神仏習合、廃仏毀釈、そして再習合へ
- 2019年 3月 1日
- 評論・紹介・意見
- 岩田昌征
明治維新150周年が盛んに言われたこともあって、おそまきながら、2冊の関連新書を一読した。古川順弘著『神と仏の明治維新』(洋泉社、平成30年)と鵜飼秀徳著『仏教抹殺』(文芸春秋、平成30年)である。
明治維新最初期の神仏分離令・神仏判然令が維新権力中枢の政策意図を乗り越えて、寺院、仏典、仏像、仏画の大破壊に展開して行く様相を簡潔に叙述している。
『神と仏の明治維新』は、日吉神社・大神神社から興福寺・東大寺を経て琉球八社に至る有名寺社数十の神仏分離・廃仏毀釈を淡々と具体的に紹介する。これらの事実を知るだけで、すなわち江戸時代まで千年以上続いた神仏習合的寺社のあり方を具体的に知るだけで、今日新年の初詣に行った場合の心持も違って来よう。
私も毎年近所の代田八幡に初詣に行くが、環七をはさんで隣接する圓乗院との一体的歴史関係を考えたことがなかった。私の家から富士中学に通学していた頃、森厳寺と北澤八幡が接続して存在する事の意味を全く知らなかった。時代劇映画を撮影する場合、今日現在の寺院や神社の景観をそのまま利用するならば、時代考証に偽りありと言うことになろう。しばしば「創られた伝統」が特に左派系の知識人によって強調される。その通りだ。神仏分離後の神社と寺院は、明治近代の創造物という性格を濃厚に持つ。
『神と仏の明治維新』がその副題に「そのとき、寺院、神社、霊場では何が起きたのか?」とあるように、一見観光裏案内的性格の書物であるのに対して、『仏教抹殺』は、書名の通り抹殺された側からする抗議的明治維新論であり、その副題の通り「なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」を追求する。思想書の性格を有する。
『仏教抹殺』には、廃仏毀釈による仏教寺院の消失状況が数字で提示されている。慶應4年(1868年)3月以降明治元年(1868年)10月まで12の神仏分離令布告が出された。そこから派生した廃仏毀釈が完全に終息するのは明治9年(1876年)頃である。
その間に、日本全国の寺院数が9万寺から4万5000寺に半減。鹿児島県では1066寺が0寺に、破却率100%。高知県では613寺が206寺に、破却率66%。松本市では破却率76%。佐渡では539寺が80寺に、破却率85%。隠岐では106寺が0寺に、破却率100%。勿論、その後に再建や新寺建設が行われ、人口3千万の時代の9万寺に及ばないものの、現在人口1億3000万の時代、7万7000寺である。
『神と仏』では薩摩藩を寺院・僧侶がともにゼロになったケースとして紹介している。しかしながら206ページのうちわずか3ページである。それに対して『仏教抹殺』では薩摩藩について250ページのうち25ページも割いている。
薩摩藩の廃仏は、明治維新以前、島津斉彬から始まっている。蘭学や国学に傾倒し、国学によって政治イデオロギー的統一を目指し、蘭学によって薩国の軍事・産業の近代西洋化を実現しようとして、その財源として仏教寺院の物質的富を収用したようである。斉彬の没後も廃仏毀釈の機運はより過激になる。寺院から徴収した金属を使って、天保通宝を偽造し、軍備拡充を図った。慶應元年(1865年)に寺院の廃寺化が本格化する。明治2年(1869年)、歴代薩摩藩主の菩提寺すべてが廃寺となり、軒並神社に変えられる。本書に第12代藩主『忠義公史料』から、「明治2・3年ニ至テ、藩内一掃シテ、一宇ナク、一名ノ僧ナキニ至レリ、実二古今未曾有ノ快挙ナリ」が引用されている。
神仏分離令から廃仏毀釈への動乱を主導した国学的神道思想とは何か。それは、聖徳太子あるいは聖武天皇以来連綿と持続して来た天皇家の仏教信仰――幕府によって押し付けられたものでは決してない仏教信仰――から天皇家と皇族達を切り離してしまう社会的威力を発揮した。近代社会形成の思想ではなかったにせよ、近代社会形成の触媒力であった。それは、イギリス革命の清教、フランス革命の理性神教、ロシア革命のマルクス・レーニン主義、そして中国革命の毛沢東思想とクロスする一点がある。それは、旧体制のイデオロギー装置(カトリシズム、仏教優位の神仏習合、ロシア正教、儒家法家の清官思想)がその生命力を衰弱させているが、まだ自然死に至っていない時期に新体制を目指すイデオロギーが内蔵する過去への憎悪である。未来社会の担い手たる思想的キャパシティがどれだけあったかに関しては夫々に差が大きい。
要するに、私達日本人もまた近代社会建設の始点において、文化遺産の非創造的破壊を大規模に実行していた。レーニンが内戦期に正教会資産の没収を行い、スターリンがモスクワの大聖堂を爆破し、処々の教会を倉庫として活用した。また毛沢東が文化大革命で文化破壊を扇動した。そのような他国他民族のマイナスを嘲るだけでは済まない。廃仏毀釈がなくて、神仏習合の精神世界がそのまま残っていたならば、近代日本の誕生はどのような形であり得たのかを自問自答しつつ、他国他民族の歴史を考えねばなるまい。
同時にまた、近代以前の歴史的経験が未来に生かされることもあろう。
私が提案するM系列の社会システムとP系列の社会システムとC系列の社会システムの三異種節合構成は、神仏習合の経験ある社会における方が社会心理面で実現性が高いだろうとは言える。
平成31年2月26日(火)
〈記事出典コード〉サイトちきゅう座 http://chikyuza.net/
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