1950年前後、何して遊んでた?金井さんのエッセイ集を読んで
- 2019年 2月 7日
- カルチャー
- 内野光子
金井美恵子さんから、お送りした拙著への感想と『暮しの断片(かけら)』(平凡社)という、新著エッセイ集をいただいた。画家の金井久美子さんとの合作の、いわば、大人の絵本ともいえる素敵な本だった。猫のエッセイや絵も多く、ねこ派の読者には、魅力満載の本にちがいない。私は、金井さんとは小学校ですれ違うくらい年上なので、暮らしの中のさまざまな記憶で重なることが多いのはやや意外にも思うのだった。私の生家はくすり屋で、池袋の焼け跡から再スタートしているが、1940年代後半から50年代末までのくすり屋にまつわるモノの記憶をたどって、このブログでも、昨年の夏ころ、だいぶ長々と書いてしまった。
『暮しの断片』はどこを開いても、なつかしいモノや光景に出会うことができて楽しかった。なかでも、「あそびの記憶」として、一月「雪うさぎ」で始まり、二月お手玉という風に月を追って、竹馬、おはじき、はなかんむり、しゃぼん玉、七夕飾り、西瓜割り、竹とんぼ、影踏み、縄跳び、十二月の「ごむまり」が紹介される。エッセイは、どれもなつかしく、あのモノのない時代、それに連なる私の思い出が、なんともあったっかいのが不思議だった。
十月影踏み、十一月縄跳びの頁
金井家で17年間暮らした黒トラ「トラー」
池袋の焼け跡の原っぱで、盛んに遊んだのは、かくれんぼや鬼ごっこはもちろんだが、缶蹴り、ゴム段、大人自転車の三角乗り、馬飛び、縄跳び、石蹴りなどだった。竹馬は、まず、竹などの調達は難しかったのだろう、同じ高さの空き缶を見つけ、穴をあけ、ひもを通した「缶ぽっくり」を作って、替わり番に、歩いたり、かけっこをしたりした。空き缶もなかなかの貴重品だった。
戦前のあそびの延長だったのだろう、なんの疑問を持つこともなく、「スイライカンチョウ(水雷艦長)」で走り回り、まりつき歌「あんたがたどこさ」とともに「イチレツダンパンハレツシテ、ニチロセンソウハジマッタ・・・」と、歌っていた。さらに、じゃんけん遊びでは「グリコ・チヨコレイト・パイナツプル」と大声をあげていたものの、グリコやチョコレート、ましてパイナップルなど口にしたことも、見たこともないものだった。
しゃぼん玉やまりつき、お手玉、おはじき、自転車乗りなどは、一人でも少人数でも遊べるけれども、「通りゃんせ、通りゃんせ」や「はないちもんめ」などにしても、かなりの人数がいないと面白くはないだろう。そのころ、焼け跡に建つ家は、まばらだったし、だいぶ復興した後でも、遠くから子どもが集まって来たし、友達の友達で、名前を知らない子とも遊ぶことがあった。
家の中での遊びといっても、どの家もバラック住まいで、家の中で、子どもが集まって遊ぶスペースなどなかった。焼け跡のコンクリのたたきなどが残っているところやバラックの軒先にゴザを敷いて、お手玉やおはじき、ままごとやぬり絵、着せ替え人形と、少しは女の子らしい遊びもした。家族合わせなどというゲームをした記憶もある。ぬり絵については、かつて下のような記事を書いたこともある。
〇書庫の隅から見つけた、私の昭和(1)きいちのぬりえ
2010年4月13日
http://dmituko.cocolog-nifty.com/utino/2010/04/post-a273.html
着せ替え人形というのは、女の子と家族のひと形と様々な服の絵が描かれている一枚の紙を絵の通りに切りぬいて、服の肩には、のり代のような白い紙が突起しているので、それを折り曲げて、人形に着せては、取り替えたりして、セリフ入りの芝居をさせたり、着せたい、好きな服を画用紙に描いたりした。
家族合わせというのは、お医者さん、政治家、会社員などの父親の職業別の家族、両親と息子と娘のカードをバラバラにしてカードを配り、順番にカードのやり取りをして、早く多くの家族をそろえた方が勝ちということだった。各家族が職業に合った、ダジャレのような名字や名前が付けられているのが面白かったのだが、なかなか思い出せない。当時の家族観や職業観が理想や期待を交えて、如実に反映していたのではないか。
思い出は尽きないが~。
ネットでも調べてみよう。
初出:「内野光子のブログ」2019.02.06より許可を得て転載
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
〔culture0762:190207〕
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