《異沌憤説》1 教育するって《悪いことだ》と考える必要がある
- 2019年 2月 19日
- 評論・紹介・意見
- 長谷川 孝
2018年の年末のある会合で、この年の4月から小学校で始まり、19年4月からは中学校でも実施される「特別の教科」とされる道徳教育について話をしていて、「教育をすることは《悪いことだ》と考える必要がある」という言葉が口を突いて出ました。頭の中にはあっても、発言したことはない言葉でした。もちろん、教育することがすべて悪いわけではありませんが、学校教育は今、《悪いこと》という認識が欠かせない状況になってきていると思うからです。
❖“国家による教育”の「再生」が著しい状況
アベ政権による教育「再生」政策が進められています。昨年末に亡くなった大田堯さんは「教育再生というが、教育は死んでいますか」と言っておられたそうですが(朝日2019・1・26夕刊)、一体、何を「再生」しようというのでしょうか。はっきりしている、と言わざるを得ません。戦前の学校と教育を、です。国家が管理・差配できる。政治が介入できる。国策の最先端を担う学校と教員。国家が教育できる制度、国家の教育権の「再生」です。
こうした「再生」がじわじわと、しかし激しく進んでいる、という危機感が、「教育をすることは《悪いことだ》という認識」の必要性を強く感じさせるのです。
教育の国家による利用は、保育園・幼稚園から大学・大学院まで、すでに広がりつつあります。例えば、高等教育無償化などという、一見よさそうに聞こえる政策も、教育への管理・統制と役立つ人材づくりのための利用が、組み込まれています。学校教育の統治機関としての利用であり、教育を統治の手段とする動きです。そして、こうした動きがじわじわと進んだからこそ、「(教育が)国の未来を切り拓く上で極めて重要な役割を担うものであることに鑑み」などと加える自民党の改憲案が出てくるのです。つまり、状況に合わせた改憲案であるのです。
❖「教育」という言葉は明治時代につくられた支配用語
学校教育制度は、明治政権が富国強兵を支える、役に立ち従順な国民をつくる装置として設けたもので、そこでの「教育」とは「専ら学ぶ者をして他人の指導を遵奉せしむるもの」と、初代文相だった森有礼が言ったというように、教育を受ける者を支配し、教育が求めるような国民に仕立てる行為です。だから戦前の教員は、教え子を戦争に駆り立て、満蒙開拓団に送り込み、国策の先導役・執行役として働いたのです。
こうした国策の教育だけでなく、または「遵奉させる」ほど正しく善いこと(もちろん国家にとってですが)を教えていたからか、教育者という人たち(特に教育をしたがる人)は、しばしば、自らを正義の人・正しいことを与えている者だと思い込んでいるところがありそうです。だから、その「正義」を教育して、教育を受ける人をその「正義」に導こうと(それに向けて「変えよう」と)するのが、教育の使命だと信じていたりします。
だけれども、教育がどれほど間違ったことを教えてきたかは、戦前のみならず戦後教育でも事例は少なくありません。本来、教育は正しいことや正解を「教え与える」営みではなく、学ぶ人(個人)が自ら手繰り気づくのを支援し助言し時には批判もする営為のはずです。教えたがり屋の「教育」は、迷惑です。禅の修行では、師匠が弟子に正解を教えることは、弟子の修行を邪魔することだと、言われたそうです。自分で気づいて解かってこそ、真の悟りだからです。
❖正義の味方は“怖い人”、教員は“正解の配達人”になるな!
正義の味方は、危ない人です。鞍馬天狗は「正義の味方だ、よい人よ」だそうですが、尊王攘夷派テロリストの味方、新選組の裏返しとも言えます。自らを正義の人と思い込んでいる人は、自分と違う人を好ましく思わず、排除しがちになりやすいようなので怖いのです。
教員は、正義の味方、正解の配達人になってはいけないのです。子どもたち、学生は、教員を「正解の保持者」と見させられており、その正解に合わせて自己形成しようとさせられます。教員は、自分が描いたように(つまり誘導したように)教え子が育ったとしたら、とんでもなく恐ろしいことだと認識すべきです。教育することは《悪いこと》でもあるのです。先生に疑問や批判を言うことは「恐ろしいタブー」という現実がある学校でもあるわけですから。
2019・2・17
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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