣」の順序による批判的考察である。『国富論』では「第1章分業論→第2章交換本能→第3章市場→第4章貨幣→第5章単純商品→第6章商品資本[冒頭にマルクスに原蓄論(=「先行する蓄積the previous accumulation)」を示唆した記述があることに注意]…」と続く。その「第4章貨幣から第5章単純商品へ」遡及し、経済学批判体系の冒頭が単純商品(「(1)価値」)であることは『要綱』末尾で決定する。
こうして『パリ草稿』での国民経済学批判はつぎのようになる。
「三位一体範式→再生産→社会的分業→貨幣」
この順序は、《『資本論』体系の「結果」から「過程」を経て「前提」に遡及する順序》の基本的なデッサンである。しかし、これだけでは国民経済学への批判的体系は完結しない。欠如していることがある。その最も基礎的な空白は、第1に貨幣は如何に発生するかという論証問題(価値形態=交換過程論)である。それは剰余価値論などとともに、『経済学批判要綱』(1857-58年)で実行される。『哲学の貧困』(1847年)の第1章第1節で「使用価値と交換価値の対立」が論じられるけれども、(順序「第4章貨幣論→第5章単純商品論」を逆転する)《価値形態=交換過程論》は未完成である。第2に、「国民経済(近代資本主義)」は《如何に歴史的に生成したか》という問題、第6章商品資本論冒頭でいう《先行する蓄積=原蓄問題》である。この第2の課題こそ、マルクスをして『ドイツ・イデオロギー』を書かせた(歴史)理論的な動機である。マルクスは「『国富論』ノート」を念頭におき、それを国民経済学批判の基本線にしている。このノートを1860年代の『資本論草稿』執筆までにも活用している。
渡辺は『経済学・哲学草稿』から『ドイツ・イデオロギー』に継承される「運動としての共産主義」が主要な動機であると考えている。けれども、『ドイツ・イデオロギー』で始めて論じられる「本源的共存体」から三つの所有形態への過去の移行は、共産主義運動によるものではない。『経済学・哲学草稿』から『ドイツ・イデオロギー』フォエルバッハ編への移行動機は、すぐれて歴史理論的課題、すなわち原蓄論および所有諸形態論である。渡辺は『ドイツ・イデオロギー』以後のマルクスの歴史理論について論じてはいない。主題限定のためであろう。
[山中隆次編訳『マルクス パリ手稿』の重要性] 渡辺は『経済学・哲学草稿』のテキストを『マルクス・エンゲルス全集』第40巻から引用している。ところで、山中隆次編訳『マルクス パリ手稿』(御茶の水書房、2005年)は、「ミル評注」を『経済学・哲学草稿』の第1草稿と第2草稿の間という正確な位置に挿入し(インゲ・タウベルトが「ミル評注」を『経済学・哲学草稿』の巻末に編集したことを修正)、草稿全体の執筆過程を正確に再現した編集版であり、かつ正確平明な訳文の決定版である。マルクスの1844年の経済学批判の研究は、この山中編訳に依拠すべきであろう。
[鶴見俊輔は東京女子大学「丸山眞男文庫」開設記念講演で、「論文の質は、どのテキストのどの個所を引用しているかで確認できる」と2回、強調した。その注意に感銘した本稿筆者は「その引用はどの版から行われたかで、引用の確実性が判明する」と付言する。鶴見はハーバード大学でクワインをチューターにパース全集を読み、『プリンキピア・マテマティカ』の共著者ラッセルとホワイトヘッドの講演を聴いたことがある(黒川創『鶴見俊輔伝』新潮社、2018年、104頁)]。
つぎに『ドイツ・イデオロギー』以後の『資本論』形成史を簡単にたどろう。
[3]『哲学の貧困』執筆と『ドイツ・イデオロギー』
マルクスは『ドイツ・イデオロギー』(1845~46年)のあと、『哲学の貧困』(1847年)の原稿を執筆する。そのさい、エンゲルスに『ドイツ・イデオロギー』の草稿を用いることを認めて欲しいとの書簡を送った。エンゲルスの返事の書簡が残っている。それはつぎのようなものである(1847年1月15日パリ)。
「君は、僕に遠慮しないで(meinetwegen)、僕たちの刊行予定の本(unsere Publikation)から先に欲しいだけ活用しても良い。これは、いうまでもないことだ」(MEW, Bd.27, S.75)。
このエンゲルスの書簡が示唆することは、マルクスもエンゲルスも共に『ドイツ・イデオロギー』を彼らが共同執筆したものであると認定していたことである。
[『哲学の貧困』の原蓄論] 『哲学の貧困』には原蓄が独自に配列されている。『哲学の貧困』前半第1章に原蓄論はない。後半の第2章第2節の分業・機械論、同第3節の競争・独占論、同第4節の地代論、同章最後の第5節の賃金労働者団結論・将来社会像には各々、原蓄がついている。この原蓄配列は『資本論』と異なるし、「1860年の資本章プラン草案」が剰余価値論の最後に原蓄論をおいている点とも異なる(内田弘「『資本論』形成史における『哲学の貧困』」専修大学『社会科学年報』第47号、2013年を参照)。
『経済学批判要綱』(1857-58年)では、独自な順序「再生産→原蓄→所有諸形態」を詳細に、ついで簡潔に圧縮して再論するという順序で展開する。
[唯物史観と朝河貫一の「入来文書」発見] 『資本論』には原蓄論がついているけれども、諸形態論は省かれている。なぜか。ゲルマン的形態のみが近代資本主義を生む形態であるとの判断(『要綱』諸形態論)が妥当しないのではないかというマルクスの理論的反省によるのであろうか。ここで、矢吹晋が重要性を力説する、日本中世荘園における直接生産者が、(「唯物史観の公式」の機械的当て嵌め論が主張するような)《奴隷ないし隷農》ではなく、《土地の自由な個人的所有者》であったことを実証する「入来(いりき)文書」(朝河貫一の発見)の意義が想起される。唯物史観論者は戦後日本史学への反省が必要ではなかろうか。】
[初期マルクスと中期マルクスが観察した現実の段階的違い] マルクスが『要綱』執筆で活用した「24冊のロンドン・ノート」(1851-53年)は、1840年代イギリス産業革命を終結して、世界市場を展開しようとするイギリス・ブルジョアジーの世界支配(Pax Britannica)の意志を誇示する「1851年ロンドン万博」にマルクスが衝撃を受けて、資本主義を研究し直した記録である。1840年代のマルクスの観察した資本主義は(英仏)産業革命過程の資本主義であり、1850年代以後の資本主義は、その後の本格的資本主義である。この段階差は将来社会像を規定する。[本稿全体の参考文献] 内田弘「『ドイツ・イデオロギー』の編集問題・原蓄論・物象化論」『情況』2003年4月号。(以上)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座http://www.chikyuza.net/
〔study1014:190108〕
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